わたしのこども

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サカモトの母から電話がかかってきて別居中の夫のヒロキが死んだという。私は何をいえば良いか分からず黙ってしまった。 ヒロキが死んだ? 酒に酔って水路にはまり、そのまま死んだのだ。打ち所が悪く、その上水路の少しの水で溺れたようだ。打ち所が悪いどころか首が折れていたので、当然ヒロキは発見された時、既に死んでいた。状況は完全に事故だったし、検視とか医者の診断とか曖昧で、悪くいえば適当、もっと悪くいえばいい加減だったらしい。ヒロキが死んだその場所は以前にも同じようにそこで死んだ人がいた。なら、その場所を改修しておいて欲しかった。サカモトの父がことを大きくしたくなかったので結局色々がなあなあになった。葬儀は内々で行うので私には来なくて良いという。私は内々じゃないのか。 電話を切ってからしばらくぼんやりしていた。 ヒロキ。思い返せばちゃらんぽらんな奴だった。死んだのか。本当? にわかには信じられず実感が湧かない。命日はエイプリルフールだった。らしい奴。ヒロキが仕掛けた悪戯じゃないのか。 数日後、サカモトの両親がマンションにやって来た。何故か物凄くブッ細工な子供を連れている。舅がいうには、この男の子はヒロキが養子縁組したのだとか。 ええっ、私に何の断りもなく? 私は子供をまじまじと見た。 ジミー大西の顔にブルドックの顔を混ぜて潰し、そこにゴリラも加えてようやく形になった顔を巨大なガマガエルの身体にくっつけたような子供だった。ものすっごいブスだ。 額がひさしのように張り出していて眉は太くゲジゲジで逆立っている。その上の前髪も剛毛で前方に突き出している。そこまでして守られている目は小さく目つきが悪く、小さいのに三白眼で雨風からそんなに守ってやる必要は感じられない。鼻は団子でめり込んでいて口はタラコの上に拗ねたように常にとがらせている。子供のくせに何故か頬が垂れている。パーツが各所で突き出ているのに顔の印象は平らだ。鬼瓦のようにまとまっている。 小学校六年生だというが身長は四年生くらいだろうか。私は何年生の身長の平均がこのくらいなどという知識がないから大体の感想だけど。子供がないのでそういったことはよく知らない。チビなのに酷く肥満している。服装はまだ四月で肌寒いというのに半袖半ズボンだ。肥満児だから多分暑がりなのだろう。腕とか特に二の腕とか脂肪でたぷたぷしている。顔だけ年季が入っていて異様に貫禄がある。小さいおじさんだ。 何もこんなに醜い子供を養子にしなくても。 私たちが話している間、子供は話そっちのけで漫画を読みふけっていた。癖なのかしきりに前髪をカツラみたいにカパカパ動かしている。本のタイトルは『子どもも知りたい! お金に好かれるには?』。なんだ、その本。どういう本なんだ、可愛くない。本当のオヤジかよ。 舅が一つ提案してきた。この子供を私が引き取るなら、このマンションをくれるということだった。 マンション、欲しい。 このマンションは私とヒロキが結婚した時に舅がポンと買ってくれたのだ。名義は舅のままになっている。 うーむ。 私の実家は母と弟夫婦が住んでいるのでヒロキが死んだからといって私が帰る訳にはいかない。マンションをくれるというなら願ったり叶ったりだ。 もう一度、子供をまじまじと見た。ヒロキは何を思ってこの子供を引き取ったのだろう、可愛げが微塵もない。しかし私は子供を引き取らない訳にはいかない。一緒に暮らしてみれば可愛くなってくるかもね、と観念した。  この『かもね』は口癖だ。口癖には心の動きの癖が表れるものだ。こういう心の動かし方をしているから、私は駄目なのだろう。色々が自分で駄目だなあ、と感じる。安請け合いしがち、という事もこういった『駄目な事』の一つだ。流されやすい。私の外見は一見、気が強そうには見えるのだが、結局人の思うつぼになる。いつも、すぐに本性は見抜かれ、なめられる。 サカモトの両親は子供と子供の荷物を置いて、さっさと帰ってしまった。 ヒロキとは子供ができなかった。それに私はもともと子供が苦手だ。友達の子供にすらいい顔ができない。もうすぐ四〇歳になろうというのに私は子供の扱いができない女なのだ。私に子供なんて育てられるのだろうか。 その子供の名前はイサミという。両親は交通事故で亡くなったとか。そう聞けば可哀想と思えてくる。可哀想は可愛いに通ずる。子供といえども人間なのだし言葉も分かる年齢なのだから一人の人間として付き合えばいいのだ、途方に暮れることはないはずだ。 イサミはヒロキの部屋に勝手に荷物を広げてゴロゴロしながら漫画を読んでいる。もう自分の城にしている。いきなり態度がラージなんだよ、なんか腹立つ。泣き喚かれるよりはマシかと思いあきらめる。 その時ヒロキの部屋はほぼ空っぽだった。ヒロキは別居後も時々やって来て少しずつ自分の荷物を持って帰っていた。彼はそうやってこつこつ時間をかけて私の元から去って行った。そこに今は『成金オヤジ!』とか『きみもお金持ちになれる!』とかいうタイトルの漫画と駄菓子が散乱している。イサミは駄菓子をぼりぼり食べながら今は『叩き上げ一代記!』とかいう漫画を読みふけっている。コイツが読む漫画はタイトルの最後に必ず『!』が付いていなければいけないのか。イサミの横にランドセルが置いてあるのが不似合いで仕方ない。そのうち『四季報』とか『エコノミスト』とか『ダイヤモンド』とか読み始めるかもね。頼もしいじゃねーか。 しかしこの大量の駄菓子はどこから持ってきたのだろう。舅たちがイサミに小遣いをやったのかもしれない。舅たちのことだから大金を与えたのかもしれない。それならそれでいい。私は当分イサミに小遣いを与える必要がない訳だから。イサミが請求してくるまで金銭は与えないことにしよう。 駄菓子を食べ散らかして満腹になったのかイサミはそのまま眠り始めた。私は散乱するゴミを片付けてヒロキの部屋のドアを閉めた。 ヒロキの部屋にはベッドがあるし客用布団もあるから、取り敢えずはイサミが生活できる。デスクも残っているしデスクには電気スタンドもある。本棚もあるから漫画も仕舞える、大丈夫だ。自分に言い聞かせる。 ヒロキがいた頃、部屋はフィギュアや食玩やプラモデルだらけだった。元々この部屋は子供部屋みたいではあった。私の部屋もヘビやフクロウやジャガーなどのリアルな肉食獣のぬいぐるみだらけだから人のことはいえない。私は変なぬいぐるみが好き。 子供が去って新たな子供が来た、それだけだ。 ヒロキは私より一〇歳年下で可愛いタイプの男だった。ちなみに私は面食いなのだ。 ドアを少し開けてイサミを見てみた。脂肪でぷよぷよのガマガエルみたいな腕が見えた。まだ眠っているようだ。私は反射的に、 「うわ、こいつ、どうしてやろう」 と思ってしまった。こんな有様で、イサミのことを今後、好きになれるのだろうか。まだ会話らしい会話もしていない。児童養護施設とかに入れてしまえば舅との約束を違えることになる。 舅たちは何故かイサミのことを気に入っているようだ。イサミのその後を心配していた。私にならと思って頼みに来たのだ。なら、自分らで育ててよと思う。もしイサミを追い出せばマンションを返せとなるだろう。 ヒロキは何を考えてこんな奴を養子にしたのだろう。もともとヒロキは『何を考えているのか分からないタイプその一』ではあった。案外イサミとヒロキの気が合ったのかもね。 ヒロキは外で見かけるといつも変わった人とつるんでいた。ある時は英語も全くできないのに駅前で外国人と騒いでいた。中華圏ではなさそうなアジア系であろう人達で、みんな目がキラキラとして明るい笑顔の可愛らしい人達だった。ほぼボディランゲージで話していた。至極、楽しそうで私も混ざろうかと思ったくらいだ。 またある時は公園でホームレスのおじさんと酒を酌み交わしていた。 高価そうな服を着たワイルド系の人を家に連れてきて泊まらせたこともあった。私はヤの付く職業の人か、と思ったが小さい会社の社長さんだとか。高そうな香水を漂わせていたのが印象的な、とても優しい人だった。自分が怖がられているのを知っていて、ことさら優しくしてくれた。 ヒロキが良く分からない素性の人を連れて来ることはしょっちゅうで、皆とても個性的な、キャラ立ちした面白い人達だった。だけど家の物や金銭がなくなることもなく、皆怪しい外見に反していい人達だった。ヒロキは人間に関して嗅覚が発達していた。いい人が分かるのだ。 酒代もヒロキ持ちではなかった。ホームレスの人でさえヒロキに奢ってくれていた。人に可愛いがられる奴だった。そんなヒロキが何故一人で死んでしまったのだろう。まだ、どこかで虚言かなと思ってしまう。嘘をつかなくても別れてあげるのに、出ておいでよ、ヒロキ。    夕飯はありもので済ませた。食卓に座ってコーヒーを飲みつつテレビを見ているとイサミが起きてきた。私の顔を見るなり、 「おかーさん、お腹すいたー」 と、いう。 お母さん。私は少しこめかみがピクッとした。順応力高すぎてこっちがついていけない。 「これお食べ」  イサミにスーパーで買ってきたハンバーグ弁当を出した。大皿に移し替えてレンジで温めてやる。弁当の内容はハンバーグとグリルチキンとフライドポテトとナポリタンとバターでソテーしてあるコーンが少しとライス。イサミは内容が気に入ったらしく大喜びで食べた。インスタントのポタージュスープも作ってやった。イサミはご飯をお替りした。よく喰うやつ、見た目通りだ。  食卓を誰かと囲むのは久しぶりだ。最後にヒロキに会ったのはいつだったっけ、先月の中頃だったかな。ヒロキが荷物を取りに来ると夜中まで話し込んだりしていたものだ。別居しても二人の仲は良好だと思っていたのだ、私サイドは。  ヒロキとはスーパーで出会った。レジに笑顔がとても可愛い男の子がいた。それがヒロキだった。感じが良かったのでいつもヒロキのところに並んだ。  ある日、スーパーから帰ろうとしているとヒロキの具合が悪いか何かで帰るのが一緒になった。方向が同じだったので会話しながら帰った。 いくつなの。 はたち。 大学生なの。 フリーターだよ。 君、仕事ぶりいいよ。頑張ってね。 ありがとう。 これからもレジは君に並ぶね。 うん。 とかなんとかいっているうちにヒロキの家の前に来た。 ここがうちなんだ。  ヒロキはバツが悪そうにいった。その時の私はどうしてバツが悪いのかは知らなかった。ヒロキは市会議員の息子だった。そのことでコンプレックスを持っていたのだ。何が恥ずかしい訳でもない。でも私は政治とか権力とかそういったことに本当に無知で無頓着でうとかった。近所の人なら皆が知っていただろうけれど、私は知らなかった。 ここの子だったんだね。ここだとバイト先が近くていいじゃない。 後で聞くと、その時の私の様子にヒロキはビックリしたらしい。どういう様子をさしてそういったのかは聞きそびれた。 私んちは〇〇町なんだ。じゃあね。 うん。ばいばい。 それがヒロキには良かったらしい。どういうところが良かったかはやっぱり聞きそびれている。後日スーパーで私を見かけると子犬のように走り寄って来るようになった。外まで見送ってくれて、 今度、飲みに行こうよ。 とか、  あの映画見た? 一緒に行かない? とか、いうようになった。そんなこんなで一緒に遊びに行くようになり、気が付いたら彼氏彼女みたいになっていた。四、五年そうやって気楽に楽しく付き合った。いつも二人一緒で子供みたいに遊び惚けていた。が、私が三五歳になる前にサカモトの両親が出て来て『まとまる』ことになった。ヒロキの子供の顔が見たかったのかもしれないし、二人がいつまでもフラフラしているのを見ていられなかったのかもしれない。  結婚して三年くらい経って、ヒロキのバイト先が変わった。レンタルビデオショップと今でもいうのだろうか、そういった店舗で働くようになった。その後ヒロキは、かなり遠方の支店に配属になって、シフトも厳しく時間も不規則になったので、ある日事故ってしまった。バイクで通っていたのだけれど、ウトウトして車に激突し、吹っ飛んだ。幸いケガは左手首を折っただけで済んだ。  で、私が口うるさくなってしまったのだ。当時は毎日、昼間働く真っ当な仕事をするよう、口やかましくいっていた。本当はヒロキに家にいて欲しかっただけだ。夜にヒロキと過ごしたかった。ヒロキが忙しくていなくて寂しかったのだ。ヒロキの身体だって心配だった。  ヒロキはいたく傷ついたようで、マンションに帰って来なくなった。  私はまたヒロキと暮らせる時が来ると信じていた。帰って来るのを待っていた。まさか、死んじゃうなんてね。  実家はヒロキには居辛い場所だったはずだ。でもマンションより実家にいることを選ばせてしまった。私が悪い。ヒロキは実家に帰らなければ死ななくて済んだのだろうか。私がヒロキを追い詰めたのがいけなかったのか。今更、何をいってもどうしようもないことではある。  ヒロキには兄がいる。アキトという。姑がいつもアキトの仕事を説明してくれるのだけれど、何の仕事をしているのかサッパリ要領を得ない。東京でお偉い人のサポートをしているらしい。多分、議員秘書なんかをしているのだろう。色々と機密事項の多い仕事だ。姑はそれが自慢で仕方がないのだけど、人に話すことができないので、私にばかりアキトの話をする。アキトのことだから、姑には仕事の内容を詳しく説明していないのだろう。用心深い奴だから。うかうか他人に大事なことをバラされると困るからね。  私はアキトが嫌い。例えば一〇〇人いたら九九人までがアキトに好感を持つはず。でも私は残りの一人なのだよね。外見は爽やかで真面目そうで物腰が柔らかく、いかにもいい人そうなアキト。でも私にはこすっからい内面が見える。  ヒロキは優秀な兄にコンプレックスがあった。ヒロキはヒロキで可哀想と思う。近くで見ていたので、次男も大変なのだなと感じた。でも、私一人だけが気づいていることだと思うけど、アキトもヒロキがコンプレックスなのだ。アキトのコンプレックスは存在することに気付かれ難く、簡単に同情することもできない。下手に同情するとアキトのプライドが傷つく。気が付かないフリをしてあげるのがアキトのためだ。 実は、舅はアキトよりヒロキのことがより可愛いと感じているように見受けられる。馬鹿な子ほど可愛い、ではないが、いつだってヒロキの方が皆に人気だった。それがアキトのコンプレックスになっているようだ。 二人を見ていると、私はいつも源頼朝と義経を思い出す。男同士の兄弟というのも当事者にしか分からない葛藤がそれぞれにあるのだろう。  ただ舅が最終的に頼りにしているのはアキトの方だ。姑は手放しにアキトをひいきにするけれど、男親は女親とは違った見方をしているようだ。息子たちは子供であると同時に男同士でもあるから。  アキトには息子が二人ある。アキトも息子としての苦悩と男親としての苦悩、両方を味わうことだろう。頑張れよ。私はいつだってヒロキの味方だけど、年下のアンタは一応私の義理の兄だし、敵ではない。弟を持つ長子として、アンタの気持ちは分かるつもりだ。 イサミが夕食を食べている間、私は風呂に入ることにした。浴槽に浸かっている時にイサミがやって来た。 「おかーさーん」 といって浴室のドアを開けた。 「覗くんじゃないよ! てめえ!」  私は石鹸を投げつけたがイサミは素早くドアを閉めてかわした。普段イサミの動きはのろい。デブだから仕方ない。でもイサミの動きが瞬発的に速くなるときがあることに気付いた。コイツは時々、素早いのだな。  イサミが風呂に入ったので眠ろうとしていると、またイサミが来る。 「おかーさん、一緒に寝ようよ」 「寝るか! 一人で寝ろ!」  今度はヘビのぬいぐるみをぶつけたがやはりドアでかわされた。  ごめん、ユカちゃん、つい。  ヘビのぬいぐるみの名はユカちゃんという。ユカちゃんの名前の由来は親友のタカモリユカリの名前にある。ユカリが私の誕生日にくれたぬいぐるみだから。私もユカリも巳年生まれだ。  その晩はシロクマくんと眠った。  後日、浴室と私の部屋に内側から鍵ができるようにした。  翌日は朝六時に起きた。月曜だからイサミが学校に行かなければならない。 イサミはもう起きていた。早いじゃないか、起こさなければ起きないと踏んでいたのに。 「おはよう。うちの朝食はトーストとコーヒーだよ。自分で作ってね」  コーヒーはインスタント。イサミにトーストの焼き方とコーヒーの作り方を教えて二度寝することにした。私の仕事は一〇時出勤なので、あと三時間は眠れる。 イサミが砂糖をたっぷり入れてカフェオレを作っているのを横目に自分の部屋に入った。  九時に起きて確認するとイサミはトーストを五枚食べていた。六枚切りの食パンがあっという間になくなった。私の食べる分を残してあるのが憎いじゃないか。少し可愛かった。一リットルの牛乳もほとんどなかった。  イサミの部屋が閉め切ってあったので、ドアを開けた。く、臭い。布団をめくると大きなユーラシア大陸があった。小六にもなって、おねしょか。どうりで起きるのが早かった訳だ。天気は雨で外に干せない。私は伯父の会社で働いている。伯父に電話して、遅れて行くと伝えた。 それから電気屋に行って一番安い布団乾燥機を買ってきて乾かすことにした。乾燥機は掛け布団のような形の風船カバーを掛け布団と敷布団の間に挟み、カバーに温風を送り込んで布団を乾かす仕組みのもの。乾かしてみると、そこいら中がおしっこ臭い。子供がいるって、こういうことなんだ、感心しきりだ。 とりあえずイサミの部屋を閉め切ってみたが、なんだか空気が籠ってニオイの微粒子がそこいらを漂っている気配で、嫌な感じだ。世間の親たちは大変なんだな。乾燥機はタイマーで切れるので仕事に行くことにした。 『勝サス』が伯父の会社の名称だ。勝は私の旧姓でもある。サスとはSUSと書いてステンレスの別名。つまり勝サスは鉄工所だ。 伯父の会社の看板は験がいいらしく、しょっちゅう学生がスマホで写真を撮っていく。写メが受験や試合のお守りになるらしい。写メって言葉は死語だけど、アラフォー世代である私は普通に遣う。 伯母が経理、私の従兄で専務のタカオが営業、私は事務全般の担当だが便利屋みたいに何でもやっている。自慢じゃないが、工場は私がいないと回らない。タカオが営業に行って、伯父がデスクで居眠りぶっこいている間、私が全てを支えている。伯父も年なのだ。私の父が生きていたら七〇歳だから伯父は七三歳になるはずだ。伯父も年をとったものだ。 私の父は私が二八歳の時に突然死した。だから伯父も伯母もタカオも私を大切にしてくれる。 皆、勤務時間は八時から五時だが、私は一〇時から四時にしてもらっている。 仕事はハードだ。なにせ女子率が低すぎる。女は私と伯母だけ。女子がやる仕事は二人でこなさなければならない。タカオには昔、嫁さんがいたけれど五年前に離婚してしまった。 工場はとにかく騒音が酷く、私は職人さんたちに毎日怒鳴られてばかり。怒鳴らないと聞こえないから。『ザ・男の職場』という感じ。こんな田舎にはキラキラフワフワした仕事なんてない。 私が一〇時に出社した時、タカオに会うと 「重役出勤やなぁ」  といって、からかわれる。そうだよ、私は重役なんだよ。内緒だけど親戚のよしみで私の時給は他の人よりちょっといい。  タカオには子供があった。コゴローくんという、おっとりした優しい子で工作が好きな、私が接していて苦にならない貴重な子供だった。今頃は高校生になっているはずだ。嫁さんが連れていってしまった。 レーザーの部署の建屋の前に犬が繋がれている。鋼材の番犬のコテツだ。雑種だけど頭が良くて、私にとても懐いている。私はマンション暮らしで犬が飼いたくても飼えない。だから頻繁にコテツと遊んだ。いい気分転換になる。コテツと遊んでいると、職人さんが電動ノコギリで鉄パイプや木材を切っているのがよく見えた。 鉄パイプを切ると、辺りに苦いニオイが立ち込める。木材を切るとクッキーを焼くときのような甘い香りがする。木を切る匂いは好きだ。木の粉と鉄粉は食べてみるとそういった味がするのかもね。職人さんたちの体臭も一様に苦かった。職人さんたちには鉄粉が浸み込んでいるのか。 レーザーの部署の前では唯一まったりできた。全ての忙しいことが忘れられる。コテツが私の職場のオアシスだ。 呑気そうだけどホント忙しいんだよ。   仕事が終わってマンションへ帰るとイサミが相変わらず寝転んで漫画を読んでいた。 部屋は子供の匂いがした。おしっこの臭いではない。赤ちゃんの匂いでもなく、オヤジのニオイでもない。コゴローくんもこんな匂いだった。イサミも一応、子供だったのだな。同時に、子供の匂いが分かるなんて一応私も女だったのだなと思った。なんと私も母になるはずの生き物だったのだ。自分でもちょっとびっくりした。しかも子供の匂いがすると不思議なことに庇護してやらねばと感じる。これが本能か。まいったね。 「遊びに行かないの」 「行ーかなーいよー」  こいつ、友達がいないんだ。 ピンときた。でもイサミ、心配するな、私も同じだよ。昔はいたのだけれどね、やさぐれグループの友達が。ただ、皆が子供を産んで疎遠になった。 というのも……子供を産んだ友達に会いに行くと当然子供がいる。友達にとっては宝物だ、私も頭では分かる。すると必然的に子供をちやほやしなくてはならなくなる。本心は「あんたの子供に興味は無い。あんたと仲良くしたいんだ」と思う。渋々、子供の機嫌をとって、子供の様子をうかがっていると、行動が本心に反しているので、心がすうすうする。子供は敏感なので、本能的に察して私に懐かない。そこでやっと私は友達と自分が別のカテゴリーになったことに気付く。女は子供を産むと脳から変わる。同じ生き物ではなくなる。女と母は別の生き物だ。私は一所懸命、溝を越えようとするけれども結局、面倒くさくなって、疎遠になってしまうのだった。……という訳だ。 未婚の友達でも子供が好きで母性が爆発したみたいに子供をやたら構いたがる娘がいる。どちらかといえば、むしろそういう娘の方が多いみたい。私はどうして、そうはいかないのだろう。  友達と疎遠になることを繰り返すこと、十数回。友達はいなくなった。連絡をとっていないだけで、繋がってはいるつもり。外で会えば親しく話す。  思えば、私は散々人に結婚祝いや出産祝いを送りまくったけど、自分は結局、式も挙げず、子供も産まず、人を祝うだけに徹した。  父が亡くなった時は、ユカリが親戚ばりの金額を包んでくれたけどね。  唐突だけどさ、友達付き合いって何のためにするのだろう。何故、大切なんだ。誰か、根本から教えてくれ。一緒にカフェに行って、人の愚痴や噂話をするためではないはず。何のためなんだ。これではイサミに「友達を作れ」とはいえない。自分が友達のいることの良さを分かっていないもの。  そりゃ、ユカリと電話すると、凄いストレス解消にはなる。でも、皆で集まる女子会とかは、逆にストレスが溜まる。  『友達』で一括りにするから、良く分からなくなるのかな。人によるのかな。友達の質、内容が大切なのかな。  イサミを見る。こいつ、ゲームとかはしないのかな。ヒロキが持っていたはずだ、サカモト家にあるかもしれない、持って来てやろうか。いや、やめた。  最近のゲームはオンラインだ。近しい友達ならいいけど赤の他人と遊ぶなんて私には理解できない。というか子供に勝手にオンラインゲームをさせておくと不用心な気がする。 私は閉じたゲームなら好きだ。大学時代の夏休み全部を潰してRPGにはまったこともある。その前は可愛い落ち物ゲームにはまった。が、ある日ゲームセンターで落ち物をしていたら、いきなり対戦モードになったことがあった。その時の私は知らなかったのだけれど対戦用機だったのだ。赤の他人がいきなり向かいのゲーム機に座って乗っ取ってきた。気持ち悪かった、すぐ負けた。私は赤の他人とゲームはしたくはない、そういうタイプ。 「ゲームとか、しないの」 一応、イサミに聞いてみた。 「しないよ」 イサミは漫画から目を離さずにいった。そして、 「おかーさん、お腹すいたー」 と続けた。おい、相変わらず駄菓子くずが周囲に散らばっているじゃねーか。それに、まだ、五時前だぞ。 「おらよ」 コンビニで買ってきた牛丼とカツ丼をテーブルの上に出した。 「どっち食べる?」 「両方」 だろうな、いうと思ったよ。イサミが喜んで食べているのを見て、それはおやつなのかとツッコミたくなった。 「それ食べちゃったら夕飯はないよ」 「うん」  私は料理をほとんどしない。むしろヒロキの方がよくしていた。ヒロキがよく作ってくれたオムライスが急に食べたくなった。もう、食べられないのだ、二度と。 イサミに味噌汁を作ってやった。私の夕飯は味噌汁とお茶漬けだ。 土曜日に同じマンションのセリザワさんがやって来た。いやにおどおどした人だ。小柄でずんぐりしたいかにもお母ちゃん的雰囲気をしている。モカちゃんという小学六年生の娘がいるはずだ。そういえばイサミと同じだね。そのときは見た感じでこの人はいい人なのだろうと思った。この直後に軽くジャブをくらう。もっと後にボディーブローを頂くことになる。 セリザワさんがいうには日曜にコミュニティーセンターで町内PTA会があるのらしい。うちのマンションで小学生の子供がいるのは、うちとセリザワさんのところだけ。入居者の年齢層が高めのマンションだ。で、翌日セリザワさんと連れ立ってPTA会へ出席した。 今回は役員を決める。十数人の父兄が来ていた。父兄といってもそのほとんどが女性だ。父兄という言葉は死語だけれど、私の子供時代は普通に遣われていた。そりゃ死語にもなるわ。女性蔑視とかいわれて遣われなくなったのだろう。ぱっと見たところ皆の年齢は私と似たり寄ったりというところだろう。 会が始まっても私はぼーっとしていた。なにせ初めてのことなので、なんだか他人事だったのだ。皆、役員をするのは渋っていた。どうやら役員をするのは面倒なことらしい。そのとき、誰かがいった、セリザワさんだ。 「いっそのことサカモトさんに役員を引き受けてもらってもいいんじゃないかしら」  え、私? 急にお鉢が回って来てビックリした。他の皆は、「そうね、そうね」とか、「皆が一通りやったものね」とか、「いい経験よ」とか、「案外初めての人がいいかも」と、賛同している。ちょっと待ってくれ、なんで私なんだ。何だかそれで決まりそうな雰囲気だ。役員なんて何をするのかも、どうやるのかも全く知らないのに。 「待って下さい」  しっかりした感じの女の人が異論を出してくれた。ナカオカさんという人らしい。 「サカモトさんはお仕事もあるし今回は候補から外してもいいと思います」  気が強そうな美人が反論した。 「お仕事があるなんて、皆同じです」  オキタさんという人らしい、スーツを着ている。斜め後ろにオキタ夫が控えていた。やっぱりスーツを着ている。オキタ夫は会の間中、全く発言しなかった。イケメンだけど気配を殺しているからか目立たない。派手な顔ではなく、さっぱり系の顔だ。目を閉じて腕を組んで瞑想をしているように見える。  ナカオカさんが返した。 「でもサカモトさんはイサミくんの保護者なんですよ。皆と条件が違うと思います」  オキタ妻が頷いた。 「ナカオカさんがいわんとしている事は理解できます。そうね、フェアじゃないわ、他の人で決めましょう」  キッパリした人だ。しかし二人のやりとりは少しく気になった。イサミの保護者がどうだっていうのだろう。 結局、役員はセリザワさんが押し付けられ、ナカオカさんとオキタ妻が引き受けて、後は知らない人に決まった。役員って一人じゃないんだ、色々な役目の役員が必要らしい。どの役員がどんな役目をするのかは最後まで理解できなかった。役職名すらも覚えられなかった。 話は戻るがPTA会は終わったのだ。やった、助かった。ナカオカさんにお礼をいいに行った。 「ナカオカさん、ありがとうございました」 「いえ、当然のことです。それより私イサミくんのことが気になっているんです」 「イサミの」 「イサミくんは度々保護者が変わっているんですよ」 「そうですか」  この時私は、どうせイサミが追い出されての結果だろう、くらいに考えた。 「イサミくんをどうぞお願いしますね」 「え」 「ひょっとすると、ご負担ですか」 「いえ、いえ」 「私、考えがあるんです。老婆心ですが」 「はあ」 「イサミくんは全寮制の中学校へ進学したらいいのではないかと思うんです」 「あ、それはいいですね」  それまでイサミの今後なんて考えたこともなかった、私にはいい助言だった。 「だから後一年のことと思って頑張って下さいね、もう少しの辛抱ですから」  この人は懐が深いなぁ、思えば今までこういったまともな人に出会ったことがなかったかもしれない。友達でもない赤の他人の子供の心配までする人がこの世には存在するのだ。こんな人がいるなんて捨てたものじゃないな。イサミだけじゃなくて私の立場も考えて親身になってくれている。人情が身に染みる。 「はい。ご忠告ありがとうございます。進学先の選択肢に入れてみます」 「どうかイサミくんをお願いしますね」  ナカオカさんは去って行った。私はナカオカさんの後ろ姿に頭を下げた。  ああ、これではイサミを途中で放り出す訳にはいかなくなったぞ。 その翌日電話がかかってきてイサミの学校に呼び出された。次々立て続けに何かが起こる、子供を育てるとはこういうことなのだね。何事かとドキドキしながらイサミの担任の先生に会いに行った。  イサミの通う小学校は私が通った小学校ではない。私の母校は隣の校区の小学校と合併して移築した、それがイサミの小学校だ。初めて足を踏み入れる小学校。自分の母校を訪ねるのであれば少しは懐かしくもあったかもしれないが、今回はただただ緊張した。  応接セットのある部屋に通された。外にカウンセリング室と書いてある。後から先生が入って来た。先生はヨシダ先生といって、女性だった。ふくよかな人で背が低く優しそうだ。多分、年下だ。年下だからか少し頼りない感じもした。でもベテランのようだ。私もそういう年齢になったのだね、と他事を考えていた。どんどん思考が脱線していこうとしていたら、耳に先生の声が入って来て我に還った。 「本日は急にお呼び立てしてすみません」 「いえ、何かイサミが問題でも」 「何もないんですよ。ただ、イサミくんに聞いたら、また保護者の方が変わったというので、どんな方かお会いしたくて。うちの学校は家庭訪問をしませんので」 「はあ」 何と答えればいいかがよく分からない。 「しっかりされた方で安心しました」 「そんなことないです」  今のやりとりのどこがしっかりしているというのだ。先生は強引にある結論に持ち込もうとしている人のようだった。 「イサミくんの保護者が変わるのが頻繁で学校の方でも少し疑問視する声が上がっていまして」 「そうですか」 「余り込み入ったことはお尋ねしませんので、ご安心下さい」 「どうぞお手柔らかに」 「今までの保護者の方は頼りない方が多かったそうです」 「はあ、そうですか」 「プライバシーもあるのでお話できないのですが、つまり、かなりお若い方が多くて」 「へえ」  この先生、プライバシーとかいいつつ、ベラベラといっちゃあいけないことを喋っている。ベテラン風な割に未熟なのだね。一体、何回保護者が変わったのだ。そして、どんな奴らか顔が見てみたい。 「私は五年生から担任をしておりますので、他の保護者の方にお会いしたことはないのですが」 「はあ」 「お会いしてみてサカモトさんは大丈夫と感じました」  なるほど、他の保護者と違って、この通り年喰っているし。そこで、この先生がイサミの保護者を途中でやめないよう私を説得しているのだということに気がついた。 それはいいとしてイサミの進学のことが気になっていたので、こちらからたずねてみた。 「ところでいい機会なのでご相談したいのですが、イサミは全寮制の中学に進学させようと思っておりまして」 「ああ、そこまでご考慮されてらっしゃる」  先生がニコニコした。 「でもそこは偏差値が高くないですか。イサミの成績はどうなのでしょう」 「成績でしたら、まるで心配ありません」 「アイツ、成績良いんですか」 「イサミくんはとても優秀ですよ」  意外だった、家で勉強している姿なんて見たこともないのに。漫画を読んでいるのが良かったのだろうか、伊達に漫画を読んでいる訳じゃないんだね、アイツ。 「でも、アイツ、おねしょするんですよ」 「ええっ」 「それも毎日」 「それは……修学旅行が困りますね」 「修学旅行」  それも今まで考えてみたことがなかった。色々な人に話をきいてみるものだ。 「一〇月に一泊二日で京都、奈良、大阪へ行くのですが」 「そうですか」 一〇月かぁ。 「イサミくんは五年生のときのお泊り自然体験学習を欠席しているんです。そういう訳だったんですね。他の子の手前もありますし、治した方がいいでしょう」 「どうやって治すんですか」 「念のため病院を受診されては」 「病気じゃないですよね」 「膀胱が小さいのかもしれないし、環境が変わりすぎてストレスになっているのかもしれません。原因によってはお薬もあるみたいですよ」 「そうなんですか」  アイツ、ああ見えて意外と繊細なのかも。 「あと、イサミくんにはお祖母さんがいらっしゃるんです」 「え」 「この近くの公園の前で駄菓子屋をされているんです。宜しければ一度お会いしてみてはいかがですか。学校の書類上ではお祖母さんがイサミくんの一応の保護者になっているんです。ただ、お歳を召してらっしゃるので進路などの込み入ったお話はイサミくんがいう保護者の方に相談するような方針になっておりまして」 「はあ」 「学校の方は保護者の方が定まらず困惑しておりまして、サカモトさんが保護者になって下さるなら安心です」 「はあ」  なんか気が重い。先生にイサミを押し付けられた気分だ。  先生にお礼をいって退室した。ちょうど昼休み中で子供たちがグラウンドで遊んでいるのが見えた。イサミの様子を見ようと思いグラウンドへ行ってみた。  イサミはすぐ見つかった。運動神経の良さそうな、すらっとした手足の美少女に踏みつけられるように蹴られていた。イサミは地面にダンゴムシのように丸まって這いつくばっている。な、何をやっているんだ。 その傍には子供たちが数人遠巻きに見物していた。寄って行くとギャラリーの中の一人のおしゃまな女の子が私に状況を説明してくれた。  美少女は『オキタリサコちゃん』といって、オキタさんところの娘らしい。確かにオキタ妻に似ている。イサミはいつも彼女にちょっと嫌がらせをするらしい。イサミからちょっかいを出すのだ。今回もきっかけはいつものパターンで、怒ったリサコちゃんにコテンパンにのされた末、最終の状況が今の様子だそうだ。リサコちゃんにボコボコに叩きのめされ、やっつけられるのもいつものことで、説明してくれている子は、 「イサミくんはホント懲りないねー」 と、いう。  リサコちゃんは蹴るのを止めて、汚い物でも踏んづけた後のように靴の底をそこいらの地面などに擦り付けてから、行ってしまった。  そうすると見物していた子供たちも三々五々散って行った。イサミは私に気付いていないようで、素知らぬ顔で起き上がり、シロツメクサの咲いている方へのこのこ歩いて行った。まるで何事もなかったかのように。  そこには『セリザワモカちゃん』が花輪を作って遊んでいた。セリザワさんところの娘だ、この子は知っている。  その時、私は、シロツメクサで小学生の頃に引き戻された。私も校庭のシロツメクサの上でよく昼寝をしていた。耳の傍でミツバチが蜜を集めていた。ハチやムカデなどの虫に今まで刺されたことは一度もない。蚊やダニに刺されたことはあるけど。虫や動物が大好きだった。私は虫とも心が通い合えると信じていた子供だった。モカちゃんに一瞬同調してしまった。  イサミが自分に向かってくるのを認めてモカちゃんは逃げようとした、でも身体がすくんで逃げられなかったようだ。立ち上がったところにイサミが来て、イサミはモカちゃんのふくらはぎを蹴り始めた。同時にモカちゃんを罵っている。よく聞くとイサミは、 「ヒャッカ、ヒャッカ、ヒャッカのくせに。お前が触ったら花が腐るんだよ。このブス」 と、いっているようだ。お前が「ブス」なんていえた義理か。どの面下げていってんだよ、冗談みたいな顔しているくせに。 ヒャッカとはこの辺りの方言で高菜の一種の野菜のことだ。漢字では「百華」と書く。この香川県でも地方によれば「千葉(せんば)」とか「万葉(まんば)」とも呼ぶ。香川県の郷土料理に「まんばのけんちゃん」というものがある。高松の方でそう呼ばれるこの料理はこの辺りでは「百華の雪花(ひゃっかのせっか)」と、いう。百華の灰汁を抜いて、豆腐や油揚げと一緒に醤油ベースの味付けで炒り煮にした料理だ。 モカちゃんの名前の漢字は「百花」だから、ヒャッカがあだ名なのだろう。しかしモカちゃんはいいなあ、女の子らしい漢字で。私の名前なんてさぁ、……今はいいか。 ちなみに私は名前マニアなところがある。 そのときモカちゃんがベソをかき始めた。ふくらはぎは多分擦り剥けているだろう。  ホントに何をやっているのだ、イサミは。  人が見たら、リサコちゃんに苛められたストレスをモカちゃんで晴らしていると思うかもしれない。でも多分それは違う。イサミはもっと高度な思考をするのだ、この頃だんだん分かってきた。  私の憶測では、こうだ。イサミはリサコちゃんのこともモカちゃんのことも好きなのだ。キツイ美少女もぽわんと天然系も好みなのだ。でも、彼女たちに好かれることは諦めている、あのご面相だし。そこでイサミがとった行動は『彼女たちに憎まれること』だった。憎まれることで彼女たちの心の中の特別枠に入ることを選択したのだ。好かれることの反対は嫌われることではない、無関心だ。イサミは彼女たちに無関心にされるのが嫌なのだ。憎まれ嫌われることで彼女たちと濃密に関係を築いている。それをイサミが意識してか無意識か知らないけど説明するとこれが正しいだろう。まあ、簡潔にいえば子供にありがちの『好きな子を苛める』という現象だ、ある意味健気な奴。  しかしモカちゃんだ、大して可愛くはない。でも昔、うちのクラスにもいたよ、こういうタイプの女。見るからに癒し系で優しそうで、こういう子の内面は大体、ほわっと天然ボケで、さして可愛くはないのに、クラスの人気者の男子が突然「あの子が好き」とか宣言したりするのだ。男子は女子のパワーバランスなんて知らないから。それで人気者の宣言により、皆が「きゃー」とか盛り上がっているのに当の天然女はさも迷惑そうにしたりする。見ていてイライラする。 しかし、何故こういう子がモテるのかは謎だ。男が可愛いと思う女と女が可愛いと思う女が違うということか。 ただ、こういう子はクラスの派手系の女子に嫌われて苛められる。人気者をかっさらって行ったりするからだ。私も天然女が嫌いなので、派手系女子が『ふんわり天然女子』を苛めるのをじっくり見物して溜飲を下げていた。  私自身は派手系グループでもなく、かといってオタク系グループでもなく、まさかヤンキーグループでもなく、クラスではやさぐれグループにいた。一癖ある、ちょっぴり性格の悪い女子と一緒にいると落ち着く。優しくて心が綺麗な女の子は私にはまぶしくて気後れする。  親友のユカリやチバトーコといった、やさぐれグループの女の子たちと派手グループ女子の彼氏を観察して、 「アイツの彼氏ってジャガイモが眼鏡かけてるみたい。ダセー」 とか、ヒソヒソいうのが楽しかった。長い目で見ると、大人になったジャガイモ眼鏡は出世して高給取りになったりしたのだが。派手系女子は男を見る目があるんだな、コツを教えて欲しいものだ。多分、顔で選ばないこと、だろうけど、ね。  ああ、トリップしていた、いかん、いかん。イサミが苛めているところを目撃してしまったのだし、モカちゃんを庇わなくてはね、それがひいてはイサミのためだ。  でもイサミを叱り飛ばしたりはしたくない。そもそも私はモカちゃんみたいなタイプの女が嫌いなのだし、私はイサミ側なのだ。  そこで私は二人のところへツカツカ歩いて行った。イサミは私が突然現れたのでギョッとした。おまえ、鈍すぎるよ。 そして私はビシッとイサミを指差して、わざとらしく腹を抱え、大げさにゲラゲラ笑い飛ばしてやった。  イサミはさっき、自分がリサコちゃんにボコられていたのを私が見ていたと悟って赤くなり、 「なんだよー」 と、モソモソいいながら、のたのた走り去って行った。モカちゃんがポカンとしている。  イサミ、悪いことはいわない。その天然少女はやめておけ。テレビでもこういっていたぞ、 「女という生き物の中には『天然ボケの女』なんて存在しないのです」 だ、そうだ。天然って多分、計算なのだよ。  私は学校を出ると駄菓子屋へ行ってみた。 駄菓子屋を実際に見るまでは、 「イサミをバアさんに押し付けられないかね」 と、ちょっと考えてしまった。 駄菓子屋は子供が学校にいる時間はやっていないようで、閉まっていた。小さくてボロい駄菓子屋だ。『イワサキ』という文字の消えかかった看板が出ている。居住空間は無いようで人の気配も無い。  こんな今にも傾きそうな駄菓子屋を細々とやっているバアさんにイサミを押し付けるなんて、できないよ。アイツ、滅茶苦茶喰うし。イサミは学校の帰りに毎日ここに寄って駄菓子を貰っているのだろう、しかも大量に。 私はイサミに身内がいて良かった、と思った。アイツは天涯孤独じゃないんだ。ナカオカさんとかヨシダ先生とかサカモトの両親とか、大人の味方もいる。本当に良かった。  一応、イサミを病院へ連れて行った。イサミが診てもらうのが『小児科』だっていうのが笑える。結果は意外なものだった。心臓が弱いらしい。 「心臓が弱い?」 一瞬、聞き間違いかと思って、思わず聞き返していた。心臓に毛が生えているような顔しているのに。 イサミは外でいて、私だけが医師に結果を聞いていた。心臓が悪いことがおねしょに影響しているらしい。もう、素人には因果関係が理解不能なレベルだ。医師にはとにかく痩せさせるよういわれた。薬は子供にはあまり使わない方がいいらしい。  イサミにダイエット、無理だー。断食病院に放り込んでやろうか、アイツ。ああ、課題がまた一つ増えちゃったじゃないか。  ここで問題が一つ、ダイエットは人がさせるものじゃない。自分がやろうと思わなくては無理だ。伯父が糖尿なので、ダイエットさせようとして失敗したことがある。本人を思ってのことなのに、恨まれてしまうのだ。イサミにじわじわダイエットの必要性を感じさせなくてはならない。これは、より難易度が上がる。めんどくせー。 そんな訳でダイエットは横へ置いといて、言わば保留だね、夜中の二時に一度起こしてトイレへ行かせることにした。ネットで調べると、夜中に起こすのは駄目という意見がほとんどだったけれどイサミにはいいのではないかという、ほとんど直観で始めた。ネットの意見の主流は『おねしょは自然に治る、とにかく待て』だった。でも、一〇月までにはなんとかしてやりたいし。 とにかく、イサミのおねしょは注目されたくて、構われたくて無意識にやっているのではないかと思う。何か対策をとって欲しいのだ。具体的に行動して欲しいのだ。 効果は五分五分で、夜中にトイレへ行ってもおねしょはしたりしなかったり。取り敢えず一回の量は減った。まあ、この方法を続けてみることにした。私も夜中に起きるのが少し辛いが、しょうがない。 「アンタさあ、修学旅行、行きたい?」 「別にー」  イサミは新しい漫画を読みながら、寝転んだ状態で足をバタバタした。病院へ行こう、というと、漫画を買ってくれるなら、というので買ってやった。交換条件なんて出さなくても漫画くらい買ってやるよ。  私自身は旅行が苦手だ、便秘になるから。私本人が修学旅行に行きたくなかったクチだから、別に行けなくてもいいか、と思うけどイサミは本心では行きたいのかもしれない。  修学旅行でおねしょして恥をかけば治るのではないか、とも思うのだけれど。でも、それは余りに可哀想か。子供なのだし、いくらなんでも荒療治過ぎる。あーあ、嫌になる。  その日は日曜で夕方、スーパーへ行こうとしていた。道を歩いていたら途中で呼び止められた。誰かと思ったら超イケメンが近寄って来る。だ、誰? 日曜だっていうのにイケメンはスーツを着ている。よくよく考えたらPTA会に来ていたオキタ夫だと気づいた。 「サカモトさん、一緒にお食事でもいかがですか」 「は?」  ファミレスに連れて行かれた。田舎だから夕食を食べるところなんて、こういった場所しかない。それはいいとして私は今の状況が理解できなかった。何故、ついて来てしまったのだろう。そしてオキタが何を考えているのかが分からなかった。これはどういうつもりなのだろう。オキタは『何を考えているのか分からないタイプその二』だ。ヒロキとも、またタイプが違う。ただ心の奥に黒い物が潜んでいそうな予感で少しドキドキした。多分、好奇心でついて来てしまったのだ。まあ、たまにはこんなことがあってもいいかもね。  でも、その一〇分後にはもう後悔していた。オキタの話はつまらない。ラジオのパーソナリティーみたいなしゃべりだ。外国人っぽいしゃべり方という意味ではない、要は内容だ。どこにも抵触しない、自分の意見なんてこれっぽっちも表明していない話、当たり障りのない話というやつだ。テレビの話題だったり、テレビの話題だったり、聞いていてイライラする。私はラジオが嫌い。これではラジオでテレビの番組の話題を聞いているようなものだ。毒にも薬にもならないどうでもいいテーマをわざわざ深く掘り下げていく。もう、途中で何か曲でもかけて欲しいくらいだ。  しかもオキタの顔が気持ち悪い。誤解のないよういっておくがオキタはイケメンで、俳優顔だ。ちなみにヒロキはアイドル顔だった。それは置いといて、オキタの顔が誰か俳優に似ていて、それも二人くらいが混ざっているようだ。どこかで見たことある顔だと感じるが、その俳優の名前が全く出てこない。誰に似ているのだ? 気になって、気になって、スッキリしない。この感じ、なんか便秘に似ている。嫌な感じだ。それで気持ちが悪い。イケメンなのにこんな感じで気持ちが悪いという人に初めて会ったよ。世の中には色んな人がいるものだ。 「誰かに似てるっていわれませんか?」 「え、僕、誰かに似てますか?」  質問に質問で返すなよ、私がそれを聞きたいんだってば。  オキタはステーキセットを頼んで、私は和食の小鉢が色々選べるセットを頼んだ。オキタがステーキを食べるのを見ていて、またヒロキを思い出した。  ねえ、コーベに行こうよ。  ヒロキの好きな作家が兵庫県出身で、随筆の中で神戸のステーキハウスのことが書いてあった。神戸では気軽なステーキハウスでリーズナブルに美味しいステーキが食べられるらしい。  うん、行こうね。  ヒロキと約束した。そして私の楽しい未来になった。いつか本当に神戸に行くつもりだった、早く行っておけば良かった、神戸なんて日帰りできるのに、ヒロキに神戸のステーキを食べさせてあげれば良かった。   あの世にはステーキハウスはあるのかな。  その時下品な笑い声が耳に飛び込んで来た。見ると斜め後ろの席に知った顔があった。ヒロキの前のバイト先のヤンキー女だ、同じような系統の女の子たちと騒いでいる。こっちには気がついていないように見える。あっちが気づかないふりしているだけかもしれない。嫌だな、アイツ嫌いなんだ。ヒロキは死んじゃったのだし、別に男といるところを見られても構わない、けどなんか嫌だ。 「出ましょうか」  二人ともちょうど食べ終わったので、オキタを促した。 「え?」  もう? という感じでオキタはきょとんとしていたがファミレスを後にした。ちなみに割り勘だった。オキタはしわい。私は別にバブルの恩恵を享受した世代ではないのだけれど、女性にはお金をかけてあげるのが一応の礼儀ではないかと思う。たかがファミレスの代金なのだし。多分オキタはイケメンだから調子こいているのだろう。女性にお金をかけてあげなくてもモテるのだ、話がつまらなくてもモテるのだ。  まあ、家庭のある男性なのだし、金銭に自由が無いのかも。妻子持ちなのだから仕方がないか。でも、なら不倫みたいなことはやっちゃあいけないよな。  そういえばヒロキは浮気なんてただの一度もしなかったな。そういうところはキチンとしていた。  一人で帰るといったが、オキタがついて来た。大体、どういうつもりなのだ。あの美人のキツイ妻は大丈夫なのだろうか。でも、あの人の感じからいって、物凄くドライな扱いをされそうだ。夫の浮気相手なんて、わたしには関係ない、どうぞご勝手に、というスタンスだろうか。なら、問題は場所だよ。ファミレスなんて他の保護者に目撃でもされたら、どうするつもりなのだろう。こいつ結構、神経が太い、要注意だ。  途中、オキタが 「軽くカクテルでもいかがですか」  というので見たら田舎のシティホテルだった。これ、変な言葉だな。それはいいとして、オキタの提案は微妙だった。ホテルって、どうよ。下心ありか、判断がつかない。 「イサミが待っていますから」  オキタを振り切って、そそくさと逃げ帰った。アイツは腹黒い、警戒せねば。  『香川のブ男』という言葉がある。これは香川県ではブ男の方がいい、ということを表した言葉だ。どういいのかというと『ブ男の方が良く働く』らしい。『良く働く』というのは男性に対する最大の賛辞だと私は考える。他にもいいところはあるのかもしれないけれど良く知らない、ブ男に興味がないから。  また『東男に京女』という言葉があるが『讃岐男に阿波女』という言葉もある。つまり讃岐のブ男はブランド男子なのだ。ブランド米、ブランド牛、ブランド男子なのだ。讃岐ではブ男を選べば間違いない、ということ。逆にいうと、香川のイケメンはろくでもない、のかもしれない。面食いにはツライ状況だ。江戸時代初期の文献では空海もブ男だったらしい。史実かどうかは知らない。 何故、そんな風に空海が不細工という話になったのかというと、イワナガヒメの神話の時代から、ブス、不細工は人知を超えたパワーがあると考えられていたかららしい。江戸時代初期の文献でだけ『空海ブ男説』が見られる。そこでは空海の母親も三国一の醜女となっている。 武士は美女をめとると、短命になる、といってブスを好んだらしい。コノハナサクヤヒメは選ばないのだ。 確かにイサミを見ていると、生命力の強さを感じることがある。 話は戻って、ブランド女子の方、徳島の女の子は総じて女子力が高い。別の言い方をすると、コーディネートから、仕草から、全てが女らしい。けど、女社長がすこぶる多い。舌を巻くね、これがブランド女子か、と感じる。『〇〇男に〇〇女』という言葉は他にもあったはずだけれど、忘れた。他にもブランド男女はいるようだ。  まだスーパーがやっていたのでイサミの夕飯を買い込んだ。たまにはちゃんとしたものを食べさせてやろう、お惣菜だけどね。  マンションに帰ってイサミに食事を用意した。きんぴらごぼうにほうれん草のお浸しにアジの南蛮漬け、ジャガイモの味噌汁。ところがイサミはほとんど食べようとしなかった。 え、イサミが食べない。  ビックリした、絶対お腹すいているはずなのに。ご飯と味噌汁は食べる。ただ、ご飯は余り残っていなくてお替りができなかった。これはしまった。イサミがしょぼんとしている。 「どうした」  分かった、イサミは大変な偏食なのだ。野菜と魚が全く食べられないのだ。今の今まで気が付かなかった。ジャンクなものばかりで済ませていたからだ。肉系のたんぱく質と炭水化物は食べる。特に炭水化物が大好き。  炭水化物が好き……、ならば。キャベツと人参と魚肉ソーセージがあったので、野菜たっぷりの焼きそばを作ってみた。恐る恐るイサミに出したら、いつも通りモリモリ食べた。良かった。いや、良くない。最近はデブの栄養失調だってある。このまま野菜を食べないのは体に悪い、何とかしなければ。 その晩、ヘビのぬいぐるみのユカちゃんをくれた親友のユカリに電話した。ユカリの子供が寝静まった後だったので割とゆっくり話せた。ユカリには時々こうして近況報告している。今日はまずオキタとのことについて話した。 オキタが誰か俳優に似ているが思い至らない。サッパリとした綺麗な顔だけれど可愛いところもあって今風で、顔だけなら好みのタイプ直球ど真ん中だ。今風といっても現在二十代の俳優は皆アゴが細すぎる。見ていて、もっとよく噛め、と感じる。今の若い子は未来の日本人の顔の予測に近づきつつあるね、つまり私の好みではない。オキタが似ているのは多分私が二十代の頃出ていた俳優だ。今、同世代でテレビなどには出なくなった人だなと思う。 「オキタが似ているのは、ユカリは誰だと思う? ちょっと例を挙げてみてよ」 「分かんないけど、あんたはやっぱりイケメンをよく見てるね」 「そうかな。でね、そいつ、割り勘だったんだよ。ケチだよね」 「ああ、モテる人なんだ」 「モテるから女に金をかけないんだね」 「違うよ。女に気を遣わせないんだよ」 「うん?」 「むしろモテない男の方が奢りたがるよ」 「そうなの」 「トーコはいつも奢るでしょ。どう思う」 「いつも悪いな、と思う」  チバトーコはやさぐれグループの一人だ。 「うん。同じ立場なのに、何故奢る? と思うよね。あの子は兄弟が兄ちゃんだから、男みたいに振舞うよね」 「私も親族は男ばっかりだよ」 「その割にあんたは女っぽいね」 「そう?」 「悪い意味でね。女子の持つ嫌なとこの塊だよ、アンタは」 「いいね。相変わらずキツイな」 「私はトーコと一緒にいると一生懸命プランを考えて来てくれた男子とデートしてるみたいな気分になる」 「奢ってくれるのは中国的流儀じゃないかな。トーコは日本語教師だから、中国で働いてたこともあるし、今も一緒に遊んでる子は中国人ばっかだし」 「日本人は奢られるの嫌だよ。なんで日本にいるのに中国の流儀を通すの。トーコもちょっと変わってるよ。いい子だけどね」 「そうだねえ。いわれてみると、うん」 「自分の分は自分で払いたいよね」 「それはそうかも」 「奢られると気づまりじゃない。ヒロキさんはどうだったの」 「ヒロキ? 覚えてないな」 「多分、支払いを意識させなかったと思うよ」 「そうかも」 「多分、あんたが気持ちよく払ってたよ」 「そうかも」 「いっちゃ悪いけど、ヒロキさんはヒモ気質だもんね」 「え」 「あんたが早くにつかまえたから良かったけど、ほっといたら立派なジゴロに育ったはずだよ」 「ヒロキは今頃、どっかの女の人のところに転がり込んでんのかな」 「それはないよ。ヒロキさんは家がカタいもん。根は真面目に育ってるよ。そこはちゃんとしてるよ」 「ヒロキはどこかで生きてんのかな」 「死んだふりする理由がないじゃない」 「そうだね」 「あんた、お葬式に行くべきだったね」 「うーん」 「まだ、泣いてないんでしょ」 「……」 「ヒロキさんが亡くなったことを受け入れられないんだよ。あんたはヒロキさんが大好きだもの」 「……」  図星を指されて、二の句が継げない。 「だからって他の男に逃げちゃだめだよ」 「そんなことしないよ」 「妻子持ちなんてダメだよ、ドロ沼だよ」 「うん、分かってる」 「あんたはイケメン好きだから、気を付けないと悪いのに引っかかるよ」 「うん」 「ヒロキさんがイサミくんを連れて来てくれて良かったんじゃない」 「え」  ユカリがふっと笑う息の音が微かに聞こえて、ユカリの次の声が優しかった。ああ、ユカリは人の親なんだ、と思い出した。ユカリに『母親』を感じた。 「ヒロキさんが連れて来たなら、いい子だよ」 「凄いブスだよ」 「見てみたいな」 「今度ね」 「うちに来て飲みなよ。で、泣け」 「うん」  ユカリの後ろで何かが倒れるような音がして、子供の泣き声がした。 「ごめん、立て込んできちゃった。またね」 「うん、色々ありがとう、ごめんね」  電話を切った。  ユカリは高松に嫁いだ。ここは高松から片道五〇キロちょっと離れている。香川は車社会だからここまで行き来する電車は一時間に大体一本くらいしかない。ユカリの嫁いだ家はブティックを経営しているので休みは月曜。ユカリのダンナさんは少し難しい人なので、彼がいない時に会わなくてはならない。諸々の理由によりユカリの家で飲むのは実現しないだろう。ただの楽しい未来だ。ユカリの環境に変化があれば実現するかもしれない楽しい約束。例えばユカリの子供たちがもっと大きくなるとかの環境の変化があれば。ユカリに会いたいな、泣けるかも。   イサミはなるほど賢かった。イサミがもし馬鹿だったとしたら、私は途中で追い出していたかもしれない。でも、イサミは育てがいがある子供だった、育ち方が面白かった。 私はイサミを徹底的に研究することにした。イサミが何を食べて何を食べないのかを。 私の役目は、野菜と魚介の美味しさをイサミに教えることだと思った。香川県は農産物と海産物がとても美味しい。海産物は穏やかな瀬戸内海でゆったり育ち、とても育ちが良い。海にとても恵まれている。私は断然、淡水魚より海水魚の方が食べやすいと思う。農産物だって、地元で採れたものがすぐ食べられて鮮度抜群だ。野菜も卵もとても美味しい。手始めにイサミの好きな既製品から段々生きの良いものにスライドしていくことにした。ゆっくり野菜や魚介そのものを食べるように慣らしていくのだ。 香川は地質もいい。だから水もとても旨い。軟水だから、水を良く使ううどんが発達した。水が軟らかいので、どんな料理も美味しくなる。この環境で何故イサミが野菜、魚類嫌いになったのかが謎なほどだ。 手始めに、 「ジュースだよー」 と、野菜ジュースを出したら、飲んだ。緑色と赤色の野菜ジュースは飲まない。オレンジ色と紫色のものは飲む。それから私は毎日、腕が抜けそうになりながら、スーパーで牛乳と野菜ジュースを買って帰ることになった。牛乳も野菜ジュースも毎日一本ずつ飲むから。野菜ジュースは体に悪いという人もある。でも、イサミほど野菜を食べない子は何からだっていいから栄養を摂らせたい。 ピーマンとセロリはどうやっても食べない。食べないからあきらめた。同じ栄養があるなら別の物を食べさせればいいのだ。 キャベツやニンジンはお好み焼きソースの味付けで野菜炒めすると食べる。お好み焼きや焼きそばも好き。 ナスもマーボー茄子にすると食べる。 大根やタマネギはスープや味噌汁にすると食べる。 ブロッコリーは塩ゆでしただけのものが途中から食べられるようになってきた。イサミはマヨネーズが好きだから。 トマトはただ切ってある方が食べる。スライスして、黒砂糖やハチミツをかけるのが好き。下手にマヨネーズやドレッシングをかけるのより気に入ったようだ。カフェオレに入れる砂糖もついでに黒いものにした。トマトに火を通したものは嫌い。ナポリタンは食べる。ケチャップはギリギリセーフらしい。 果物も食べる。バナナはあほほど食べるので一日二本までと決まりを作った。 イサミには卵の料理と果物の剥き方を教えた。まずリンゴを剥く練習をした。イサミは案外コツをつかむのが早かった。とにかく気を付けて刃物を扱うようには注意した。 卵料理を特訓したときは楽しかった。夕飯がだし巻き卵とゆで卵と卵かけご飯とかき玉汁になった。何がおかしかったのか忘れたけれど、二人で卵を料理しながら、夕飯を食べながら、私は随分笑った。 私が自分の鉄分補給用に作るクラムチャウダーもイサミは気に入った。魚介も工夫することにした。練り物は食べる。おでんも好き。魚肉ソーセージも食べる。寿司や刺身は好き。煮魚、焼き魚は食べない。魚を酢でしめたものも嫌い。バッテラも駄目。海藻の酢のものも苦手。味噌汁のワカメはオッケー。 でも、私が最近凝っているもやしの酢の物だけは何故か食べる。二人のブームがしばらく『酢もやし』になった。もやしは元々大豆だから栄養もあるし、なんてったって安いのがいい。 カレーやシチューやハヤシライスはもちろん好きだ。これらは子供なら皆が好きだ。これらの簡単な料理は教えた。でも、私がいない時は火を使わない決まりにした。イサミが来てからこっち、色々ルールができた。 朝、イサミは一人で起きる。自分でトーストを二枚焼き、玉子焼きを作って、トーストに挟み、マヨネーズを絞って食べ、野菜ジュースとカフェオレもたくさん飲んで、バナナを食べる。それから一人で片づけて、学校へ出かけて行くようになった。こうして朝のメニューは決まった。私は野菜ジュースをオレンジ色にしたり、紫色にしたりして用意するだけ。楽だ。 イサミが帰って来たら、果物やチクワが冷蔵庫にあるので、勝手に切ったり剥いたりして食べるようになった。 するとイサミが駄菓子を持ち帰る回数と量が減ってきた。いい傾向だ。 こうして改めておさらいすると、さほどヘルシーでもないみたいだが、ヘルシー一辺倒ではイサミが飽きるので、時々イサミの好きなジャンクフードを夕飯に出した。時々なのがまたいいみたいだ。リズムをつけた。だから冷凍食品も常備した。私は買い物が忙しくなった。でも、なんだか楽しかった。 子供に好き嫌いが多いのは味覚に敏感過ぎるのが原因だと思う。逆にいえば、慣れるように訓練すれば、本当の美味しさが分かるはずだと思った。この予測はほぼ間違っていなかったようだ。 ある日、私が仕事から帰るとイサミがいなかった。 「え? イサミ……」  イサミが出て行ったのかと思った。   その日、イサミは六時頃に帰って来た。嬉しそうだ。最近は表情の変化の分かり難いイサミの顔も読み取れるようになってきた。よく見ると口の端が上がっている。  その晩は夕飯に冷凍食品のピラフとブロッコリーを食べながらイサミが珍しく饒舌だった。シンちゃんと遊んでいた、という。 「シンちゃん?」 「ナカオカシン」 「ナカオカ……」  その日、イサミをシンちゃんが遊びに誘ってくれたらしい。 「前から時々、遊んでたよ」 「そう」  シンちゃんは正義感が強く、男前な男子らしい。多分、PTA会で私を庇ってくれたナカオカさんの子だろう。だったら、シンちゃんもいい子だろうな。ナカオカさんの雰囲気からして、我が子に友達を強制したりはしないだろう。だから多分、シンちゃんが自主的にイサミと遊んでくれたのだ。  イサミがいうには、クラスにイケメンで頭がいい子のグループが二つあるらしい。優しい子の方とそうでもない子の方があるという。シンちゃんのグループは優しい方で五人組、そこにイサミを誘ってくれて六人でフットサルをしたとか。 「アンタ、フットサルなんてできるの」 「できるよー」  これは……優しい子たちは本当にできた子たちなのだな、すげぇ。イサミみたいにのろまなデブがフットサルなんてできる訳がないもの。 そうでもない方のグループは多分如才ないタイプなのだろうな、目に見えるようだ。 私は聞きながら昔の今までのクラスメートたちをイサミの話に当てはめて想像した。  イケメンで賢くて優しいグループは別にイケメンでなくとも入れるのだ。たまたま気の合う子たちが寄り集まったら傾向が似ていた、というやつだ。イサミがいてもいいのだ。 「また、遊ぼうねって」 「良かったな、良かったな」  私はイサミの頭を片手でわしづかみにして、頭を揺さぶった。 「やめれー」  イサミは手をバタバタした。私は目尻に少し涙がちょちょ切れた。年取るといけないね。  以来、シンちゃんは本当に約束通り、度々イサミと遊んでくれるようになった。ほぼ毎回フットサルをするらしい。イサミがいうにはイサミのプレイも上達しているとか。本当に上達しろよ、遊んでくれなくなるぞ。  ある金曜日の夕方、スーパーへ向かっていると呼び止められた。オキタだった。やば。挨拶だけして、そそくさと立ち去ろうとしたけれど、オキタの間合いを詰めるのが達人級に早かった。 「焼き鳥で飲みなんていかがですか」  焼き鳥。飲み。  単純にいいね、と思った。随分、飲んでない、飲みたいかも。で、よせばいいのにフラフラついて行ってしまったのだった。  居酒屋チェーンの焼き鳥屋に連れて行かれた。悪くない、こういうところは好きだ。  久々にお酒が入って私はご機嫌になった。オキタのヤマもオチも意味もない話もへらへらきいていられた。こういった話し方をするということは、つまりオキタは頭がいいということだ、私にはできない芸当だ、これはこれで評価できる。私なんか普通に話すことが話すそばから炎上してしまう。話していた相手がいきなり怒りだすことがよくあった。でも私には理由が分からないことの方が多くて、これがまた始末が悪い。オキタを見習いたいくらいだ。概してイケメンはつまらないものだ。気になってスッキリしないオキタの顔も慣れた。だってイケメンなんだよ、目に入る人が美しくていいじゃないか。イケメンとの飲み、サイコー!  でも状況は一変する。 「未亡人ってセクシーだなぁ」  未亡人。誰のことをさしているのか一瞬、分からなかった。私かよ。未亡人、そんな言葉を今でも使う奴がいるなんて。まだ、死んでない人って言葉だよ、凄い言葉だ。お前、ジジイか、って感じ。日本にはかつて夫が死んだら妻も死ななければいけない時代があったのかもね。お墓に一緒に埋められていたのかもしれないな。『みぼうじん』なんて初めていわれた。頭の中に歌謡曲の『異邦人』の前奏が流れてきた。思わずライムしてしまったよ、おやじギャグともいう。私には『異邦人』の方がしっくりくるような気がする。いや、『宇宙人』の方がよりいいかもね。いや、『宇宙塵』かも。人間は星から生まれた。人間は星くずだ。人類皆兄弟、万歳。随分、お酒が回っているな。 「サカモトさんの下の名前はなんていうんですか」  コイツ、続けて地雷踏むなぁ。 「ははは」 笑ってごまかした。  サカモトさんでいいよ。  でも、オキタは私が答えるのを笑顔で待っている。あーあ。 「リュウコです」 「どんな字を書くんですか」 「ドラゴンの難しい『龍』に子です」  コイツに答えるのが面倒くさい。 「カッコいい名前だなぁ」  そうか? 私には嫌な名前だよ。旧姓なんて『勝』だよ。『勝龍子』だよ。字面が見るからに強そうじゃないか。女の子に付ける名前じゃないよ、もっと可愛い名前にして欲しかった。  弟は『鳳爾(ほうじ)』という。弟もよくこぼしていた。ヤツには画数が多すぎるのらしい。テストの時も名前を書いただけでミッションを完遂したような気分になって後のテストがガタガタだったとよくいっていた。  私たちの名前は伯父と父が私たちに与えた最初の試練だ。ライオンが子供を谷に落す例のやつだ。従兄のタカオだって『鷹雄』だし、画数は多いと思う。アイツは理数科の出だし、大学も東京の工業系の大学だし、東京で就職していたこともある。名前の画数が多いのなんて気にならない奴が大成するのだろう。ごめんな、鳳ちゃん、私も成績は良かったよ。あんたは谷を登れなかったんだよ、残念ながら。名前負けしたね。  タカオの息子のコゴローくんも成績は良かった。漢字は『虎吾狼』だ。名前の意味的に試練が一番厳しい。『前門の虎、後門の狼』だもの。だからか、コゴローくんの人生も過酷になった。コゴローくん、強く生きろよ。 しかし動物一家なのか。なんでスカジャンの背中や学ランの裏にいる動物ばっかりなのだ。伯父と父が元ヤンだったって話は聞かない。真面目人間が不良に憧れる類の現象だろうか。 「じゃあ、僕はなんて呼ぼうかな」  あ、オキタがいたんだった、忘れていた。 「龍子さん、かな」  やめろよ。 「それとも、龍ちゃ……」 「やめて下さい」  私は立ち上がっていた。店内の喧騒が一瞬静まったように感じたが、気のせいだった。 「私を名前で呼んでいいのは夫だけです」  オキタ夫が唖然としている。 りゅうちゃん。  え、ヒロキ?  ヒロキに呼ばれたような気がして店内を見渡した。いる訳がない。いてもおかしくない場所ではある。ヒロキがいない、どこにもいない。涙が込み上げて来た。涙をこらえて押し戻した。そしたら今度は吐き気が込み上げて来た。おえ、気持ち悪い。  ヒロキは本当に優しく私を呼んだ。ヒロキに名前を呼ばれると、私はまるで自分が優しい女になったかのような錯覚を覚えた。そうすると優しくなれた。 「すいません。悪酔いしたみたいなので帰ります」 「はい」 で、割り勘だった。もう、別にいいけど。  フラフラ帰っているとオキタがついて来る。 「一人で帰れます」 「放っておけませんよ」  ついてくるなー。 「休みますか」  というので見るとラブホテルだった。 あからさまなんだよな、こんなのに引っかかる奴いんのか、女をナメ切っている。猛烈に腹が立って来た。 「ばかにすんな!」  といってバッグの金具が付いた方でぶん殴ってやろうかと思ったが踏みとどまった。イサミの顔がよぎったから。イサミはああやってリサコちゃんに虐げられたり、シンちゃんと遊んだりしながら一所懸命自分の居場所を構築している。そこに大人の勝手で、いたずらに影響を与える訳にはいかないと思った。子供には子供の世界があって、できるだけそっとしておいてやりたい。  怒りで悪酔いは吹っ飛んだ。ありがとう、アドレナリン。 「もう、大丈夫ですので」  と、いってダッシュで逃げて来た。後ろの方でオキタが何かいっていたけれど構やしない。 私はパンプスなんて履かない。いつだってシューズだ。シューズを履いていて良かった。足が大きいからだけどね。メンズしか入らない、二六・五センチだ。意地悪だから足がでかいのかな。 シンデレラの話は迷惑だ。あの話以来、大足の女は意地が悪いことになった。 それは置いておいて、問題は今の状況だ。  私は御存じだろうが口が悪い。が、行動はさほどアグレッシブでない。実はチキンなんだよ。ああ、ムカつく。殴っておけば良かった。いつも、こういうパターンで後悔する。行動と気分が直結した人が羨ましい。  コンビニの前を通りかかった。そうだイサミの晩御飯。コンビニに寄ってフライドチキンをありったけ買った、チキンだけにね。  マンションに帰るとイサミが情けない顔で出て来た。相当お腹が減っているらしい。フライドチキンを見せると大喜びした。チキンにかぶりつくイサミを見ているとパグでも飼っているような気分になった。ひょっとして可愛いのではないか。  世の中には『育成ゲーム』なるものもあるくらいだ、何かを育てるのはレジャーなんじゃないか。中でも人間を育てるのは最高に面白いことなんじゃないか。  ユカリだって、最初の子を産んだとき、 「また、今までの人生やりなおすのかと思うとうんざりしちゃうよ。めんどくさーい」  とか、いっていたくせに結局四人も産んだ。  ある日テレビを見ていて、オキタにそっくりの俳優が出ているのに気づいた。なんだ、コイツに似ていたのか。子役から出ていて、私の印象では一時期、表舞台から消えていたけれど、また最近ブレイクしている俳優だ。確か、私より一〇歳くらい年下だったと思う。コイツもアゴが細すぎる。オキタの方がイケメンとして完成度が高い。つまり、悔しいけれど、より私の好みに近い。もう一人混ざっている俳優がアゴ担当なのか。もう一人はまだ、誰なのかが分からない。半分だけスッキリした。  イサミの楽しい夏休みが始まった。イサミはシンちゃん達と毎日、フットサルをしたり、虫捕りをしたり、プールや海へ行ったり、本当に楽しそうだった。  ある時、ナカオカさんのご主人が子供たちをキャンプへ連れて行ってくれることになった。イサミは行く気満々だ。 「アンタ、おねしょどうすんの」 「多分、だいじょーぶ」  意気揚々と出かけて行った。確かにおねしょは良くなりつつあった、でも心配だった。結局は私の取り越し苦労で、嬉しそうに帰って来た。 キャンプでのことを沢山話してくれた。夜中に子供たち全員がトイレに行きたくなって、連れ立って肝試しのようになりながら、真っ暗闇の中、トイレへ行ったらしい。その後は明け方くらいまで皆が興奮して眠れなかったようだ。ナカオカさんが再三眠るように促したけれど、全員がほぼ徹夜で、イサミも帰ってきてから爆睡していた。  後日、ナカオカさんとスーパーで会ったので、色々のお礼を述べた。 「いいんですよ、シンもフットサルができるようになって喜んでいるし、イサミくんと遊ぶようになって良かったです」 「いやいや、ホント、なんとお礼をいえばいいか」 「イサミくんはお話が面白くて、うちの子も話すことがちょっと変わってきて、私も面白がってるんですよ」 「へえ」  ど、どういうこと? 「そうだ、サカモトさん」 「はい」 「コーラスやってみませんか」 「いいですね」  唐突な話だったけど、即答した。どうやらナカオカさんの知り合いが音大の出で、コーラスのサークルをやっているらしい。 「話を通しておきますから、気が向いたら行ってみてくださいね」 「はい!」  ナカオカさんには世話になってばかりだ。私はカラオケが大好きだ。でも、友達付き合いをしなくなってから、もう何年もカラオケに行っていない。久しぶりに歌いたいと素直に思った。でも、色々が忙しくてしばらくコーラスに行くことは叶わなかった。  キャンプ以来、イサミはおねしょをしなくなった。ある日、イサミが自分から進路のことをいいだした。 「中学生になったらシンちゃんとサッカー部に入る」 「シンちゃんはどこの中学に行くの」 「K中だよ」  公立か。そりゃそうだ、この辺りの子は優秀だろうと、平凡だろうと皆、公立に行くよね。医者の家業を継ぐとか、イジメに遭ったとか、よっぽどの理由が無いと私立には行かない。でも、その頃には私も考えが変わってきていた。いいじゃん、公立。お金がかからないし。大賛成だ。 「K中に行くなら、自転車買わなきゃね」 「うん」  サッカー部か。タカスギは今頃、どうしているのかな。お父さんになっているだろうか。  中学の時、私は身体が大きかった。ついたあだ名は『ドラコ』。男子たちは私を、 「燃えよ、ドラコ」  とか、 「ドラコ・クエスト」  と、からかっていた。せめて『ドラミ』くらいにしてくれないかな、なんか可愛いじゃん。ドラクエが発展して『魔王』と呼ばれることもあった。 私は身体が大きいのに卓球部にいて、同じ部活の子と仲が良くなかった。卓球部の子たちは、私のことを、 「しょーりゅーけん」  と、呼んだ。長いんだよ、センスねーな。『勝龍』で『しょうりゅう』ってことらしい。格闘ゲームの技の名前だ、字は違うけど。しょーりゅーけん、なんて呼ばれると、ラーメン屋にでもなったような気分がする。 毎回、部活のランニングから帰ってくると、グラウンドにはサッカー部と女子ソフトボール部の子たちがいた。サッカー部のタカスギは毎回私を見て、 「痩せろ、ドラコ! この、デブ」 と、ヤジった。するとソフト女子達が、 「勝さんはデブじゃないよ。可愛いよ」  とか、いいだしてサッカー部とソフト女子の間で言い合いになるのだ。私は恥ずかしいのですぐ逃げた。ああやってサッカー部とソフト女子でコミュニケーションして楽しんでいるんだなと思っていた。  三年になったある日、卓球部の子達が、 「タカスギがしょーりゅーけんのこと、好きなんだって」  などと、いいだした。卓球部の子達にからかわれていると思った。タカスギのことは好きだった。卓球部の子達にバレているのかと思った。自然に強がってしまった。 「嫌だよ、あんなチビ」  卓球部の子達は、 「なら、断っておいてあげる」  といって塊になって走って行った。後日、卓球部の子の一人と話していたら、あれがタカスギのマジの告白だったと分かった。何故、卓球部の子達を通したんだ、タカスギ、私たちは仲悪いんだよ、バカ野郎、上手くいくわけがないよ。  タカスギは小柄で、可愛い顔をしていた。以来、それが私の好みのタイプとして定着した。今でも野球をしている人よりサッカーをしている人の方が好ましい。  私はその後、一念発起してダイエットした。そして高校デビューした。女の子達は私のことを、 「モデルみたい」  と、褒めてくれた。全然そこまでではない。女子にラブレターを貰ったこともあった。  やさぐれグループの友達は私を、 「おりゅー」  とか、 「りゅーやん」  と、呼んだ。派手系女子は陰で私のことを、 「ヅカ」  と、呼んでいた。言わずと知れた『宝塚歌劇団』のことだ。男子より女子にモテていたからだろう。当時は髪形もベリーショートだった。  ある日、廊下を歩いていたら、男子にすれ違いざま、 「サド?」  と、いわれた。  え? と、思って見ると、その男子は走り去って、廊下の端で仲間たちとふざけ合っている。私はどうやら男子に怖がられていたようだ。それまで気づかなかった。  私は、本当は天然なんだよ、お気付き? でも外見でそうとは見て貰えない。私の天然嫌いは同族嫌悪だ。いや、真に恨んでいるのは天然女じゃなくて、癒し系女子なのかもしれない。見るからに優しそうな女の子が憎いんだ。いや、自分が憎いのか。私は、本当はモカちゃん側のキャラなのだよ。  タカスギもそうだったけど、向こうから私に寄って来るのは『俺様系』男ばっかりだ。  大学時代は松山市で過ごした。学部は理学部で、生物学科だった。動物学者になりたかったのだ。動物園の飼育係でも良かった。 大学に入ってすぐ、同じクラスのヒジカタが寄って来た。 「俺様が付き合ってやってもいいぜ」  みたいな。私も、 「別に付き合ってもいいよ」  みたいな感じだった。でも、オマケが付いてきた。A子だ。  A子は仮名だ。ていうか、この話に出て来る人は皆、仮名だよ。お気付きでしょう。そもそも、イサミの本名が『竜馬(りゅうま)』というから、こんなことになったのだ。全員、幕末の名前になった。イサミ、お前はリュウマっていうような面じゃない、いいとこ『ヤタロウ』だ。大負けにまけて、イサミにしてやっているのだ。この話は置いといて、A子の話だった。  A子はヒジカタが好きだった。そして頑張るベクトルがおかしかった。私を、仲間たちと一緒になって総攻撃したのだ。どこの教室へ行ってもA子の一味がいて、聞こえよがしに私の話をし、その度に私はつるし上げをくらい、こき下ろされた。私はせわしく上げられたり、下げられたりですっかりくたびれきってしまった。A子、別の努力をしろ。  女子は攻撃する時はまとまるが、防御する時はまとまらない。私だって友達はいたけど、誰も庇ってくれなかった。自分に飛び火すると嫌だからね。相手もそのことはよく分かっているから私だけピンポイントで攻撃する。ああ、やさぐれグループがいてくれたら良かったのに。  結局、地方の国立大の女子は、勉強より将来の伴侶の獲得に躍起になっていた。地元に帰ったら、国立大出の男子なんて、ほぼいないからね。女子大生は大学時代の開始と同時に、婚活を始めなければならない。一方、私は、少し皆からズレていた、天然だからね。とにかく面白い奴に会いたい、と思っていたのは覚えている。でも、自分より面白い奴なんていなかった。自分に一番、興味があった。自分が一番好きなのだ。  その後、私はA子に、大学を辞めようかと思うくらい追い詰められた。でも、今まで一六年間も勉強してきたのは何のためだ? 大学卒業するためだよ!  半分、病気みたいになりながら学位をもぎ取った。就職活動なんて、する余裕もなく、香川に帰って、ボーッとしていたら伯父が雇ってくれた。もちろん、動物学者には、なれなかった。飼育係にも、なれなかった。  その後、トーコや他の友達が男の子を紹介してくれたりしたけど、まとまらなかった。  色々あったけど、人生で巡り合った男子の中では、やっぱりヒロキが一番良かった。  我に還ったら、イサミがじーっと私の顔を見ていた。面白れーな、コイツ。私、今回は何分くらいトリップしていたのかな。コイツ、ずっと見ていたのかな。観察されてしまった。 「ああ!」  私はイサミの顔を両手で挟んだ。 「か、顔が」  イサミの顔が変わってきている! ほっぺが垂れてない! イサミの顔は縦に伸び始めていた。顔の各所にかかっていた圧も少し和らいできている。コイツ、このまま行ったら、普通の顔くらいにはなるんじゃねーか。 「えーっ!」  イサミがビクッとした。 「イサミが、イサミが……」  イサミが普通の顔になったら、つまんないよ! そういえば背も伸びてきてる? しかも痩せてきてない? 身体全体も横の比率が減って、縦の比率が増えてきてる! 色も焼けてるし!  そうだった、男の子は急激に変わる。私の弟の鳳ちゃんだって、私より六歳下だが、私が大学に四年間いる間に別人のようになった。元々ほっぺがぷっくりした小デブの超キュートな天使の絵みたいな子だったのに、私が帰ると細長く伸びた高校生になっていた。いや、高校生というより、むしろオッサンぽかった。そうだ、男の子って、そうだった。すっかり忘れていた。 「ねえ、ねえ」  私が何故かガックリきているのにイサミはお構いなしだ。 「なんだよ」 「ヒロキ兄ちゃんはいつ来るの?」 「は?」  一瞬、ヒロキがやっぱり生きているのかと思った。私が知らないだけかと思った。違う。イサミはヒロキが死んだことを知らされていないのだ。 「え、えーと」  イサミが幾分大きくなった目でひたむきに見ている。事実を知らせる役目まで、サカモトの両親に丸投げされてしまったようだ。嫌だよ、そんな役目。 「ヒロキは、ヒロキは」 「うん」 「転勤になって、遠くで働いているんだよ」 「そっか」 「年末には帰ってくるんじゃないかな」 「ヒロキ兄ちゃんが帰ってきたら、一緒にゲームするんだ」 「ほう」 「ヒロキ兄ちゃんがいなきゃ、ゲームしちゃ駄目なんだよ」  サカモト家では、そういう決まりだったのだろう。 「楽しみー」 「そうだね」  その瞬間、ヒロキはサンタさんになった。 そうしてイサミに嘘をつくことで、私は自分までも言いくるめることができた。そうだ、ヒロキは今頃、フィンランドとかにいて、トナカイの世話をしながら、世界中の子供に配るプレゼントを用意しているに違いない。何だか本当に年末に帰ってくるような気がした。イサミにゲームを持って帰って来るんだ。イサミがこのドリームを共有してくれる。いいじゃないか、イサミと一緒にヒロキを待とう。  ある日、ゴミを捨てに行ったら、同じマンションのモカちゃんの母、セリザワさんに会った。 「おはようございます」 「あ、サカモトさん、ここだけの話なんですけどね」 「はい」 「オキタさんに気をつけてね」  遅いよ。 「あのね、大きな声ではいえないけどね……」  セリザワさんがいうには、オキタがイサミの保護者を次々と餌食にしているということだった。餌食なんて、大げさな言い方だな。 「それで、イサミくんの保護者が変わるの」 「そうだったんですか」  オキタは人でなしだな。 「イサミくんの保護者は皆、妙齢、独身のお嬢さんでね」 「ほう」  そんな女のところに転がり込めるなんて、イサミは大したものだ。ジゴロの素質があるな。だから、ヒロキと気が合うのだな。 「みーんな、泣き寝入り」 「ふうん」 「気の毒ねえ」  全然気の毒じゃない。多分、イサミ好みの癒し系女たちだったのだろう。イサミとオキタは女の好みが似ているのだな。いや、世の中の男は、皆似たような好みかもね。キツイ美女もぼんやり癒し系女も好きなのだ。  私の弟の鳳ちゃんもずーっと面喰いだった。けど、結局今のお嫁ちゃんと結婚した。お嫁ちゃんは花に例えると、タンポポみたいな子だ。癒し系だけど、しっかり大地に根を張って、この子になら鳳ちゃんを任せられる、と思った。ちなみに武家の女だ。平家の末裔。  多分、オキタは詐欺まがいのことはしてないはずだよ。私だって金銭は要求されなかった。他の女も、ただ、遊ばれただけだろう。不倫は男だけじゃなくて、女も悪い。自己責任ってやつだ。妙齢、独身の女なんて、世間知らずだろうし、オキタからしたら、ちょろいだろう。 「奥さんが全く気にしないの、あそこは」  だろうな。相手にもしないだろう。 「ねえ」  何だか、セリザワさんがニヤニヤと嫌な目つきをしている。何がいいたいのだ。セリザワさんは『何を考えているのか分からないタイプその三』だな。いや、『何を考えているのかを知るのがちょっと怖いタイプ』かも。 「ちょっと、ガツンとやってやりたくない?」  分かった。セリザワさんは、私が既にオキタと何かあったと睨んでいるのだ。で、私を焚き付けているのだ。 ちょっと、怖いよ、この人。人の不幸が好きなんだ。オキタとかオキタ妻と私が揉めたら面白れー、って思っているんだ。わざと遅れて忠告してきたんだ。私がオキタとどうこうなるのを待っていたんだ。うわ、嫌な人に会ったよ。じわじわダメージがくる。  私は慌てて言い繕った。 「私なんて、ソーキコーネンキで、ホルモンが干上がっちゃってて、おばさん通り越して、おじさんになっちゃってきてるから、声なんてかからないですよー。あははー」  早期更年期障害のことなんて、これっぽっちも知らない。ただの言い訳だ。 「そう? でも、サカモトさん、お綺麗だから」 「ああ、イサミのご飯を作らなきゃー」  走って逃げて来た。三十六計逃げるに如かず。朝から嫌な目に遭ったよ。ああ、やだやだ。オキタ妻より、オキタより、セリザワさんの方が怖いよ。最凶じゃねーか。  その日は本当に嫌な日になった。夕方、イサミのバアさんがイサミを迎えにきた。チャイムが鳴って、ドアを開けるとバアさんがいた。いきなり高級な梅干しの折を渡された。梅干しババアに上がって貰った。小六のイサミのバアさんにしては、随分高齢だな、見た感じ八〇代後半くらいかな。サカモトの両親くらいの年齢かと予想していたのに。でも、動きがかくしゃくとしている。 「ばあちゃん」  イサミが立ち上がった。 「本当に奥様にはご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません」 「いえ、いえ」 「そもそもサカモトさんがイサミと公園で意気投合したのが最初です。イサミは前から家出ばっかり繰り返す子で。サカモトさんの家に行きたいというので、行き先が分かっているなら、と行かせてしまいました」 「はあ」 「養子縁組なんて、とんでもない。そんなことはしておりません。ババが養っております」  え? 保険証、使えたけど。一体、誰がいっていることが本当なんだ。この一見しっかりしているバアさんが、本当はまだら認知症という可能性もなくはない。何を信じればいいのだ。 「余りに長くなったので、迎えに行ったらサカモトさんが亡くなったということでびっくりしました。イサミはおやつをとりに来ても何もいわないので私は全く存じ上げませんで、すみません」  イサミの目が今まで見た事ないくらい、大きく見開かれた。 「こうして奥様にまでご迷惑をおかけしてしまって、本当にすみません。年寄りなもので、目が行き届かなくて、本当に申し訳なく思っております」 「ヒロキ兄ちゃん、死んだの」  イサミが私を見た。 「いつ、死んだの」  私もイサミを見た。ああ、ドリームが崩壊した。私も現実が見えた。イサミ、ありがとう、今までドリームを共有してくれて。イサミとなら、ヒロキを失った悲しみも分かち合えたかもしれないね。 「嘘ついて、ごめん。イサミ」  イサミはそれ以上聞いてこなかった。 「さあ、帰るよ、イサミ」 バアさんは、手早くイサミの荷物をまとめると、イサミの手を引いて連れ出した。バアさんはサンダルを引っ掻けて、イサミの靴を持って、イサミは裸足のまま外に出た。 「イサミ」  私は反射的に止めようとした。けど荷物からはみ出た何かに、 『いわさき いさみ』  と、書いてあるのが見えて、一瞬ひるんでしまった。でも、慌てて後を追った。私も裸足で外に出た。イサミはずーっとこっちを見たまま連れられて行った。二人はエレベーターの方へ曲がって行って、私の視界から消えた。 「イサミ」  それ以上は追えなかった。    久しぶりに晩酌した。 「イサミがいなくなって、どうすんだよ、大量の冷食」 独りごちた。返事する者はない。また、独りぼっち、か。私の声がイサミの部屋の薄暗がりに吸い込まれて消えた。 つまみはサバの味噌煮。イサミはお惣菜屋の『ジュンちゃん』のサバ味噌なら食べられる。今日はイサミに食べさせようと思って買ってきてあった。そば焼酎をロックで飲むと、無限に飲める。ヒロキがいなくなって、酒量は増えていた。でもイサミが来てからはぴたりと治まっていたのに。  イサミにかけてもらった魔法が解けた。 ヒロキは死んだ。ヒロキは死んだんだ。例え、神戸に探しに行っても、フィンランドに探しに行っても、ヒロキはいないんだ。地球上にヒロキは存在しないんだ。  昔、ヒロキはネバーランドの住人だった。そのときは私もヒロキと同じところにいた。ヒロキはピーターパンで、私はウエンディだった。私が年齢の割にガキで、それが良かったのだ。でも、女と男の成長のスピードは違った。ウエンディは先にネバーランドを離脱した。私はヒロキより先に大人になった。女は、ウエンディは先に現実に戻るのだ。現実を見るようになる。いつの時代だって、どのカップルだって、そう。男は身体ばかり大きくなっても、中身はガキのまま。 そして、私はヒロキの母親のようになってしまった。ヒロキを『わたしのこども』にしてしまった。でも、ヒロキ、私は毒親だったね、あなたを支配しようとした。だから、ヒロキは私のところを去った。分かっていた、分かってたよ。でも、自分でも、どうしようもなかった。 それから、私は幼児のように声をあげて、泣いた。   夜は押入れから、レオを出した。父に最初に買ってもらった、ライオンのぬいぐるみだ。動物は私にとって、家族の象徴だった。 フクロウは弟の鳳ちゃん、ウサギは母、ヘビは私、そしてライオンは父だ。  フクロウは「ホー」って鳴くから、鳳ちゃんだ。鳳凰もフクロウも同じ鳥類だしな。いや、鳳凰って、鳥類か? 架空の動物だし。まあいいや。 母は卯年。でも、私はウサギのぬいぐるみは持っていない。母がウサギグッズを収集しているから、ウサギ物は母に全部あげてしまう。  ヘビについては私が巳年ということもあるが、それだけではない。インドで仏教の教典に書かれた『龍王』とはコブラのことだ。教典が中国に伝わった時、中国にコブラがいなかったので、龍は架空の動物になった。私は『ドラコ』じゃない、『コブラ子』だ。だからヘビが私の分身なのだ。  ライオンが父なのは、やっぱりレオの影響だろう。デパートでレオを見つけて、一目ぼれしたけど、当時八〇〇〇円もしたので、一旦あきらめたのだ。翌日、父が買ってきてくれた。私のぬいぐるみ好きはレオが発端だ。子供のときはいつも連れ歩いていた。レオが大きいので目立ち、同級生が隠れて笑っていた。中学にあがっても、ライオンの子と、いわれ続けた。卓球部の子の母親までがいっていた。部活で集まっていた時に、 「『勝さんって、あのおっきなライオンのぬいぐるみを抱えて、うちに来た子ね、小六にもなって』って、うちのお母さんがいっていたよ」 とか、わざわざ皆の前で報告された。この子と母親は二人そろって底意地が悪いな、と思った。他の小学校出身の子は知らないことなのに、わざわざ教えたのだ。 私はレオをじっと見つめた。 今、私は父親的なものを欲しているんだ、弱っている証拠だ。  昔のぬいぐるみは肌触りが悪い。台所のスポンジの硬い方、とまではいかなくてもそれに準ずるくらいごわごわしている。今のぬいぐるみはふわふわ、すべすべしている。技術の進歩はぬいぐるみまでも変えた。 その晩はレオと眠った。明日は元気になろう。思えばヒロキは父親のいない私をずっとピーターパン的に守ってくれていたんだ。  翌日は土曜日だったので、ナカオカさんに勧められたコーラスサークルに初めて行ってみた。  年配の人が多かったけど、保育士とか先生とか、元々カタイ職業の人が多くて、きちんとした感じのいい人達ばかりと知り合った。試しにソプラノのパートを歌わせてもらった。初心者はソプラノからなのだ。凄くスッキリした。これ、いいんじゃないかな。 先生が、ニコニコと、 「これからも続けてみたら」  と、おっしゃった。気分が上がってきた。  その後ナカオカさんに電話した。何かお礼をしたいと申し出ると、ナカオカさんは和小物を作るのが趣味なので、お礼に古い着物をあげることになった。母が茶道をしていたので古い着物なら沢山ある。  機嫌よくマンションに帰った。部屋は薄暗く、ガランとしている。こんなに広かったかなぁ。  ふと、イサミの部屋に何か落ちているのを見つけた。私がイサミに買ってやった漫画だった。バアさんが、置いて行ったのかもしれない。瞬時にイサミの物でない、と判断したのだろう。あのバアさん、色々凄いよね。元気だし。語気は弱かったけれど、行動がいちいち力強かった。絶対、勝てない、と感じた。  ぼんやり、漫画を見つめていたら、気分が変わってきた。いや、むしろ、勝とうよ。 そこで、気付いてしまった。子供を産んだことも無い、むしろ子供のことが苦手な私が何故、イサミを問題なくスムーズに扱うことができたのか、ということに。こんなに上手くいったのはおかしいじゃないか。皆、子育てには、もっと苦労している。私は子育てをなめている。本当ならもっと苦しむはずだ。 イサミは保護者のところを転々としている間に、育てやすい子供を演じるようになっていたのだ。私たちが上手くいったのは、私だけが努力していたのではなかった。イサミの方が私より大人だった。どっちが保護者なんだよ。それにイサミは本性を隠してか、年齢よりも子供っぽく振舞っていたように思う。今になって気付いた。くそう、イサミの馬鹿。 私はマンションを飛び出して、駄菓子屋イワサキに猛然と走って行った。 「たのもー」  イワサキに入ると、奥にバアさんがいて、隣でイサミが駄菓子をかじっていた。二人は私の姿を認めてビックリしている。 「おバアさん、イサミを私に下さい」  だって、イサミは、イサミは、ヒロキが私に残してくれた『わたしのこども』なんだから。 私の鬼気迫る様子に、バアさんは声も出ないようだ。ポカンとしている。私は生まれて初めてアグレッシブな行動をした。今回は絶対、後悔したくなかった。  イサミの顔が、ぐしゃっとなって、不細工な顔が、また一段と不細工になった。
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