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急転
幸い、滑り落ちた時の打ち身やすり傷以外に大きな怪我はない。秀将様に抱えられて炭焼き小屋の外に出ると、供の先導で、里山を降りた。伊縁の後ろには、頼もしい秀将様の気配がある。その安心感に守られながら、秋津の家へと戻った。
夜の間、ずっと寝ずに帰りを待ってくれていた父には、秀将様が「崖から落ちたようだが、怪我はなく無事である」と口添えしてくれたおかげで、話は手短かに済んだ。
蓮司家が関わっているとなれば、父の心労はいかばかりだろう。秀将様も気にされていることだ。道明家と蓮司家の確執が表ざたになれば、近領からも狙われやすくなるし、道明沢武士の結びつきも弱くなる。父が知ったら、嘆くことだろう。
翌朝、館へ出仕した伊縁は、努めていつもと同じように過ごした。秀将様を陥れようとする正興様の挑発になど乗ってはいけないし、何より秀将様と心を通わせたことを、だれにも気取られてはいけない。伊縁は気付けば緩みそうになる口元をきっと結んだ。
紙と墨の補充を終えたら、今度は行水の支度だ。秀将様の湯帷子を渡そうと部屋へ向かう。
「失礼いたします。湯帷子をお持ちしました」
「ああ。そうだ、お前の仕事を増やす」
「はい、何でございましょう」
「垢すりだ。掛け湯もな」
「は、はい!」
どうしよう、いつもと同じようにだなんて無理かもしれない。伊縁は湯帷子を思わずぎゅっと胸に抱きしめた。
「……お、お加減はいかがでしょう」
「くすぐったい。もう少し強くこすれないのか」
「は、はい」
秀将様の広い背中を、糠の入った袋でこする。当然これも小姓のつとめなのだけれど、秀将様の背中に触れるだなんて、平常心を保てるわけがなかった。
もう少し強くといっても、どのくらい強くすれば良いのか、塩梅さえ分からない。このおつとめがずっと続けば、良い塩梅が分かって来るのだろうか。
そんなことを考えれば、何だか自分の方がくすぐったい気持ちになってくる。
「……おい、今度は強すぎるぞ」
「も、申し訳ございません!」
伊縁は顔を真っ赤にして、慌てて謝る。こんなことでは、秀将様のおそば失格だ。
「緊張しているのか」
「いえ、あの、その……」
くつくつと、秀将様の背中が揺れている。笑われてしまった。
「お前は分かりやすくて良い」
「ありがとうございます……」
褒められているのか茶化されているのか、測りかねるところではあるけれど、秀将様が笑ってくれるのなら、伊縁は何だって嬉しい。これからもずっと、秀将様の背中を洗うのは自分だけだと良いと思う。
そんな少しの贅沢を感じながら、伊縁は、丁寧に秀将様の背中を流した。
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