第二十二話・会計士見習い2

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第二十二話・会計士見習い2

「優香さん、ちょっといいですか?」  吉沢が優香の名を呼ぶ度に、宏樹がぴくりと反応する。三人で簡単な自己紹介をした時に、「お二人とも石橋さんだと、苗字ではややこしいですよね?」と宏樹のことは所長。優香のことは下の名で呼ぶと吉沢が宣言した。優香達はずっと互いに下の名で呼び合っていたから、これまで気にしたこともなかったが、一緒に働くことになった者は確かに混乱するだろう。  優香は下の名で呼ばれることに抵抗は無かったし、吉沢の提案はもっともだと受け入れる。宏樹も優香ちゃんと呼んでくるし、逆に改まって苗字で呼ばれた方がここでは違和感があるくらいだ。  でも、この新人が義姉を気安く呼ぶことを、所長である宏樹は気に食わないようだった。そもそも女性だと思って快諾したつもりの研修生が男だった時点で想定外なのだ。とにかく面白くなさげな顔をするが、じゃあ他にどう呼べばと言われても困る。そんな彼の反応には、当の吉沢本人は気付いていないようだったが。 「ここの会社の一昨年の決算資料だけが抜けてるんですけど――」 「本当ですね。他の箱に紛れ込んでるかもしれないから、探しながら作業しましょう」  動線を遮るように積み上げられた段ボールを片付けるのが第一だと、吉沢と手分けして荷物を開封していく。書類をドサッと乱雑に扱われるのは多少気になったが、優香の倍の束を軽々と持ち運んでくれるから、思った以上に早く整理することができそうだ。  会計事務所での雑務には慣れているらしく、吉沢は無駄なお喋りもせずに黙々と作業をこなしていく。事務的な繰り返しの作業は苦にならないタイプなのだろう。変に気を使って会話を振ったりしなくてもいいのは、優香にとっても気楽で良かった。 「16時までには戻るつもりではいるけど、何かあれば携帯に連絡くれたらいいから」 「はい。行ってらっしゃい」 「保育園の迎えの時間に間に合いそうもなかったら、勝手に帰ってくれても――」 「うん、分かってる。早く出ないと、お客さんを待たせちゃうって」  コンサルを請け負っている会社から視察の同行依頼受けて外出するはずが、宏樹は心配そうにオフィス内を見回して、今日はなかなか出掛けようとしない。  優香が初対面の男と二人きりになる状況を自分が作り出してしまうのかと、本気で悔しがっているようだった。けれど、優香に時間を促されて、渋々とオフィスを出ていく。顧客あっての会計事務所だ、遅刻する訳にはいかない。  送り付けられてきた資料の整理を終えると、優香は吉沢に説明しながら出納帳のチェックを始める。データ入力されている勘定科目と金額が領収書に記載された物と相違ないかを確認していくのだが、普段あまり見慣れない但し書きが出てくると、デスクの引き出しから一冊のノートを取り出す。そして、パラパラとページを捲って調べ始める。 「ああ、やっぱりこの場合は福利厚生費か……」  従業員の家族が亡くなった時に会社から支払った香典。以前に入力した時は確か接待交際費だった気がするとは思ったが、あの時は相手が取引先関連のケースだった。客側で雑支出で登録されていたデータを修正してから、領収書の束をさらに一枚捲る。  その優香の様子を向かいのデスクから見ていたらしい吉沢が、「マジかよ」と小さく呟いたのが聞こえてくる。 「このオフィスって、簿記の知識が無くてもいいんだ……」  小さく鼻で笑いながら言われたのが、優香の席からもはっきりと聞き取れた。公認会計士の勉強をしている吉沢からすれば、基礎的な勘定科目すら調べながらの優香がここにいるのは場違いに見えるのだろう。でも、それは優香自身にも自覚があるし、何とかしないとダメだってことも分かってる。だから、自分でこうやってノートにまとめたりしてるんだけれど……。 「吉沢君は簿記は得意?」 「得意っていうか、税理士試験の簿記論が2級程度って言われてるんで、とりあえず簿記検定の2級は在学中に取ってます」 「えー、すごいね」 「求人条件に簿記3級程度って書いてある会計事務所が多いと思ったんですけど。やっぱあれですか、所長と苗字が同じってことは縁故採用なんですか?」 「あ、うん。宏樹君は夫の弟。仕事を探してたら、来ていいよって言って貰って。でも、ちゃんと勉強しなきゃなとは考えてるんだけどね。全く経験ないから何から始めたらいいのか……」  自作のノートをパラパラ捲りながら、優香が困り顔で首を傾げる。優香のことを小馬鹿にしてマウントを取るつもりでいた吉沢も、そこまで卑屈になられては追撃できない。ハァと呆れたような溜め息を吐いてから、ノンフレーム眼鏡を右人差し指でくいっと押し上げた。 「初心者向けの漫画版の解説本とかあるんで、今度持ってきます。3級の問題集とか、自分はもう使わないんで」  そう言うと、再び自分の作業へと戻る。チラリと覗き見したノートがびっしりと文字や図で埋め尽くされているのを見てしまっては、もうそれ以上言うことがなかった。
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