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そうじゃなかった筈の彼の話1
事の始まりは上司の「ちょっとビックサイトに行ってこい」の一言だった。別に本を買いに行けとか服を着ろの話ではない。純然たる仕事だ。
その日、ビックサイトでは総務経理関係の展示会が催されていた。働き方、福利厚生、会計などの展示会が同時開催らしい。そんな事はどうでも良いし興味も無い。そう思いながらも上司命令だから仕方なく来た。
「高埜ー」
入口で合流予定だった女性が手を振っている。北陸支店の総務部にいる同期で名前は来栖という。目の前まで行くと彼女は笑顔でこう言った。
「久し振り。元気だった?」
「久し振り。元気だよ。ご指名どうも」
「あ。バレた?」
と、彼女は笑う。本社に行く用事があるけど、丁度開催している東京の展示会にも行ってみたいから前乗りする。都合がつけばご飯でも行こうよ。と連絡が来たのが二日前。良いよと返事したら直後に上司からビックサイトに行きなさいと言われて分からない訳がないでしょ。あの事前連絡は何だったのか。
「俺、別に必要なくない?」
「システムに詳しい子がいないと舐められるんだよ! 東京怖い!」
何か色々混じってる。
「男がいるなら舐められないって」
そう言って隣にいる男を見ると会釈をして挨拶をしてくれる。
「初めまして。お忙しいのに無理を言って本当にすいません。北陸支店経理部の長屋です。宜しくお願いします」
「初めまして。本社システム部の高埜です。遠いところお疲れ様です」
「総務と経理で戦える訳がないんだよ! 東京怖い!」
「分かった分かった」
煩くてすいません。と、同期の謝罪をしたら日々近くで働いている長屋は笑う。
「いえ。こちらこそ。わざわざ来て頂いてありがとうございます」
「ちょっと! 何よ! 二人してーー!」
という金切り声は無視した。
長屋は二つ下らしい。三咲の同期だ。彼の事は少し前に三咲から話を聞いたことがあって、この子の事だったのかとこの時に気付いた。
そして三咲と付き合っていることまで二人にだだ漏れだった。この関係図にあっても情報提供者は三咲ではない。犯人はあの総務部の同級生である。全く関係ないのにどこから出てきた。あいつ本当に余計なことしかしないな。と、展示会の後「高埜、彼女できて良かったね!」「相手が三咲とかびっくりしました!」乾杯ー!! と音頭を取られて頭を抱えた。
新入社員は全員が東京本社で研修を受ける。だから全国各地の同期くらいは顔見知りという訳だ。つまり同級生から来栖に情報が流れた。あいつは他人の個人情報を何だと思っているのか。色んな所に繫がっていると思うだけで頭が痛い。
まぁ、悩んでいても仕方が無い。自分にはどうにもできないんだから忘れることにした。
三人自身の話題もあったけれど、それぞれの同期の話になるのも時間はかからなかった。でも、同級生の話はどうでも良いとばかりに一言二言話したらお終い。三咲の話になった。
「凄いクールな子なんでしょ? 高埜ってそういう子が好みだったんだねー」
「クールっていうか…あー…うん」
彼女の言葉に少し言い淀んだ。そうか。あいつから伝わればそうなるか。まぁ、そういうことにしておこう。別にここで詳細を話す必要も無い。そう思っていたら長屋が目を丸くする。
「クール? 三咲が? しっかり者のイメージはあるけどクールだったかなぁ」
「え? 違うの? 動揺も失敗も全然しないクールな後輩と急に付き合い始めてガッデム! っていう連絡はガゼ?」
後半のインパクトが強すぎて三咲の情報が全然頭に入ってこない。とりあえずそのイメージも間違いではないから肯定した。
「そういう風に思われるみたいだね」
「高埜さんもそう思います?」
「…まあ」
そう思っていたし、思うことがあって曖昧に頷く。
「二人でいる時も?」
最近は全然違うけれど、長屋に知らせる必要も無いので「うん」と答えた。
「へえー。そうなんですかー。あいつ、新人研修の時はクールって感じじゃなくて初々しくて可愛い感じでしたけどね」
「そりゃ、新入社員は誰でも初々しいよ」
と、ただの突っ込みなのか何かのフォローなのか、同期はそう言って唇を尖らす。
「そうじゃなくて三咲は可愛い系なんですって。高埜さん、そういうところ見たくないですか? 惚れ直しますよ」
あー。なるほど。そういうこと。と、以前だったら気付かなかったであろう事を敏感に察知した。こいつが三咲を狙ってるのかただの意見なのかは知らないけれど悪い芽は早い内に引っこ抜くに限る。
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
「でも、先輩じゃ緊張しちゃうのかもなー。そういうところはきっちりしてるし」
「ちょっと…」
酔った勢いにしても言い過ぎだと注意しようとした女子の声が遮られた。
「ふーん。随分三咲と仲が良いみたいだね」
「いや。そんな事無いんですけど、同期だからお互い気安く接するだけで」
「同じ部署の人間もそうは思ってないみたいだから、遠くにいるのにそんなこと思っている人がいるなんて驚いたな」
「あ、そうなんですか? あいつ、本当に誤解されやすいんですね」
調子に乗った様子の後輩と同期をおろおろしながら見ている紅一点。
「別に悪い誤解じゃ無いと思うけどね」
「えー? 良いところ隠すとか勿体なくないですか? 高埜さんだって可愛い彼女って思われたら嬉しいでしょ?」
「俺、心の狭い彼氏だからさ」
穏やかに笑って静かな声で呟く。
「三咲の可愛いところとか甘えん坊なところとか、本当は全然クールじゃないこととか他の奴に知られたくないんだよね」
「…」
…うぐ。トントン拍子で話をしていた後輩は急に黙った。完全に酔いが覚めたようだ。赤かった顔色が急激に引いていく。
「だから今の話、誰にも言わないでね。あと、先に言っておくけど手を出したら許さないよ?」
ひゅーう。と、音はしなかったけれど感心した様子の同期の隣で後輩はガクブル。
「……あの」
「ん?」
「……明日、三咲と食事行く約束してるんですけど」
「知ってるよ?」
それが何? とでも言いたげな高埜に完敗した。察したお姉さんがにやにやしながら後輩の肩をぽんぽん叩く。
「君の負けだ。長屋君」
「すいませんっした」
「はい」
「あとはあいつをシメるだけだね」
「明日は宜しく」
「任せなさい」
こちらも同期で飲む予定の二人はそんな事を言って頷いた。
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