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10
水は冷たかった。
まず感じたのは衝撃、そして水を思いきり飲み込んでしまって、むせながらもがいた。どうしよう、ドレスが重くて浮き上がらない!
焦りでパニックになっていると、誰かが私を呼んだ。
「姫! 掴まって下さい!」
何かが手に触れ、無我夢中でそれにしがみつくと、強い力で引き寄せられた。
「落ち着いて、姫。ほら、すぐに引き上げるから」
また別の力が加わる。
暖かい手に引き上げられて、息苦しさがなくなる。気が付けば私は芝生の上で仰向けに倒れていた。
「ああ、良かった……! 気が付いたんだね、姫……」
「……ゆ、ーり、さま」
「大丈夫。無理して喋らなくていいよ」
すぐ傍にいたのはユーリ様だった。淡い銀髪も白い服も全部ぐっしょりと濡れている。
それ以上に驚いたのは、ユーリ様が今にも泣き出しそうだったからだ。
ユーリ様は私の手を強く握りしめ、心底安堵したように吐息をもらし、ささやいた。
「本当に、無事で良かった……心臓が止まるかと思ったよ」
「ユーリ、さま」
「愛してる、リーズシェラン。お願いだから、もう二度とこんな風には驚かさないでくれ」
銀髪から水滴が滴り落ちてユーリ様の頬を伝う。まるでユーリ様が泣いているようで、なんだかまた息苦しくなった。
遠くから、アランの私を呼ぶ声が聞こえる。ああ、すごく怒ってる。
レナードは……レナードもびしょ濡れね。さっき私を引き上げてくれたのは、レナードとユーリ様だったのね。
安心したからなのか、だんだんと意識が薄れていく。
ユーリ様やアランや、レナード達が私を呼んでる。でも、最後まで耳に届いていたのは、そのどれでもなく。
いつまでも狂ったように笑う、エルフィナの笑い声だった。
私がエルフィナに池に落とされてから二日が過ぎた。
アランに厳命されて私は部屋で大人しくしている。確かに最初の日は微熱があったけど、あれはショックのせいだろうし、水は冷たかったけどまだ冬じゃないから大丈夫。風邪もひいてない。
だが、なにしろ国王命令だ、逆らえない。
暇でごろごろしていたら、アランがやってきて今回の事件の事をいろいろ教えてくれた。
なんと、私は以前から命を狙われていたらしい。なにそれ、終わった後で言われても!
姉様に知らせずに処理したかったので、って……犯人はエルフィナ、なの?
アランの話によると、どうやらエルフィナは単に利用されただけのようで、主犯は別にいるらしい。
「安心していいですよ。もう手出しはさせませんから」
と、いい笑顔で言ったアランが怖かった。
そして、エルフィナは離宮に閉じ込められたらしい。たぶん、このまま降嫁してもう二度と合う機会もないだろうとの事。
アランの怒りようから考えると、だいぶ穏やかな処置だと思う。誰かが取り成したのかも知れない。
私の護衛や侍女にはとりたててお咎めなし。ただし、レナードは代表として謹慎処分の上、アランにかなりやり込められたらしく落ち込んでいた。うーん、私も油断していたし、なにより私を池から引き上げてくれたのはレナードなんだから、そんなに気にしなくてもいいけどな。
そして、ユーリ様。
「姫、調子はどうかな? 今日はアマーリエの画集を持ってきたよ。あと、お菓子も。お茶にしよう」
……毎日やってくる。しかも、アラン以上に顔をみせる。朝、昼、晩、と三回だ。おはようからおやすみまで、ってどこぞの獅子ですか。
「ユーリ様、私はもう大丈夫ですので……」
「駄目だよ、無理しちゃ。陛下にも身体を休めるように言われているよね?」
「それはそうですけど、もともと微熱が出ただけですし」
「またぶり返すかも知れないから安静にしておかないとね。さ、お茶が入ったようだよ」
……こんな感じで毎回押し切られる。アランといいユーリ様といい、私より何枚も上手うわてで厄介だわ……
だけど、もうこんな日々も終わり。私は人払いを望んで、リーリャも下がってもらった。
「返事を、もらえるのかな?」
「……はい」
この二日、ずっと考えていた。アランは私次第と言ってくれたけど、やっぱり私は。
「この国から……いいえ、アランから離れたくないんです。私がいなかったら、アランは一人になってしまう。私がいない方がいいんじゃないか、そう考えた時もありましたけど……」
脳裏に浮かぶのは、この国を出ようとした時の事だ。子供の頃のように、頼りなげだったアラン。すがりつくような眼差しに、彼の孤独を知った。
「今は、近くにいてあげたい。そう思っています。だから……私個人の意見としては、お受けできません」
国からの命令なら嫁ぐしかないけど。
そう思いながらも断った私を見つめて、ユーリ様はゆっくりと口を開いた。
「ひとついいかな?」
「はい」
「君が断るのは陛下から離れるのが嫌なだけ? それがなかったら?」
「……それは」
「もし、その問題がなかったとしたら、どうかな?」
「……もし、それがなかったら」
例えば、の話だ。ふと想像してみる。例えば、王族じゃなくて身分やら立場やらがなくて。前世のようだったなら。
口を開こうとして、また閉じた。
――あなたがいなかったら良かったのに。
エルフィナの笑い声が聞こえた気がした。エルフィナに言われるまでもなく、ずっと考えていた。
私がいなかったら、彼女は幸せになれたたろうか。アランもあんな暴挙にでなかっただろう。
私、私がここにいなかったら。
「――姫」
深い闇に沈むように考え込んでいた私を引き戻したのは、優しい声と手の温もりだった。
椅子に座っている私の前でユーリ様が片膝をついてしゃがみこみ、私を見つめている。
「……私、は」
「悩むことはないよ。例えば、だ。姫の本心が聞きたいんだよ。――少しでも私に好意を持ってくれているなら、聞かせてくれないか?」
ユーリ様は私の手をとり、包むように握りしめながら懇願した。
例えばの、話。私の本心は……
「……お受けしたと思います」
するりと本音が零れた。いつの間にか、一緒にいるのが当たり前のような顔でやってくるこの人を、私は……好きに、なっていた。
見かけと違っていたり、変わっていたりするけど、いつも暖かい気持ちにさせてくれる。そんな人だから。
私の返事を聞いて、ユーリ様は、この上なく嬉しげににっこりと笑った。
「――なら、なにも問題はないよ。リーズシェラン、君は私のものだ!」
「え? きゃあっ!?」
ユーリ様は立ち上がったかと思うと椅子に座ったままの私を抱きしめ、しかも抱き上げた!
「ちょっ、ちょっとなにを……!」
「あははは、いや、ごめん。嬉しくて! やっと君が手に入る。こんなに嬉しいのは初めてなんだ!」
「えええ!?」
断ったわよね? 私、きっぱり振ったわよね!?
や、やっぱりユーリ様はわけわかんない!
私を抱き上げたまま暫くユーリ様は大喜びしていたけど、ようやく落ち着いたらしく説明をしてくれた。ちなみに、私はまだお姫様だっこされたままだ。お姫様だけに……げふんごほん、なんでもない。
「えっ、こっちにユーリ様が来る? 婿入り? アランと約束してた? っていうか、賭けじゃないですか、それ!」
「あはは、まあそうともいうね」
「そうとしか言いません!」
なんと、今回の話ではユーリ様がこの国に婿入りすることになっていたらしい。アランが私を手放したくないなら、って事で。
ただ、それに対してアランが出した条件が“私がそれを聞かずに結婚に承諾するくらい好意を持つ”だったらしく……
「だから、大丈夫。これでなんの問題もないのだから、君は私のものだよ」
抱き上げられたままの私に、ユーリ様がささやく。至近距離で輝く碧の瞳が、低い声が、艶めかしい。
「え、いや、でも、え?」
私はといえば、あまりの急展開についていけてない。いや、こうやっていろいろ考えてるけど、それは現実逃避というかなんていうか。
「リーズ。返事は?」
耳のすぐ傍で甘い声が促す。私は小さく答えた。
「……この国に、アランの傍に、いられるんですよね?」
「君がそれを望むかぎりね」
エルフィナの顔が浮かんだけれど、ユーリ様が優しく微笑んで私の答えを待っているのを感じ、私は深く息を吸って答えを口にした。
「なら……お受け、します」
この人と、一緒にいたい。
そう、思ってしまったから……ごめんね、エルフィナ。
私が言いおわるか否か、ユーリ様は私を強く抱き締めて、それ以上の言葉を奪った。物理的に、唇ごと。
こうして、私の知らないところで繰り広げられていた殺害計画もアランとユーリ様の賭けも幕を下ろし、私は再びユーリ様と婚約を結んだのだった。
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