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 アッシュベルの第二皇子、ユーリが元婚約者、リーズシェランの国であるフルーレイルに短期とはいえ滞在を認められたのは、彼が重要な案件を持ってきたからだった。 「……憎らしい男だな。塩の街道を盾にとるとは」  揺れる燭台の灯りを見つめながら、アランは淡々と呟いた。表情にも声にも出ていないが、どこか剣呑な雰囲気が漂う。  手に持つ書類には、この国の重要な交易ルートである“塩の街道”に関する内容が綴られていた。  塩の街道とは、内陸国であるフルーレイルが海産物、特に塩を輸入する為に使用している街道である。  アッシュベルを経由することになる為、過去に何度かトラブルはあったが、他のルートは難所ばかりで安全に運べるのは塩の街道だけであり、今は同盟国で仲も良好なアッシュベルを経由するのに問題はない。  人間の生活に塩が欠かせない物である以上、塩の街道は非常に重要なのである。  もちろん、アッシュベルとの友好も、であるが。  ユーリが持ち込んだのは、その塩の街道の使用料金の見直しであった。  もともとその料金の値下げを条件にリーズシェランとの婚約が決まったのであり、それが破棄になった以上、再び見直し案がでるのは当然であった。  それに加えユーリはさらなる条件を突き付けてきたが、それをはねのけるのは難しかった。  一方的な婚約破棄をした側がされた側の言葉を退けるのには、それなりの理由がいる。お互いがぎりぎりのところまで踏み込み、こぎつけた折衷案。それが今回の滞在であった。  ――本当は、あんな男を大切な姉に近付けたくはない。  だが、自身が行った纂奪の余波はまだこの国を揺らしている。リーズシェランには知らせていないが、まだ磐石とは言い難いのだ。  なによりも大事な姉に穏やかな日々を過ごさせてあげたい。その為には、譲歩も必要だったのである。 「……姉様」  小さく呟かれた呼び掛けは、誰にも届くことなく、赤い絨毯の上に落ちて消えていった。 「ユーリ殿下、お茶がはいりました」 「ん、ありがとう」  王宮の客室。のんびりと寛いだ様子で手元の文書に目を通していたユーリは、リーリャに淹れてもらったお茶を飲み、ふと微笑んだ。  主の機嫌が良い理由を察してリーリャが話し掛ける。 「姫様と中庭を散策するお約束が出来ましたね。姫様は困っているご様子でしたけど」 「ああ。姫は相変わらず可愛いな。考えてることが全部あの瞳に浮かぶ。ふふ、明日はどんな話をしてあげようかな。前から興味があるという演劇かな、それとも最近気に入っているという作家の新作についてかな?」 「そうですね……姫様の好きなお菓子の話はどうでしょうか? 姫様は紅茶が使われたお菓子を特に気に入っておられましたわ」 「ああ、それもいいね。きっとまたきらきらとした目で聞いてくれるだろうね」  可愛いな、ともう一度呟き、ユーリはとろけそうな笑みを浮かべる。  リーリャも笑みを浮かべたが、すぐに口元を引き締めた。 「ですが……やはり、私を連れてきたのは不味かったのでは? アラン陛下だけではなく、姫様にまで疑念を抱かせてしまったようですし……」 「そうだね。だけど、同時に興味もひかれたはずだ」  ユーリは碧の瞳を細め、ここにはいないリーズシェランを思うように囁いた。 「私が何を考えているのか、どんな思惑があるのか。姫は気になっているはずだ。誰かと親しくなるには、まずこちらに関心を持ってもらった方がいい。……あまり時間はないからね」 「……そうですね」  ユーリがアランとの交渉で手に入れた時間は一ヶ月。  誰かの心を手に入れるには短かすぎる時間だが、ユーリの瞳に諦めの色は無い。 「一ヶ月で姫と再び婚約を結ぶ。――リーリャ」 「はい」 「君にも色々と動いてもらうよ」 「はい、如何様にもご命令を」 「うん。それじゃあ、まずは――」  皇子の画策は進む。それはひとえに、愛しい姫を手に入れるためのもの。  そして同時刻、リーズシェランはどうしていたかというと…… 「ねえ、もういいじゃない? このドレスで」  明日、ユーリと中庭を散策することになった為、侍女達によってどのドレスにするか、髪飾りはどれにするか、の衣裳選びが行われていた。 「いえ、そんな適当じゃ駄目ですよ姫様!」 「そうですよ! 姫様は少々控えめな容姿をなさってるんですから、ユーリ殿下に並んでも大丈夫なように気合いを入れて着飾らなくては!」 「……悪かったわね、控えめな容姿で」  乙女心を容赦なく傷つけられつつ、リーズシェランは着せ替え人形のようにドレスを着せられる。  鬼気迫る勢いの侍女に逆らう気力はすでに無かった。  こうして、三者三様の夜は更けてゆくのであった。
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