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(わたくしが殺されてしまったら、秀将様は、きっとご自分のせいにする。秀将様の足手まといにはなりたくない、何とかして逃げないと)
微かに動く空気の流れを頼りに目を凝らしてみると、壁板の隙間から、外の気配がする。暗いと感じたのは、外も夜の闇だからだ。
ここへ捕らえられてから、どれくらいの時が経ったのだろう。秀将様は、無事に茶会から戻られているだろうか。父が同行しているし、何より元秀様がいらっしゃる。秀将様が刺客に襲われる心配はないだろう。狙われたのが伊縁だけなら、自力で脱出するのみだ。
伊縁は、縛られている手を懸命に動かした。けれど、縄は柱に固く結ばれていて、緩む気配がない。口の布はますます伊縁を締め付けてくる。動けば動くほど、蛇のような邪念が絡みついてくるような気がする。その邪念こそ、誰かの恨みであると伊縁は確信した。
恨まれるということの、なんと恐ろしいことか。これを、秀将様はずっと味わってこられたのか。伊縁は気が遠くなりそうになった。
その時、暗闇の中からぬっと腕が伸びて、伊縁の首を絞め上げた。
(しまった、人がいたのか)
武術の苦手な伊縁は、殺気というものが分からない。武士として致命的な弱点を、今まさに晒してしまっていた。
「う、ぐ、ううう……」
その腕は、片手で伊縁の首を締め上げながら、もう一方の手で、着物の合わせ目を探り出す。
(殺すつもりではないのか?)
口は布で塞がれている、首を絞められ、鼻から息も吸えない。少しの空気を取り入れるのに精一杯で、合わせ目に入り込んでくる蛇のような感触を防ぐ余裕がなかった。男の自分を辱めようとするこの手は、一体何を意味するのだ。
抗うのにも限界が来ていた。強い力が、伊縁の脚に割り込もうと身体を入れてくる。その圧力に、伊縁は憶えがあった。狙われる理由。恨まれる理由。もしかしてこの手の主は──。
「伊縁! どこだ、伊縁!」
外で、力強い声がした。伊縁の肌をまさぐろうとしていた手が、はっと力を緩める。その隙に、伊縁はありったけの力を込めて、両足で床を打ち鳴らした。
(秀将様! 秀将様!)
「伊縁!」
がたがたと音を立てて、扉が開かれようとしている。
「ちっ」
と小さく舌打ちが鳴って、伊縁にのし掛かろうとしていた気配は消えた。
先に帰らせた供の武士が、
「秋津殿!」
と掲げる灯りに浮かび上がったのは、秀将様の姿だった。
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