第二十四話・迷い

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第二十四話・迷い

 外回りついでに陽太のお迎えに付いて来た宏樹は、園舎の玄関で掲示物を何とはなしに眺めていた。手の平に乗りそうな玩具のようなサイズの靴が並ぶ乳幼児クラスの下駄箱。それぞれの名前の横のイラストシールはまだ文字が読めない子供達への目印なのだろう。陽太のところにはパトカーの物が貼られている。  早い時間帯だからだろうか、親ではなく祖父母が迎えに来ている子もチラホラ見かけた。ただ父親の姿は一人も見なかったから、玄関前に突っ立っている宏樹は少し目立っていたのかもしれない。宏樹の目の前を保護者達が怪訝な表情で通って行く。  「遅くなって、ごめんね」と奥から声がして振り向くと、優香が大荷物を抱えている。その隣で陽太を抱っこしている、ピンクのエプロンを着た保育士は担任なのだろう。二人は並んでにこやかに話しながら、こちらへと歩いて来た。  宏樹のことに気付いた保育士が、腕に抱いている園児に向かって声を掛けた。 「あら、陽太くん。今日はパパも一緒にお迎えなんだ。やったね」  ニコニコと優しい笑顔で子供に話しかけながら、保育士が陽太のことを宏樹へと当たり前のように渡してくる。腕を伸ばして甥っ子を抱きかかえ「いいえ、パパでは……」と宏樹が言葉を曇らせる。 「えっ?」 「彼は夫の弟で……」 「ああ、陽太君と雰囲気が似てるから、私はてっきり……申し訳ありません」 「いえ、兄とは顔立ちが似てるってよく言われます」  担任だからと全ての園児の家庭事情を完全に把握している訳ではないのだろう。母親と一緒に迎えに来るのが父親だと思い込んでも仕方ない。保育士を困惑させてしまったことに、逆にこちらが申し訳なくなる。  週末だからとお昼寝布団が入った大きな布バッグを肩に下げながら、優香が見送りに出てくれた保育士へ頭を下げて礼を言う。宏樹も小さく会釈を返してから、甥っ子を抱っこしたまま駐車場へと向かった。  駐車場内でも何組かの園児の家族にすれ違い、互いに「こんにちは」と挨拶を交わす。 「久しぶりに抱っこしたけど、陽太、重くなったなー」  車の後部座席に甥っ子を座らせてから、褒めるようにその頭を撫でた。褒められて素直に喜んでいる甥っ子は、会う度にどんどん表情が豊かになっていてビックリする。赤ちゃんだと思っていたのに、もうしっかりと幼児だ。こんなに逞しく成長した息子の姿を兄は知らない。死別とは残酷だ。そして、その兄のポジションにしれっと取って代わろうとしている自分は意外なほど非情なのかもしれない。  ――別に、周りからどう思われようが関係ないか。  おとなしく遠くから見守っている内に、他の誰かに奪われるくらいなら。一番傍に居て、常に周りを牽制し続けてやろうとさえ思う。  自宅前の車道に車を停めてもらうと、優香は保育園から持って帰って来た荷物を抱えながら、息子を後部座席から下ろした。ヨチヨチ歩く陽太と手を繋いだまま、運転席の宏樹に声を掛ける。 「送って貰っちゃって、助かったよ。ありがとう」 「ん、じゃあ、また来週もよろしく」  車窓越しに手を振った後、ふっと顔を曇らせる。その優香の表情の変化に気付いた宏樹は、動き始めるパワーウィンドウを止めた。そして、「どうした?」ともう一度窓を開き直し、優香の顔を覗き込んだ。優香は宏樹と視線を合わせないよう、陽太の方を向きながら小さく返事する。 「ううん、何でも……じゃあ、また」  顔を上げてぎこちない笑顔を作り、首を横に振ると優香は子供の手を引いて門扉の中へと入って行こうとする。その後ろ姿に向かって、宏樹は車の中から声を掛けた。そんな顔を見せられて、黙って帰れる訳がない。 「後で、来てもいいかな? 今日はもう、この書類を届けてくるだけだから――」  振り返った優香は、少し戸惑ったような表情だったが、頷き返してから答える。 「ご飯、作って待ってるね。――宏樹君が一緒だと、陽太も喜ぶし」 「分かった。じゃあ、急いで行ってくるね」  手を振りながら窓を閉め、顧客先に向かって車を発進させる。その小さくなっていく車の後ろ姿を目で追いながら、優香は呆れた溜め息を吐いた。宏樹の嬉しそうな笑顔が、優香に罪悪感を抱かせる。  彼のことを中途半端な気持ちのまま繋ぎ止めようとするのが、ダメなことくらい分かっている。無駄に束縛しちゃいけないと頭では理解しているつもりだけれど、自分がどうしたいかが分からない。  大輝が居なくなった寂しさを他の誰かで埋め合わせしようとするのは、ただの傲慢だ。別に誰でもいい訳じゃないけれど、それは本当に宏樹じゃなきゃいけないんだろうか。義理の弟という、家族に近い存在過ぎて、自分がどう思っているのかがはっきりとは見えない。さっきみたいに子供の名前を出して引き留めた自分は、とても卑怯だ。  いつまでもこんな風だと、自分の気持ちが分かる前に向こうから愛想を尽かされてしまってもしようがない。かと言って、宏樹の気持ちを受け止める勇気も自信もないのだ。自分の狡さが本気で嫌になる。
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