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「あれほど粗暴なふるまいをしていた秀将様が、お前には心を許しているそうじゃないか。さては閨を共にでもしたか。伊縁程度の色に溺れるとは、秀将様もたやすいものだ」
正興様の物言いは、伊縁を憤らせた。自分をどう言われようが、それは構わない。けれど、そのことで秀将様を貶めるのは許せない。
「正興様、秀将様はそのようなお人ではありません。もし、わたくしがそのような安易な企てを巡らせたところで、すぐに見破りお手打ちにされることでしょう。秀将様をそのようにおっしゃるのはやめていただきたい」
伊縁らしからぬ剣幕に正興様は一瞬鼻白み、伊縁を責めるように、肩を強く掴んで壁に打ち付けた。
「いっ……」
「そうか、お前は秀将を選ぶんだな。よく分かった」
秀将様を呼び捨てにする正興様の声は、まるで井戸の底から聞こえてくるようだ。伊縁はその声の冷たさにぞっとした。
「……正興様」
「もう行っていいぞ」
伊縁は、痛む肩を押さえながら正興様の腕から抜け出すと、出来るだけ早足でその場をあとにした。一度だけ振り返れば、壁に向かって立ち尽くしたままの正興様の背中が見えた。
伊縁が目を覚ましたのは、ずきずきとした痛みのせいだった。どうして身体が痛むのだろう、そしてどうして着物がこんなに汚れているのだろう。
寺から戻る山道で、何が起きたのだったか。伊縁は、必死に記憶を辿る。
そうだ。正興様に足止めされたあと、急いで寺へ向かい、話し合いを終えて、ひとりで山道を下っていたのだった。住職との話が長くなったので、供の武士は先に戻らせている。夕方の山道はひんやりとしていて、何となく不穏な空気を漂わせていたのは、あとから思えばの話だ。
背後からだれかに押されたのだと気が付いた時には、すでに伊縁の身体は蛇道から谷へと転げ落ちていた。木の根元や岩に頭をぶつけ、いつの間にか気を失ってしまったらしい。
伊縁は、真っ暗な場所に閉じ込められていた。腕は縄で縛られ、柱にくくりつけられている。口には布が咬ませられ、声を出すことを封じられていた。
(わたくしは、だれかに襲われ、どこかへ囚われている、ということか)
以前秀将様の命を狙ったのは、蓮司家の刺客だった。塁が及ぶことを恐れて、秀将様は自分の周りから人を遠ざけていたのだ。なのに、こんなところで伊縁が捕まってしまっては、秀将様の考えが台無しになってしまうではないか。
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