第二話・未亡人

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第二話・未亡人

 喪服を着て産後1か月の乳飲み子を抱えた優香に、気安く声を掛けられる者なんて誰もいない。葬儀場のスタッフでさえ、優香が喪主であるはずなのに、義弟の宏樹を通して打ち合わせしようとする。  体育会系でがっしりした体型だった大輝とは正反対で、弟の宏樹は細身だ。でも、ふとした表情が夫の面影を思い起こさせることがある。  大輝と二歳違いで、優香より一つ上の宏樹は、夫の事故死を知らせた直後からずっと優香達親子に寄り添い、何もできないでいる優香の代わりに動いてくれていた。 「優香ちゃんは陽太の傍にいてあげて。後のことは俺が適当にやっておくから」  そう言って、葬儀やそれに関連する手続きの大半を宏樹は手際よくこなしていた。会計士という職業柄、公的な事務処理には慣れているというのもあるだろう。ただ、後から思い返せば、仲の良かった兄弟との早い別れは、彼にとっても十分過ぎるくらい辛い経験なはずだ。 「ごめんね、宏樹君……全部、私がやらなきゃなのに……」 「平気平気。まだ身体の調子戻ってないんだろ? 兄貴も心配してたよ、全然寝てないみたいだって」  長男の急死に深くショックを受けた義母は、通夜にも告別式にも顔を出すことは無かった。現実を受け入れたくない気持ちは、優香にもよく理解できるから責めるつもりもない。優香自身、この場に喪服を着て座っているのが精一杯だった。  あまりに早過ぎた夫の死は、彼のことを知る人全てに悲しみを残し、生に繋がるあらゆる感情を容赦なく削り取っていこうとする。でも、優香には生き続けなければならない理由がある。大輝との間に生まれた陽太がいる。まだ生まれたばかりの息子を、これから長い将来に渡って見守り続けていかなければならないという使命がある。  優香が泣けば、何かを感じ取った陽太までぐずり泣きしてしまう。だから、悲しみに浸り続けているのは今だけ。父親を亡くした陽太には、もう母親である優香しかいないのだから。胸に抱く息子を優しく抱き直すと、優香は夫の遺影を見上げた。優しく微笑んでいるその写真は、去年の冬の慰安旅行の物。確か行き先は金沢。家にあった写真の中で一番、彼らしい無邪気な表情をした写真だ。  涙はもう完全に枯れ切っていて、一滴も出ない。  どれだけ待っても夫の帰っては来ない家で、乳児と二人きりで過ごす毎日。大輝が加入していた生命保険と労災保険とで、当面の生活費の心配はなかった。購入して一年しか経っていない自宅もローンの支払いが無くなり、母子が露頭に迷うことはない。 「相続税関連の書類はここにまとめてある。あとは署名と捺印さえしてくれれば、すぐ出しに行くから」 「ごめんね、ありがとう。出すのって税務署だっけ? それくらいなら自分で……」 「いいって。どうせ仕事のついでだよ」  仕事帰りに立ち寄ってくれた義弟から書類の入ったファイルを受け取り、優香は力無く笑う。結局、役所などへの申請も全て宏樹に頼りきりになってしまった。  誰が見ても疲れた顔をしている優香に、宏樹は心配そうに確認する。 「落ち着くまで実家に帰るとか、できないのかな?」 「……私の実家?」 「そ。一日中、子供と二人で閉じ籠ってるよりは、気も紛れるかもしれないし」  宏樹の提案に、優香は「実家かぁ……」と呟く。実家に身を寄せるという考えは全く浮かばないでいた。産後もしばらくは家に通ってくれた母の傍なら、優香も少しくらい身体を休めることができるだろう。 「冗談じゃないわっ!! 子連れで居候だなんて、図々しいと思わないの?!」  実家でもある塚田家のリビングで、優香に向かって義理の姉、梨乃が吠えたてる。あまりの剣幕に優香はソファーに座ったまま萎縮する。隣の和室ではいきなりの大きな声に、祖母に抱かれた陽太がぐずり出し始めた。 「ほ、ほらっ、赤ん坊はすぐ泣くから嫌なのよ! あの泣き声を毎日聞かされる身にもなってよ」  平日だったこともあり、父は仕事に出ていて不在だ。母だけがいると思って家に顔を出すと、近所にアパートを借りて住んでいる義姉まで居て、優香は確認してから来なかったことを心底後悔していた。  実兄の妻は気が強くて物言いがキツイ。それは二人が交際中から感じていたことだが、最近は特にパワーアップしているように思う。 「近い内に家を建て替えようって話になってるのよ。で、次は二世帯住宅にして、昭仁達も一緒に住むことになっててね……」  慣れた手つきで孫をあやしながら、母が優香へとこっそり説明してくる。 「でも、優香さんが子供連れて戻ってくるなんて、そんなの聞いてないわ」 「梨乃さん、でも優香も落ち着くまでって言ってるから……ほら、離乳食が終わった後は随分楽になるんだから、せめてそのくらいはねぇ」  孫可愛さに甘いことを言い出す姑に、梨乃がキッと睨みながら言い返す。 「離乳食なんて随分と先じゃないですかっ?! それまで建て替えを延期するとでも? その間もうちにアパートの家賃を払い続けろと?」  激昂した嫁に言い負かされて、母親がフルフルと首を横に振る。普段はサバサバした気の良い子だと思っていたが、こと子供の話になると人が変わったようになるのを忘れていた。結婚して何年経っても妊娠しないと梨乃が婦人科に通い続けているのは息子経由で知っている。嫁の性格がさらにキツくなったのは、優香の妊娠が判明してからだ。  その梨乃に、優香が子供を連れて戻ってくるのを受け入れろというのは非情な話だ。  頭に血が昇りそうな勢いで反論を続ける梨乃だったが、ふと黙り込む。そして、良いことを思い付いたとばかりに意地悪な表情で義理の妹を見て言う。 「そうだ。うちが負担する分のローンを優香さんが肩代わりしてくれるっていうなら、同居して貰ってもいいわ」 「……え?」 「今のお家、建ててまだ浅いでしょ? 子供と二人で住むには広すぎるでしょうし、売り払ってしまえばいいのよ。で、そのお金でうちの分を払ってくれたらいいわ」  なにも保険金をよこせって言ってる訳じゃないんだから平気でしょ、と平然と言ってのける。兄嫁の言葉に驚いて、優香は母の方を慌てて振り返った。だが、和室に敷いた客布団に孫を寝かしつけるのに集中しているのか、母は横になって陽太のお腹を静かに擦っている。間違いなく、聞こえていないふりだ。義姉の剣幕は姑でも止められないということか。
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