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「伊縁、また足が止まっているぞ。急げ」
「は、はい」
いくら身分の別なく学問が出来る場とはいえ、秀将様と自分が親しくなることなどないだろう。大丈夫。いつも通り、書物のことだけを考えていよう。伊縁は、大股で歩く正興様のあとを追った。
ある日の休息の時間。身体を動かす者、たわいのない話に興じる者。思い思いに休息を取る子ども達の中で、伊縁は、住職にお借りした書物と格闘していた。
(秀将様の前で、組み討ちの試合をしないか)
(組み討ち? この寺でか?)
(そうだ。だれが道明沢武士にふさわしいか、だれが秀将様のお役に立てるのか、お見せしようではないか)
(なるほど、それは名案だ。秀将様とお近付きになれる、良い機会になる)
そんなささやき声が、書物をめくる伊縁の耳に聞こえてきた。
秀将様が寺に通い出してふた月が経ったけれど、伊縁はここでも秀将様の声を聞いたことがない。ちらりと目をやれば、固く口を結び目を伏せて、いつもひとり文机に向かわれている。
正興様のお家である蓮司家をはじめ、伊縁より身分の高い家柄の子もいるというのに、そういった寺子たちとも一線を画しているように伊縁には見えた。
一緒に学ばれたいとおっしゃったわりには、ふた月の間だれにも話し掛けることはなかったし、そんな秀将様に、こちらから声を掛けるのもはばかられる。組み討ちの試合を見せれば、秀将様の方から声を掛けていただけるのではないかと、ささやき声の主たちはそう言っているのだ。
(わたくしは……ご辞退申し上げたい)
武術の苦手な伊縁は、組み討ちをしたところで負けるのは目に見えている。どうか自分にまで出番が回ってきませんように。という伊縁の願いは、あっけなく打ち砕かれた。
ようい、はじめ。の声を聞いた瞬間、伊縁は背負い投げられ、地面に叩きつけられていた。からすがカアカアと鳴いている高い空を見上げながら、やはり武術は嫌いだ、と伊縁は思う。
「伊縁、早く起きろ。邪魔だ」
正興様の容赦ない声に、のろのろと身を起こす。着物に付いた汚れを手で払うと、伊縁だからな、仕方ないよな、という寺子たちの笑い声を背に受けながら裏庭へ回った。汚れた手を洗わなければ。
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