第十三話・元カノ2

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第十三話・元カノ2

 オフィスに戻って来てからずっとピリついてる宏樹とは反対に、寺田瑛梨奈はニコニコと笑顔を絶やさずご機嫌だった。 「前のオフィスに行ったら、ヒロは独立して出てったって言われて、ビックリしちゃった。あそこの事務員さん、相変わらず怖かったぁ。住所書いたメモをバンッて渡してくるの」 「……向こうにも行ったのか」 「でも凄いねー。自分のオフィスを持っちゃうなんて。あの頃は独立するとか全然言ってなかったのに」  再び、宏樹は大きく溜め息を吐く。以前の勤務先にまでアポ無しで突撃した話を聞かされたら、嘆きたくもなるのは当然だ。事務スペースで昼休憩を取り始めた優香は、持参したお弁当を食べながら、パーテンションの向こうから聞こえてくる会話に苦笑していた。勿論、聞き耳を立てているつもりはなかったが、この距離では何もかもが丸聞こえなのだ。 「私、やっと分かったんだ。ヒロと一緒に居る時が、一番幸せだったんだなぁって。やっぱり私には、ヒロが必要なんだよ。だからね、やり直した方がいいと思うんだよ、私達」  お願いとは違い、すでに決まったことのような物言いに、宏樹が苛立ってテーブルにカップを乱雑に置いた音が聞こえてくる。 「やり直すも何も、原因を作ったのは瑛梨奈の方だろう。俺から乗り換えたっていう研修医はどうした? 看護師との二股が発覚したとか、そんな感じかな?」 「失礼ね、二股なんて掛けられてないわよ。他に好きな人がいるとか言いながら、私と付き合うことにしたヒロと一緒にしないで」 「分かった上で、それでもいいって言ったのはそっちだろ? なのに――」 「だって、研修が終わってもそのまま病院に残って勤務医になると思ってたんだもん。まさか実家の診療所を継ぐ、なんて言い出すとは思わないじゃない……田舎の診療所なんて冗談じゃないわ。しかも、母親が看護師よ」  ゴリゴリの家族経営の診療所。そんなところで受付なんてやりたくないと、瑛梨奈が好き放題言っている。話を聞いていると、彼女は医療事務として働いている病院の研修医と宏樹とを天秤にかけ、医者の彼の将来の方が有望だと判断したらしい。しかし、研修期間が過ぎた後は今の総合病院には残らず、父が開業している片田舎の診療所に戻ることにしたのが不満みたいだ。そしてそれを、とんだ見込み違いだったと批難している。 「で、俺とヨリ戻したいと?」 「うん、やっぱりヒロがいいって気付いたから、今日はお腹痛いって仕事休んで会いに来たんだよ」  パーテンションの向こうから聞こえてくる、瑛梨奈の甘えた口調。それに対して、宏樹の拒絶するような冷たい声が響く。 「人ってさ、裏切られたことは一生忘れられないようにできてるんだよ。なのに、自分がやった裏切りはすぐに忘れちゃうんだよな」 「なっ……」 「本気で想ってる相手なら、何をされても許せるんだけど、そうじゃないと無理。瑛梨奈のことは、裏切りに目をつぶってまでして一緒に居たいとは思ってない」 「何よ、それ……?」  思っていたのと違う返事が返ってきたことで、瑛梨奈がヒステリックな声を出す。 「その本気の相手に手が届かないから、私が代わりになってあげようって言ってるのよ?! そんな理解のある女、他にはいないのが分からないの?」 「手が届くかどうかは、今の俺には問題じゃないし、もう代わりも必要ない」  宏樹の言葉に、瑛梨奈はハッとソファーから立ち上がる。そして、パーテーションを回って事務スペースの方に入って来ると、優香のことを指差した。 「ねえ、この人なんでしょう? ヒロがずっと好きな兄嫁って。分かってるのよ、あなたの好きなタイプだってことくらい」  いきなり話に巻き込まれて、優香は食後に淹れたコーヒーを噴き出しそうになる。初対面から品定めするような視線を感じてはいたが、まさかここにきて指名されるとは思いもよらなかった。 「えっと、私……」 「そうだよ。彼女は兄貴の奥さんだったけど、今は違う。去年、兄貴が亡くなったから――」 「ちょっと待ってよ。この人、子供いるんでしょう? 子持ちなんてありえなくない?! ねえ、あなたも旦那が居なくなったからって、都合良すぎない? ヒロもお兄さんのお下がりなんかでいいの?」  パーテーションから出てきた宏樹は、参ったなと頭を掻きながら困惑した顔をしている。逆上して早口でまくし立ててくる瑛梨奈には、もう遠巻きに言っても通じないようだ。 「俺は兄貴の代わりだろうが何だっていい。死んだすぐ後なのに不謹慎だと批難されたって平気だし、ずっと諦めなくて良かったって思ってるくらいだよ」  兄が天国で歯軋りして悔しがってるかと思うと、多少の罪悪感はある。でも、この先も彼女の傍に居られる優越感の方が大きい。やっと一番欲しいものに遠慮なく手を伸ばせるチャンスがやってきたのだと。  どんなに優等生を通しても、兄には勝てなかったし、常に諦めていた。でも、これだけは無理。諦めるなんてできない。 「もう、よそ見せずに待つつもりでいるから。優香ちゃん以外と付き合うつもりも、よりを戻すつもりもないんだ」  瑛梨奈に向かって諭しているフリをしながら、優香への想いを平然と口にする。唖然としたままコーヒーカップを握りしめて動かない優香とは反対に、瑛梨奈は自分の荷物を抱えて「勝手にすればっ!」とオフィスのドアをバンッと閉めて出て行った。
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