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暴れ川から少し離れたところに、別の峰へと繋がる岩山がある。その岩肌めがけて川の流れをずらせたら、道明沢に流れ込む勢いが弱まるに違いない。
そう。道明家の厩で暴れた疾風号の時のように、怒りを無理やり止めるのではなく、落ち着かせるのだ。自然と人間とが共に生きられるように、少しだけずれていただく。伊縁はその考えを早く秀将様にお伝えするべく、びしょびしょに濡れるのも構わず、来た道を走るように引き返した。
「なるほど。川の勢いを止めるのではなく、逃がしてやるというわけか」
「はい。この勢いは、無理やり止めてはいけないということが、実際に見てよく分かりました」
「だが、川の流れをどうやってずらすのだ」
「書物にありました。石を積み上げて、堤防を作るのです」
「堤防?」
たくさんの石を運んで、積み上げていく。しっかりと固めて、小山のごとき壁を作るのだ。
「時間と労力の掛かる作業だな」
「まずは、洪水の被害を減らす程度に築ければ良いと思います」
「いずれもっと長くて頑丈な堤防を作れたら、領地の農作は安定するだろうな」
「はい。領民は、季節問わず農作物を育てることが出来ます。米、豆、野菜……。いろいろな作物が作れるようになれば、不作の心配も減らせます」
秀将様は、濡れねずみのような伊縁の姿を眺め、小さく笑った。
「まずは、湯を沸かして浴びて来い」
「ですが、風呂場は秀将様の……」
「良い。俺が使って良いと言うのだから、使え。着替えもだ。風邪を引かれては困るからな」
「あ、ありがとうございます……」
その後、どうやって湯を浴び、部屋に戻ったかよく覚えていないくらい、伊縁は心ここにあらずだった。秀将様の着物は、伊縁の体格では帯で引き揚げてもまだ大きくて、腕も足もすっぽり包まれてしまった。
その姿を見た秀将様が、くくっと目を逸らして笑った。
「伊縁には大きすぎたようだな」
「申し訳ございません……」
細くて頼りない自分は、みっともない。いずれ秀将様の盾となって戦うのが小姓の一番のつとめだと言うのに、逞しい身体つきにもなれず背も伸びない。こんな自分で、秀将様の頼りになれるのだろうか。
「今、及び腰になっただろう」
「え?」
「顔色を見れば分かる。良いか伊縁。お前の頭の中を、もっと多くの書物で満たせ。お前は、俺の片腕なのだから」
「秀将様の片腕……」
「それぞれが得意なところを活かせば、道明沢をもっと良く出来る。お前は、お前の得意なやり方で、役目をまっとうすれば良いのだ」
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