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「お客様はどうしてこちらに引っ越されたんですか?」
「姫野です」
「姫野さん」
『苗字可愛いね。名前は?』
いちいち記憶の中に顔を出す湊人。追い払って扉を閉めると、鏡の中の幸田さんと目が合った。
「言いたくないならいいです。詮索してる訳じゃないので」
大丈夫と笑おうと思ったのに、固まってしまった。熱いものが込み上げてくるのを必死に抑えて、ようやく作り笑いを浮かべた。
サロンの同僚達もそれぞれ接客で楽しげにおしゃべりしている。この席はひとつ空席を挟んでいるので、多分聞こえないだろうし……。
「付き合ってた人と別れたんで。気分転換に」
「そうでしたか」
「というか」
気取られないようにしながら深呼吸して、またハサミを動かした。
「逃げてきました。相手、私の家知ってたんで」
「……『逃げて』って。DVとかでは?」
「いえ。美容院の常連さんで。名刺渡したら、その日にメールくれて、次の予約取ってくれて。毎月最後の金曜日に来店して、いつも私を指名してくれて。でも、一年くらいして、二股かけられてるって気づいて」
本当は不倫だった。でも言葉にするにはあまりにも痛くて、敢えてそういう表現に留めた。
思わず涙がこぼれてしまって、慌てて手の甲で拭った。手に付いていた髪が頬に引っ付く。
「すみません、驚かせて」
「驚いていません」
幸田さんの口調は少し尖っていた。
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