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そうか、あの時も秀将様はそういう気持ちだったのだ。伊縁は思い出した。
武術を理屈で覚えれば良いと導いて下さったあの時、「俺には許されないことだ」と秀将様は少し淋しそうにおっしゃった。たぶんあの頃から、みんなが得意なことを生かせる暮らしを思い描いていたのだろう。
そんな暮らしが出来たら、どんなに良いだろうと伊縁は思った。だれもが暮らしやすい道明沢になったら、どんなに素敵だろう。そのために自分は、秀将様の片腕となる。
「一生懸命、つとめます」
伊縁は初めて、真っ向から秀将様の目を見つめた。背の高さが違うから見上げたというのが正確なところだけれど、決意のこもった伊縁の視線を、秀将様はしっかりと受け止めてくれた。
「頼んだぞ」
堤防を作るという伊縁の案には、寺に集まっただれもが驚いたけれど、住職の後押しもあって、すぐにでも取り掛かることになった。
秀将様は身分や年齢などにかかわらず、広く意見を求められる。それを取りまとめるのが伊縁、そんな風に役割も定まってきた。
「秀将様と伊縁様に、相談してみよう」
新しい空気が、また新しい案を生む。石切りをなりわいとする者、伊縁とともに記録の出来る者、測量に長けている者など、寺での集まりは、少しずつその人数を増やしていった。
伊縁と住職が堤防作りの差配をしている間に、秀将様は館の返事を取り付けようと奔走していた。これが一番難しく、危険な役目だ。
矢面に立たされるであろう秀将様は、そうでなくても側室の子という出自のせいで、命を狙われる立場だ。堤防を作るなどという目立つことをすれば、ますます父の元秀様から疎んじられるに違いない。
「それでもやらなければいけない。それが俺のつとめだ」
そう言う秀将様に、伊縁の心は切なくなる。けれど、秀将様がやると言ったことに従うのみだ。
伊縁は、秀将様が無事で過ごされるよう、より一層身の回りに気を配ることにした。秀将様の部屋の前室で、寝ずの番をしようかとさえ考えている。
「お前は俺の寝床にまで入ってくる気か」
「も、申し訳ございません。ですが、お休みの時が一番心配で」
「大丈夫だ、俺は少しの気配でもすぐ起きる。お前こそきちんと休め」
「わたくしこそ大丈夫でございます」
「ふ」「ふふっ」、顔を見合わせると、秀将様と伊縁は思わず吹き出した。
「大丈夫の言い合いなど、初めて聞いたわ」
「はい」
秀将様の、少しぶっきらぼうだけれど優しい物言いは、伊縁だけの秘密だ。こうやって秀将様をひとり占め出来ている時間が夢のようだと思う。
この時間が、いつか来る秀将様の奥方様のものになってしまうのが、悔しいとさえ思ってしまう。思うことすら許されないとは分かっていても。
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