1.募る(春)

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1.募る(春)

僕が初めて彼女に出合ったのは、桜の花咲く初春、僕の入社初日だった。当面の間、彼女が僕の仕事を指導してくれる事になった。とは言っても、彼女は、まだ入社二年目だし、年は僕と同じくらいの様だ。僕は、入社早々ついているなと思った。 そして、彼女の一番の印象は声だった。やや高めだが、甲高くはなく、柔らかで、落ち着いている。きれいに澄んだ感じなのだが、それでいて、「は」行にあるような息の音が微かに混じっている。まぁ、一言で言えば、スタジオジブリのアニメ映画に出てくる少女の様な声と言ってもいいかもしれない。他の社員から聞いたことでは、彼女の声は、男ばかりの顧客には大人気だそうだ。それで、彼女が行くと、必ず注文が入ると言う訳らしい。確かに、そんな顧客の気持ちがよく分かる。僕は、密かに、彼女があの声で歌でも歌ってくれたら最高だなと思っていた。その内、二人でカラオケにでもと言う夢さえ描いていた。 さて、僕が彼女の声に固執するのには訳がある。それは、彼女が口を利くのは、顧客と対応する時と仕事に必要な時だけだったからだ。仕事以外の事では、ほとんど全く口を開かないのだ。いや、口を利けないのではと思われるほどの無口だった。僕は、折角の美声をどうして聞かせてくれないのだろうかと恨めしくさえ思った。初めは、彼女の事を聞き出そうとして、いろいろ試してみた。「僕は、大学で......」なんて話をしても、「昔の話には興味ありません」と言った顔をする。外回りの途中とか、一緒に昼食を取る時、彼女はいつも決まってカレーライスなのだが、食べる前に、「いただきます」とでも言うように、ちょこんと会釈の様な仕草をして嬉しそうに食べる。それで、「今谷さん、ほんとにカレーが好きですね。たまには他の物を食べたくなりませんか?」とか言うと、「私の勝手でしょ」と言った顔でたしなめる。それで、徐々に、彼女の素振りを無言の返答として理解できるようになってきた。 他の社員からも似たり寄ったりの話を聞いた。そして、どうやら、彼女が応募した時は忙しいのに人手が集まらず、猫の手も借りたい状態だったらしい。それで、会社側は、働いた経験のない女性の営業はためらっていたようだが、兎に角試してみようと言う事になったらしい。ところが、たとえ個人的な事に関しては無口でも、仕事は人並み以上に出来るので、今ではそれなりに重宝されているらしい。 また、何人も男の社員が声を掛けたそうだが、全く相手にされなかったらしい。その腹いせか、彼女はろくにお化粧も出来ないとか、着た切り雀だとか言う男性社員もいた。確かにお化粧はしてないかも知れないが、それがどうしたと言うのか? それに、着た切り雀とは失礼にもほどがある。ホームレスじゃあるまいし。確かに、彼女は、数少ない服を代わる代わる着ているかも知れないが、ちゃんと洗濯しているじゃないか。んー、多分。さらに、出来の悪い連中の中には、彼女の売り上げが高いのはあの声のせいだと言う者さえいた。そうじゃない。彼女は仕事を熟知しているし、凄く能率がいい。兎に角、今では、特に女性社員として、ちやほやされてはいないようだった。 いずれにしても、僕の彼女への接近も難航し、単なる職場の先輩として指導を仰ぐだけかと諦めかけていた。まぁ、彼女の指示に従っていれば、間抜けな僕でも何とかやっていける。彼女は優しく手ほどきしてくれるから、それだけでも、有難く思わなければ。ある時は、僕がしでかした間違えを、顧客の前で、彼女が誤ったかの様に話し、丁寧に謝罪した。当然、彼女の声を聞けば、顧客は許してしまうのだが。 さて、何か月か経った頃、まだ春の様な日々が続いていた頃の事だ。僕は、梅雨なんかに入らずに、いつまでもこのままの陽気だったらいいなと思っていた。外回りの帰り、彼女と一緒に市谷の駅を降りたところ、急に、彼女が、「先に戻って下さい」と言って近くにある薬局の方を指さした。そこに用事があるのだろうと察した。 それで、言われた通り、一人で歩き始めた。どこか具合が悪いのかな? 何か、特別な薬が必要なのかな? それとも、単なる女性の必需品かな? 等と勝手な想像を巡らせていた時、「こいつっ!」という低い声と共に、ドスンと言う音が聞こえた。気になって振り返ると、薬局の前で彼女が座り込んでいる。その前には、いかつい男が仁王立ちしている。 僕は、とても度胸のある方ではなかったが、この時は彼女の事がひどく心配になった。それで、急いで彼女の所に駆け寄り、男の方を振り向いた。 「何をするんですか!」 男は、軟弱そうな僕が偉そうな口を利いたので、ちょっと驚いた様子だったが、どすの聞いた声で言い返した。 「ほぅ。いい度胸じゃねえか。なんだ? こいつの新しい彼氏か?」 この男は何なんだろうと思いつつ言い返した。 「会社の後輩ですよ!」 男は、へらへらと笑いながら続けた。 「おもしれぇ。こいつに後輩がいるのかよ。兎に角、どけ! 女房に何をしようがオレのかってだろ!!」 僕は腰が抜けるほど仰天した。女房? 彼女が結婚していた? それも、こんな、いかつい、やくざ者と? それは、全く想像も出来ない事だった。彼女の方を振り向くと、何とも非力な顔をして俯いてしまった。どうやら、この男の言う事は嘘ではないと察した。 「さぁ、どけ、どけっ!」 男がそう言って僕の事を押しのけようとした時、僕は無意識にその男の手を振り払ってしまった。すると、男は大権幕で、僕の襟元を掴んだ。 「大人しくしていれば、いい気になりやがって! これでもか!!」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ どのくらい経ったのか、気が付くと、目の前には、真っ白で、単調な天井がある。病院のベッドの上だった。そして、僕の右手を誰かが握っていることに気が付いた。ゆっくりとそっちの方に顔を向けると、それは彼女だった。僕を見ると、彼女は顔を赤くして手を離した。そして、立ち上がり、僕に丁寧にお辞儀をした。 全く記憶はないが、僕は、間違いなく、あの男に殴られたのだろう。そして、騒ぎを聞きつけた通行人が警察にでも連絡したのだろうか。いずれにしても、彼女は無事で、今、僕の目の前にいる。僕はと言えば、顔がひりひりするから、擦り傷・切り傷でもあるのだろう。 そんなことを考えている間に、彼女はそっと病室から出ようとしていた。僕は、慌てて言った。 「今谷さん、ちょっと待って!」 彼女は振り返った。なんだか悲し気な表情で、目からは涙がこぼれていた。それでも、思い切ったようにそこから出て行ってしまった。どうしたのだろう? それから暫くして、課長がやって来た。ここは、会社のそばの病院なのだろう。この辺にはいくらでも病院がある。 「重衣、えらい目に会ったな。でも、大事にはならずに良かった。今、看護婦さんと話したら、もういつでも帰っていいそうだ」 「課長、今谷さんは?」 僕の頭には、彼女の事しかなかった。 「あぁ、おれに君の事を報告した後に、『早退させて下さい』と言ったよ。相当にショックだったようだ」 「そうですか」 課長と一緒に病院を出ると、僕も早退するように言われた。空は、どんよりとして、もう日差しはなかった。もうじき梅雨入りだろう。その後も、どうしても彼女の事が頭を離れなかった。いったいどうなっているんだろう? 彼女があんな男と結婚しているなんて。でも、あの様子だと、彼女はあの暴力男から逃れようとしていて、男が探し当てたように思われる。多分、彼女が個人的な事を一切話さないのは、この事と関係があるのだろう。ない訳はない。そして、彼女は僕の手を握っていた。顔を赤らめた。それに、お辞儀をした。彼女が僕の事を嫌がっているとは思えない。単に、僕に感謝していたのか、あるいは......、僕の事を......。いや、それは考え過ぎだろう。 翌日、顔の痛みも落ち着いたので、普通に出勤した。彼女はいなかった。そして、課長からそっと告げられた。 「重衣、今谷はもう会社には来ない。辞めたんだよ。昨日、君の事を報告した時、かなり動揺していたようだし、何か知ってるか?」 僕は言葉に詰まった。当然、彼女の暴力夫の事など言える訳はない。ひょっとして、彼女が個人的な話が出来ないのは、こんな感じなのだろうかとも思った。 「まぁ、いい。君もそろそろ仕事を覚えたろうから、今日から一人で行動してくれ。分からないことは、何でもおれに聞いてくれ」 僕は唖然とした。もう彼女とは一緒に仕事が出来ない。それどころか、もう会うことさえ出来ない。たとえ、口を利いてはくれなくても、僕は、確かに、彼女と一緒に居る事を嬉しく思っていたんだ。 その日、とうとう梅雨入りした。それから、うんざりするようなジメジメした日々を過ごしている間に我慢しきれずになって、課長に聞いてみた。 「あの~、今谷さんに連絡したいのですが......」 「あぁ、今谷か。会社側も連絡したいことがあるのだが、できないでいる。まだ、退職に係わる手続きが残っているらしい。住所のアパートは事件の翌日に引き払っているし、電話も解約している。それに、緊急連絡先を書き漏らしている。入社当時はすぐに働いて欲しかったから、後で教えてくれればいいと言う事でそのままになっていたようだ。それから、入社の時に携帯の番号を聞いたら、持っていないと言われた。正直言って、おれは嘘じゃないかと疑ったよ。重衣、君こそ今谷の携帯の番号かなんかを知らないのか?」 「知っていたら、課長に聞いたりしないでしょう? それに、僕は、今谷さんが携帯を使っているところを見たことはありませんよ」 これで、もう彼女と会う事はないだろうと観念した。しかし、もう会えないとなると、無性に彼女の事が気になった。あの暴力男に捕まっていないだろうか? 生活は大丈夫だろうか? 今となっては、只々、彼女の無事を祈るしかない。いずれにしても、僕に結婚の事を知られたのが彼女の失踪の理由に違いないと思った。あ~ぁ、なんてこった。
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