第十話・義姉の梨乃

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第十話・義姉の梨乃

「そう言えば梨乃さんから、優香にまだ同居する気があるか聞いておいてって言われてたのよね」  自宅建て替え中の仮住まいのアパートが落ち着かないと、頻繁に遊びに来るようになった母が、孫のオムツ替え中の娘へ、思い出したように言う。ソファーに腰かけながら飲んでいるコーヒーは、来て早々に自分で棚から豆を取り出して淹れていた。通い慣れた娘の家ともなると、セルフサービスが当たり前だ。  兄嫁である梨乃は、シングルマザーになったばかりの優香が実家へと助けを求めた時に、同居するなら二世帯住宅の建て替え費の半分を出せと迫って来た。元々はそんなことを意地悪で言うような人ではなかったが、どうも不妊治療中の梨乃には陽太の存在は地雷になっているらしい。以来、お互いの為にもと顔を合わせないようにしていた。 「お義姉さん、あれって本気で言ってたんだ……」 「不妊治療って保険が効かないらしいのよね。市からの補助も少しはあるみたいだけど、上限も年齢制限もあるし。それなのに昭仁の会社が、次のボーナスは出るかどうか微妙だって嘆いてたわ」  夫婦双方に明確な原因が見つかった訳でもないのに、何度試しても上手くいかない。それは跡継ぎを産まないといけないと思い込んでいる長男の嫁にとって、相当なプレッシャーになっているのだろう。梨乃は昭仁よりも年上だから、35歳の高齢出産のボーダーラインまでは残り数年しかない。若い嫁じゃないからと批難されるのを恐れ、必要以上に責任を感じているのだという。  口コミで聞いたという不妊治療で有名なクリニックへは、電車を乗り継いで一時間半ほどかかる。時には注射一本を打つためだけにもその距離を通い続けているらしい。治療費、交通費ともに、家計にとっては膨大な負担になっている。なのに、毎月の生理周期に合わせて通院日が変動するから、それまで勤めていたパートの仕事は続けられなくなった。子供を授かりたい一心で、梨乃はいろんなものを犠牲にして頑張っているのだ。  初めは基礎体温表を持ってタイミングを相談していただけだったのが、夫婦共にあらゆる検査を受けた上での人工受精、体外受精へとステップアップしていき、ついに先月には顕微授精の説明を受けたのだという。高度で精密な治療になればなるほど、その費用は大きくなり、家計を圧迫していく。金銭的な理由で治療を途中で断念してしまう夫婦も少なくないはずだ。お金と年齢のどちらかが限界になるまで、諦めるタイミングを決断するのは難しい。  優香自身は結婚してすぐに息子を授かることができたが、通っていた産院でも基礎体温表を持って通ってくる不妊治療中の女性を沢山見かけた。大きくなっていく優香達妊婦のお腹を物悲しい眼で見ていた彼女らの姿が、義姉の梨乃と重なる。 「梨乃さんの独身時代の貯金は全部使い切っちゃったらしいわ。最初はね、その範囲内で止めようって言ってたらしいんだけど、もうここまで来たらって歯止めが効かなくなってるのよ」  だから住宅ローンの肩代わりを提案してきたのかと、優香は納得する。プライドの高そうな梨乃が、義理の妹へ金銭をたかるような発言をすることに心底驚いていた。以前の彼女なら、そんなことは決して言わなかったはずだ。それほどに兄嫁は追い詰められているのだ。まさか、と思って優香は母に確認する。 「ねえ、お母さん達からは、余計なこと言ってない?」 「言わないわよ。薬の副作用で卵巣が腫れたとか、吐き気が酷くてしばらく寝込んでたとか、いろいろ聞かされてるもの。梨乃さんの身体のこともちゃんと心配して、無理強いはしてないわ」 「本当に?」 「だって可哀そうだもの。陽太がいるから、孫のことは気にしないでっていつも言ってあげてるわ」 「もうっ、それは一番言っちゃいけないやつ!!」 「えーっ、そうなの?」  嫁に子供がいなくても娘の子供がいるから十分。そんなことを言われて、嬉しい訳がない。兄嫁の妊活にプレッシャーを与えているのは、姑からのデリカシーの無い発言なのは明らか。自分が掛けた言葉が嫁を追い詰めている自覚が無かったらしく、それを指摘されて母は少しむくれている。  優香は呆れを含んだ大きな溜め息を吐く。梨乃が必要以上に優香と陽太のことを敵視してくる理由が分かった。同居なんて絶対にありえない。  母には不妊で苦しんでいる嫁の気持ちは一生分からないのだろう。自分が安産で二人の子供を二歳違いで産んだからと、30時間近く陣痛で苦しんでやっと初産を終えたばかりの優香に対して「で、二人目はいつ頃の計画なの?」と産院で平然と聞いてくるような無神経な母親なのだから。  何を言っても無駄だと、優香は苦笑いを浮かべながら伝えた。 「私の方はもう落ち着いたから、同居させて貰わなくても平気って言っておいて」  替えたばかりのオムツを専用のゴミ箱に捨ててから、キッチンの流しでさっとと手を洗い終えると、母が多めに淹れておいてくれたコーヒーを自分専用のマグカップに注ぎ入れる。  母の失言で義姉がこれ以上傷つくことがないようにと願いながら、既に冷め切ってしまっているコーヒーを口に含んだ。
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