追憶

4/6
24人が本棚に入れています
本棚に追加
/46ページ
 笑われたり馬鹿にされたりするのには慣れている。馬にも乗れないし、弓も上手に引けない。木刀では何度もあざを作ったし、相手に足技を掛けたことなど一度もない。今の組み討ちだって予想通りだ。  悲しいのはそこじゃない。 (秀将様は、お席にすらいらっしゃらなかった。見る価値もないと言われたようなものだ)  秀将様もどうぞお外へ。という声で、秀将様が庭へ面した濡れ縁に立たれたのはたしかに見た。けれど、伊縁が負けて立ち去る際にその姿はなく、お前など道明沢武士失格だと言われたようで、さすがに堪える。  裏庭の井戸を見下ろしながら、伊縁はぽろりと涙を零した。 「手を拭け」  聞き覚えのない声に、伊縁は慌てて涙を拭き、顔を上げた。視界に入ったのは、まさにその秀将様だった。 「ひ、秀将様」 「いっそ気持ちが良いくらい無様だったな」  初めて聞く秀将様の声だった。声変わりを終えたばかりの優し気な低音で、言葉は伊縁をおちょくっているというのに、それすらも心地良く耳に届く。  伊縁の胸は、鈴のように音を鳴らして震えた。何と返事すれば良いのだろう。あまりにとっさのことで、気の利いた言葉が思い浮かばない。 「も、申し訳ございません」 「地の理も良いが、武術も励めよ」 「は、はい」  秀将様は自分の手ぬぐいを伊縁の手に放り投げると、大股でその場を立ち去った。  井戸の脇に取り残された伊縁は、渡された手ぬぐいをぽかんと見つめる。  今、一体何が起こったのだろう。この手ぬぐいを下さったのは、たしかに秀将様だった。そして、わたくしを励まして下さった。……地の理も良いが、と。 (秀将様は、わたくしが読んでいる書物をご存じだった……!)  秀将様は、自分のような目立たない者にまで目を配って下さるような、優しい方だった。負けた者を切り捨てるような方などと、ちらっとでも思ってしまった自分が恥ずかしい。  二言三言交わしたくらいで秀将様の人柄を解ろうなどとおこがましいけれど、少なくとも伊縁の心に温かいものをもたらして下さったのは間違いなかった。  耳にまだ残る秀将様の声を、しばらく心の中でこだまのように繰り返していた伊縁だったけれど、ふと大変なことを思い出して顔を青くした。手ぬぐいのお礼を申し上げていないではないか。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!