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好きな人が出来たので別れようと言った。
彼女は少し目線を下に落とし、声を出さずにコクンと頷いた。
横顔だったので表情は窺いしれない。
たぶん予想していたのだと思った。
いや、もしかして僕から切り出すのを待ってたのかもしれない。
鋭い眼光で僕を射り、憎しみの言葉で罵倒して力いっぱい頬を引っぱたいてくれたら、どんなに楽だろう。ジンジンとした痛みを感じたなら、少しは彼女の傷も癒してあげられるのに。
僕は愛を知らない。彼女のことが大切な人ということは確かなのに、愛しているかと聞かれると明確な答えがない。嫌いじゃないと言うしかない。
彼女は愛してる?とは聞かないので、愛してるとか好きだとかを考えることがなかったし答えることもなかった。それでも一緒にいたのは彼女が僕を好きだったから。
すごく身勝手で独りよがりの言い分だ。
”好きな人が出来た”も嘘だと気づいている。僕の100を理解して、僕の100を許容してくれる。
それでも彼女を愛せない。苦しくて吐き気がするほど、もがき苦しんだ。
僕の母親は長い間、精神病院に入院していた。
7歳の誕生日を楽しく祝った一週間後に父親が交通事故で亡くなった。塞ぎ込む母に子供の僕は何もしてあげられなかった。母がだんだん壊れていくのを目の当たりにして、自分も壊れそうだった。荒れていく生活を守るだけで精一杯だったし、不安で押しつぶされそうになるのに必死に耐えた。
母が自分の爪をペンチではがして救急車を呼んだ。一人残された僕は血だらけの部屋を泣きながら掃除した。絨毯にこびり付いた血痕が、殺人事件の現場のようだと思った。いつまでも黒ずんだ跡が残って消えない。
傷は治ったが憂鬱な心までは晴れず、母は治療のために精神病棟に入ることになった。
残された僕を引き取って、高校まで育ててくれた親戚には感謝している。養護施設に行くことも検討されたが、5人もいるんだから一人くらい増えても一緒だろ、と言ってくれた叔父にお世話になった。まだ小学生だった僕に選択権もなかったが、それなりに家庭のぬくもりも与えてくれた。
自分を守るために、強固なバリアーに身を屈めて息をひそめる。賑やかな家族に属さない僕は透明人間のように、影を消して生き抜いた。
3年前に亡くなった母を最後に、家族といえるものを無くした。いや家族の形態があったのかさえ怪しい。
彼女がソファで読んでいた本をパタンと閉じて、お昼なにが食べたいかと聞いてきた。こちらから別れを切り出しといて、これ以上甘えるのもヘンだと思い「適当に食べるよ」と答えた。
「それは食べないと言っているのと同じだよ。箸やお皿がどこにあるかもわからない癖に、これからも、ずっとその適当でいいわけ?」
ちょっと痛いところを突かれて狼狽えた。
「腹が空いてないと思っただけだよ」
「あのね、普通の人は朝起きて歯を磨いて、仕事に行って、お昼食べて夕飯食べて風呂に入って寝る。いいんだか悪いんだかなんて関係ない、それが生きていくってことなの。誰もがドラマチックな人生なんて送れない、不幸とか幸せなんてホンの一瞬の出来事だよ。その普通の日常をもっと大切にしなよ」
「・・・ごめんなさい」
何に謝ったのかわからない。
「忘れてるみたいだから言っておくけど、きょうはエイプリルフールだよ。好きな人いないの知ってる。私は隣にいてイイ人でいてあげるから、なにが食べたいのか言ってみて」
「たらこスパゲッティ」
「言えるじゃん」
彼女は僕の魂を抜き取って手柄を立てた戦士のように顔を輝かせた。ごめんなさいは、きっとこの人と僕をめぐり合わせてくれた神様に言ったんだと思う。もう別れるなんて言わないよ。
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