ヤンデレ、始められました。

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 ぎし、ぎし、ぎし。  荒い息とベッドがきしむ音だけがこの小さな部屋で聞こえる全てだった。 「あ、んんっっ」 「っああ、リジー、リジー、愛してる!」  震えるような声でアレンが私の名を呼び、果てた。  繰り返されてきた週に一度もしくは二度の逢瀬。  二年近くもの間、私とアレンは大きなケンカもなく、すこぶる順調な恋人関係を続けていた。  ごくごく特筆すべきものがない普通の顔立ち、枯葉のような垢抜けない色のストレートのロングヘアに、ブラウンの瞳、平均より少しばかりぷにっと余計なお肉のついた体。  そんな町中を歩いていればどこにでも転がってそうな私、リゼットになぜか惚れ込んだ彼、アレン。  二年も続いていることが奇跡のような組み合わせである。  私はしばらくして自分にピッタリくっつくような形で寝息を立て始めたアレンの髪を撫でていた。  王国騎士団の第二副団長を務めている将来有望なアレンは、町の若い女性の間の人気は高かったし、仕事で王宮の前で警護の任務についていると、可愛らしい女性たちがあちらこちらから現れて差し入れをしたり、なんとかデートを取り付けようと画策しているのは何度も目にしていた。  そりゃあ二十六歳の若さで副団長になっており独身で現在恋人もいない。体はいかにも鍛え抜かれていそうな厚い胸板のがっしりとした体格なのに、艶やかな短めの黒髪に驚くほど繊細で整った美貌。  実家は平民だがレストランや大型の食品店をやっていて、誰もが名前を知っているような裕福な家柄だ。しかも次男であり、長男は既に結婚して夫婦で店の経営に携わっている。  つまり後を継ぐだのそういうしがらみもない。女癖が悪いとか金遣いが荒いなど悪い噂もまったくといっていいほどない。  恋人として、また配偶者として彼は超超超エクセレントな相手なのである。  当時二十二歳で付き合った人もいない平凡な私から見れば雲の上の人であり、生涯ご縁などなさそうなタイプといっていいほどの人だった。  そんなアレンがなぜ私を好きになったのかと言えば、馬車にはねられて瀕死だった野良猫を助けたのを偶然見かけたからだそうだ。 「血まみれで足は折れてるし、あちこち毛が抜けてるガリガリの死にそうな猫を、服が汚れるとか気にもせず躊躇なく抱き上げて、獣医のところに向かった姿を見て、目が離せなくなった」  んだそうだ。そこから私がアパートに戻るまで尾行して、  アレンは私のことを、聖女のごとき慈愛の精神を持つ女性と勘違いしているが、実はそんなにえらそうな人間ではない。  単に猫好きだったから、このまま死なれたら寝覚めが悪そうで放ってはおけなかっただけだし、服はお洒落着でもなく汚れたら洗えばいいだけなのでまったく気にしていなかった。しかもその子が実家で昔飼っていた、ココという猫にそっくりの牛柄のブチ模様だったから、というおまけ要素も加わっていた。老衰で亡くなったココの生まれ変わりとまでは思わなかったが、何かの縁を感じたのも理由だった。  幸いにも足は歩き方がたまにぎこちなくなるが治ったし、栄養不足で抜けていた毛も注射してせっせと栄養のある食事をさせていたら綺麗に生えてきた。  アパートの大家さんも猫を飼っているので、事情を説明したら飼うのを許してくれたので、現在は元気になったビビ(推定三歳メス)とこの二年ほど一緒に楽しく暮らしている。  人見知りなので、アレンが来る時は別の部屋に行ったまましばらく出て来なくなるが、別に威嚇したいほど嫌ってはいないようだ。  アレンが私の勤めているカフェに連日出入りするようになり、仕事終わりに食事に誘われたり、花を贈られたりするのも最初は何の冗談だと思い、からかわないで欲しいと怒りまで感じ断っていた。  だが二カ月もそんなことをされていると、もしやこれは本気なのかと思わざるを得ない。  そこで一度本音を聞きたいと思って食事をオーケーし、ビビの一件を聞いたのだ。  自分はそんなに良い人間ではないし、理想と違ったらがっかりするだろう、あなたならもっと素敵な人が見つかるから、と交際の申し込みを断ったのだが、彼は諦めなかった。何度も手を変え品を変え、お試しでもいいからと懇願され、 「……本当にお試しでいいのね?」 「ああ、もちろんだ」  連日の職場での圧と熱量のこもった眼差しに負けて、結局現在まで二年間ほどお試し状態が続いている。いやもう二年はお試しとは言えない気もするが、ここからは本格的なお付き合い、という区切りもなくいつの間にか夜を共に過ごすようになってしまったので、自分でも本当に恋人と呼んでいいのか自信がないのが本音である。  アレンが私に飽きてどこか別の女性のところに行ってくれれば、これは遊びだったと諦めもつくのに、既に私の方が本気で愛しているので、実際にそんなことになれば立ち直れなくなりそうな気がしていたが、ある日とある事情によって、私は自分から決断をする必要があった。 「別れましょうアレン。もうお試し期間はおしまいにしましょ」  ある晩、いつものように仕事が終わってアレンが私のアパートにやって来た時、お茶を出しながら冷静に話を切り出した。 「……どういうこと?」 「どういうことも何も、言った通りよ」 「あれはリジーに何とか承諾してもらうために言っただけで、俺はお試しじゃなく本気で付き合っていたんだ。もし俺に悪いところがあれば直すから──」 「直す必要はないわ。あなたが悪いわけではないの。ただもう愛せなくなったのアレンのこと」 「そんな! どうか考え直して欲しいリジー、俺には君しかいないんだ!」  愕然とした様子の彼に私の心も張り裂けそうだが、ここは踏ん張るしかない。 「もうリジーなんて愛称で呼ばないで。アレン、あなた言ったわよね? いつでも私が無理だと思ったら付き合いをやめてもらって構わないって」 「言ったけど、でもそれはっ」 「私が付き合いを止めたいと言った。嘘つきでなければ、あなたは受け入れなくちゃいけないわ」  アレンはただ私を見つめるばかりだったが、私が本気で言っていることは分かったようだ。 「──分かった。でもまた気持ちが戻るよう、俺が努力するのは構わないよね?」 「構わないけど、しばらく会いたくないから、ひと月は店にも顔は出さないようにして。まあ気持ちが戻るのは多分無理だと思うけど、そうしたいのを私が止める権利はないものね」 「……いつかまた、リジ……リゼットが必ず俺を愛してくれるよう努力する」  そう呟き、寂しげな背中を見せ帰って行くアレンを見送り、私は震える手で扉を閉めた。  いつもの客が長居もせず帰って行ったのが不思議だったのか、納戸に逃げ込んでいたビビがそっと足元に現れる。 「大丈夫よビビ。もう彼は来ないわ。慣れて来たところ申し訳ないけどここも引っ越しするのよ」  にゃ、と小さく鳴くビビを抱き上げると、私は抑えていた涙がどっとこぼれ出した。 ◇  ◇  ◇ 「……え? 辞めた?」  俺がじっと可愛いリジーに会いたい気持ちを押し殺し、言われた通りに顔を出さなかったカフェに一カ月ぶりに向かうと、リゼットは先月で辞めたよ、という店長の冷たい一言だった。 「今度は座って出来る仕事をしたいんだそうだ。止めたけどどうしてもって言われてね」  近くでテーブルを拭いていた同僚の女性が少し憤慨したように声を上げた。 「断らないのをいいことに、店長がしょっちゅう休日出勤とか残業とかさせたからじゃないですか? 優しいリゼットだって『流石に連日は疲れるし足が痛いわね』ってぼやいてたもの」 「おいおい私のせいか? 嫌だったら断れば良かったじゃないか」 「断っても頼むよ、っていつも受けてもらえるまでしつこかったじゃないですか。あーあ、リゼットいなくても、私たち休日出勤とかしませんからね」  リゼットがいないカフェに長居しても仕方がない。俺は口ゲンカをしている二人に頭を下げると店を出た。  いったん頭をクールダウンさせるために近くの公園のベンチに腰を下ろした。  何とか説得してリジーとよりを戻したい、というか結婚したいと思い、上司に話して溜まっていた有給休暇を使わせてもらい、今日から二週間の休みをもらっていた。  本当は関係修復のためにありったけの有休を使わせてくれと頼んだのだが、一度に休めるのが二週間が限度だったのだ。まあいい、今回でどうにもならなければ、また少し働いて二週間取ってやる。あと三、四回ぐらいは出来るはずだ。  ただあれからずっと考えていたが、別れる理由が本当に分からなかった。  リジーと大きなケンカした覚えもないし、何か意見の相違で揉めたような記憶もなかった。  未だに「お試し」だと思っていたリジーにも驚いた。  二年もお試し出来るわけないだろうにバーカバーカ。お試しでも不良品として返品がなければそれは正式なお付き合いというんだ。  俺の心はお試し期間過ぎてとっくに返品不可なのである。  リジーは自分のことを「どこにでもいる平凡な普通の女」だと思っていたが、そんな訳あるか。  普通の女は血まみれの野良猫を服が汚れるのも構わず獣医に連れて行かないし、金を払って長期間の治療もしない。しかも結局飼って面倒を見ているのに、全然大したことしてないみたいに思っているのだ。  顔とか体とかよりもまず、リジーのあの心意気に惚れてしまったのだ。  正直に言って自分はかなり顔がいいからモテてる自覚はあるし、家もそれなりに金持ちなので、何かあれば援助ぐらいはしてくれるだろう。次男だからある程度自由に暮らしているし、親兄弟とも仲が良い。女性から見れば結婚相手にお勧めなのだろうと思う。  ただ、俺は剣術ばっかりやってて念願の騎士団に入ったぐらいで、女性との付き合いをまず鬱陶しいと感じてしまうような人間だった。  キツイ香水の匂いは気持ち悪くなるし、終わらない噂話は退屈だ。お洒落なバーだの洋服だのにも興味がないし、デートするより鍛錬をしていた方が楽しく感じる。  性欲がない訳じゃないが、好きでもない女と体を重ねるのは嫌だった。  女性に対して恋愛感情にまで至らず、結果的に体の関係になる前に別れることばかりだった。悪評がないと言われていたらしいが、そりゃあ清い関係ばかりだったら、悪い噂も立ちようがない。  性欲も娼館で仕事として処理してくれる女性に任せた方が、後腐れもなく気が楽だった。  そんな一見女性にお勧めと思われる、実際は見せかけだけの男だった俺が、リジーに出会ったことで変わったのだ。  デートしていても楽しい。食事をしてもより美味しく感じる。ただ一緒にいるだけで癒される。リジーの声だったら、何を話していても大事な話のようで聞き逃せない。浮かべる笑みは天使のようだといつも思う。  数カ月の付き合いを経て初めてベッドを共にした時には、あまりの幸せに涙が出そうだった。  太っているから気にしているというお腹も柔らかくて気持ちいいし、二の腕も胸もすべて触り心地はシルクのようだ。全然太っているとは思わないし、彼女があと十キロや二十キロ増えたところで、毎日鍛えている俺なら軽々と抱き上げられるだろう。  作ってくれる食事も常に美味しい。もうこれは誰にも渡せない、結婚するしかないと思い詰めていたが、やっと付き合ってもらえた身で早々にプロポーズしたって断られるのは目に見えている。  いつもとても丁寧に、優しく彼女を扱っていたはずだ。  そうしてじりじりと付き合いを続けつつ距離を詰めていき、そろそろ結婚の話をしてもいいだろうか、と考え出したところに別れ話を切り出されたわけである。  明らかに俺といても気もそぞろで他の男性の気配があった、というのもない。  そもそもリジーは浮気するぐらいならまず別れてから動くのが筋でしょう、というぐらい男女関係の不貞は我慢ならないタイプである。  俺に関していえば、恋愛にあまり興味のない男だったとは思えないほど一途である。  まずリジー以外に興味がないので、付き合うようになった途端に周囲に言いふらし、とてもうまくいっているアピールをしまくっていたし、それでもアタックしてくる女は容赦なく振った。リジー以外の女は道端の小石や葉っぱと同様なのだ。  だからこそ一方的に別れを告げられても諦めきれない。俺には彼女しかいないのだ。 (……リジーには悪いが、俺がそんなに簡単に諦める男だと思ったら大間違いだ)  俺は座っていたベンチから立ち上がると、彼女のアパートに向かって早足で歩き出した。  ──一体どういうことだ。  俺は頭を抱えた。家を訪ねたらレンタルの札が掛かっている。大家の老齢女性に尋ねたらアパートも引き払っていると言われて呆然とした。 「リゼットがどこに行くとか聞いてませんか?」  俺とは何度も顔を合わせており、まだ別れたとは知らない様子の大家はとても気の毒そうな顔で首を横に振った。 「こちらもいきなりって感じでねえ。急ですまないって何度も頭を下げられたんだよ。実家に戻るのかい、って聞いても違うっていってたし。まあ彼女の実家はサドラーズって田舎の方で農園やってるって聞いたし、農地ばかりで何もないところなんですっていってたから、若い娘さんが戻っても仕事もないし退屈だろうさ」 「そうですか……」  実家の話は以前聞いたことがある。両親はまだ元気で働いているし、今後弟が後を継いで、お嫁さんと仲良くやっていくと思うと言っていた。 「仲が悪いわけではないけれど、姉がえらそうに実家でくつろいでたら、弟のお嫁さんにも気を遣わせてしまうでしょ? だから里帰りしても一日二日で帰ってきちゃうの」  と言っていたぐらいだし、確かに仕事を辞めたからといってすぐ実家に戻るとは考えにくい。 「……まあお兄さんならすぐまたいい出会いがあるよ」  大家にポンポンと背中を叩かれ、いい出会いはリジーだけでいいんだと叫びたくなったが、黙って頭を下げるとアパートから離れる。  この町ではなくても、近隣の町で仕事を決めたかも知れない。  アパートを引き払ったぐらいだから、近くの仕事場ではないだろう。座り仕事がしたいといっていたらしいし、飲食店ではなくデスクワークの可能性もある。  今は全く情報がないが、俺は決して諦めない。  リジーがいない人生なんてもう考えられないのだから。  彼女と出会ったのは運命だ。何が何でも見つけてやる。  頭を地べたにこすりつけてでも別れを撤回させ、俺と結婚してもらうのだ。  俺は拳を握りしめ、決意を新たにした。 ◇  ◇  ◇ 「ビビ、ビビってば、どこなのー? ご飯よー」 「にゃあん」  私が何度か声を上げると、庭の木の上から音も立てずにビビがすとん、と飛び降りた。 「そんなところにいたのね。もう、一軒家になって庭が出来たからって楽しんじゃって」  開いていた扉からご飯に一直線に向かうビビを見て私は苦笑した。 「もう引っ越してから三カ月以上経つのね……」  春も過ぎ、段々と日中汗をかくぐらい暑い日も増えて来た。  個人的には冬の寒さよりも、暑くても太陽の光がさんさんと降りそそぐ夏の方が好きだ。  アレンはどうしているかな。もう私のことは忘れて新しい出会いがあると良いけれど。  私は空を見上げ、早く洗濯物を干さねばと裏手の物干し場へ向かった。  この家はペットもおり、またアパートに住みづらい状態の私を気遣ってくれた雇い主が、相場よりも格安で貸してくれている借家だ。二部屋の寝室に食事もできるぐらいの広めのキッチン、バストイレもついている。  まあ古い建物だし、町の中心地までは三十分はかかるような場所だが、前に住んでいたアパートより二割も安い金額の家賃なのはとても助かっている。  現在の私は、隣町のいくつかの店舗の経理仕事の契約をしてもらい収入を得ていた。  ついでに自分で製作したバッグや財布などの小物を卸して委託販売もさせてもらうようにもなったが、少しずつ売れるようになってお得意さまも出来たりして、悪くない収入源になっていた。  前のカフェのオーナーがとにかく仕事をしない人で、経理関係も私たち従業員にやらせていたのだが、そのとき苦労して覚えた経理の知識が、新しい町で役立つことになったので、なんでもやっておくものである。  意外に個人店主は経理の仕事が不得意な人が多いので、週に一度、私が通って伝票整理をして帳簿にまとめる作業をするだけでも、心から感謝してくれる人たちが多い。  たまたまそんな話を雑貨店のオーナーが話しているのを聞いて、これはと思い売り込みしたのがきっかけで、店主同士の横のつながりで契約してくれる人が増えつつある。一店舗ごとの契約は大きな金額ではないが、五店、十店と契約が増え、前より体力的には楽な状態で同じぐらい稼げるようになった。 (ある程度の貯金はしていたけど、大きな出費もしたし、一年も無職だったら大変なことになるところだったわ……)  洗濯物を干しながら、天気が良いから今日は早く乾きそうね、などと考えていると、 「リゼットさーん、お手紙でーす」  と玄関の方から野太い声が上がった。 「あ、はーい今いきますー」  たまにハンドクラフトを置いてもらっている雑貨屋から「こういうデザインの✕✕が欲しい」という事前注文が入ることもあり、そういう時には店主が手紙を送ってくれたりする。  今回もそれだろうと裏口から家に入り、玄関の扉を開くと、私はぽかんと口を開けた。  目の前にいたのは予想すらしてなかった人、かなりやつれた顔のアレンであった。 「やっと見つけた……リジー……会いたかった……」  ふらふらと私に近づき、ぎゅうううっと私を抱き締めてポロポロと涙を流すアレンを押し戻し、 「色々と聞きたいことはあるけれど、今は離れて。バランスが取れなくなるの」  ハッとアレンが身を離し、私を改めて見て驚いたように目を見開いた。  ようやく私の右足が義足になっていることに気がついたのだろう。 「ご、ごめん! 気づかなくて」  謝るアレンに対して私は扉を広く開け、 「……入って。お茶でも淹れるわ」  と彼を促した。 「でね、何だかずっと右足の膝の痛みが引かなくて、立ち仕事で私が無駄に肉がついているせいかしら、と思ってたんだけど、休みの日にマッサージしたりしてもちっとも良くならないから、先生に診てもらったら、膝の骨の近くに腫瘍が出来てたんですって。で、そのままにしておくと他にも転移するから切らないとダメだって言われて、手術することになったの」  私はスカートを膝までまくり上げると、膝に装着された義足まで見せた。 「術後は悪くないし、義足も最近は上手く使いこなせてるのよ。まあでも義足のカフェ店員なんてさすがにお客様が驚くし、続けてはいけないから辞めただけよ。別にアレンに会いたくないから辞めたとか思わないでね」  ……いや隣町に引っ越したのはアレンに会いたくないためだったけど。 「大変だったんだね。でもどうして俺に教えてくれなかったんだ」 「……私ですら、命に関わると言われても、自分の足を切るという決断をするのに時間がかかったわ。今だって家族にも言えてないのよ? ましてや恋人になんて言えるわけないじゃないの」 「そうか、うん、そうだよね」  私はあの頃の常に怒りと悲しみが上下するような日々を思い出していた。  誰がこんな若さで足を失うと思うのか。二十四歳で不自由な体になるとは夢にも思わなかった。  だが、思いもよらぬことが起きるのもまた人生である。手術から大分経った今では、そんな風に達観出来るようにはなっていた。 「それにしても本当に驚いたわ。誰にも行く先なんて伝えてないのに、よくここに住んでいることが分かったわね? どうやって見つけたの?」  私はずっと気になっていたことを尋ねる。 「……最初は何も有力な情報が得られなかった」  ないだろうと思いつつ私の実家にもさり気なく探りを入れたが、やはり戻っている様子はない。  家に戻ってないなら仕事はしているだろう、と有休を使ってあちこちの飲食店も調べたが私はおらず。もうこの町にはいないのかも知れない、と思い始めた時に、たまたま隣町の騎士団の詰め所に異動になった同僚の奥さんが、こっちの町でリゼットに似た人を食料品店で見かけたらしい。 「──それでまた有休を使って毎日商店街を探してた、と?」  こくり、と頷くアレンの頭を思いっきりはたいた。 「せっかくの有休をなんてもったいない使い方してるのよ! 有休なんて旅行に行ったりのんびりどこかで過ごしたり、何かしらのイベントに出るために有意義に使うものでしょうが!」  ……いけない、以前の感覚で思わず説教してしまった。 「でも、俺にはリジーを見つける以上の有意義な使い方はなかったから……」  私に怒られてるのに何だか嬉しそうに見えるのは何でなのかしら。本当にアレンてば、たまに考えてることが分からなくなるわね。 「それで、調べて回っているうちに、いくつかの店で契約して経理の仕事をしてくれる女の子がリズって呼ばれてるって話を聞いて、リゼットならリズって呼ばれることもあるかなと。いや俺はリジーが一番だと思ってるけど」 「そんな話はいいのよ。で?」 「うん、仕事を頼もうと思ってるって住所を聞いて、今ここに。そしたらポストにリジーの名前があって、顔見れたらもう感極まって……」  また肩を震わせて涙を流す。  顔もやつれてせっかくの美形が台無しだったけど、体も少し痩せたように見える。  まさか何カ月も行方を捜すほど私に会いたかったなんて。  アレンにこんな姿を見せたくなくてあの町から出て行ったが、喜ぶ彼を見るとやはり嬉しかったし、私も心から会いたかったんだわ、と胸が苦しくなる。  ──だが、短い逢瀬はもう終わりにしなければ。 「バレちゃったなら仕方がないわ。でも会ったのは良かったかも知れないわね。私の足を見れば分かるでしょう? もう走ることも出来ないし、歩くのだって長時間は痛くて無理なの。普通の女でもなくなったのよ。最後に会えたことだし、もうアレンは仕事に戻って私のことは忘れて別の──」 「……え? なんで最後?」  キョトンとした顔で私を見るアレンに私は少しいらっとした。 「いや、だから私はもう」 「普通じゃないから? 普通って何? 俺にとってはいつもリジーは特別な女性だけど。もちろん今もだけど」 「足が不自由になったんだってば!」 「足がないと話をするのに困る? ご飯食べるのに困る? 一緒に眠るのに困る?」 「いやそりゃ困るかって言われたら困らないけども、でも」  私がいることで、愛する男が周囲の目を気にして生きる状態になるのは嫌なのだ。でもそんなことをバカ正直にいったら、この男は気を遣ってそんなことないとか言ってしまう。  アレンはたまにものすごくアホみたいなことをするが、基本的にすごく優しいのだ。  こっちから別れを切り出してあげたのにあんたって男は。  私がなんて言えばアレンは納得して帰ってくれるのだろうか、と考えていると、彼が立ち上がり私の足元にひざまずいた。 「アレン……何してるの?」 「いや、プロポーズする時はひざまずかないと」 「──はあ?」  ダメだわ、またこの人アホタイムになっている。今そんな状況じゃないでしょうに。 「あのね、リジー」 「何よ?」 「俺の考えが間違ってなければ、リジーは俺を嫌いになって離れたんじゃなくて、自分が手術して普通の女じゃなくなるから別れるって言ったんだよね?」 「……」 「沈黙ってことは肯定だよね? 良かった。リジーに会ったら伝えたい言葉があったんだ」 「伝えたいこと?」  アレンは頷き、続けた。 「俺の目は君を見るためにあり、俺の声は君に愛を囁くためにあり、俺の耳は君の声を聞くためにあり、俺の腕は君を抱き締めるためにあるんだ。……足がないとかそんな些細なこと、本当に俺には関係ないんだ。リジーさえいてくれたらそれでいい。お願いだから俺と結婚して家族になって」  私の手を取り、静かに懇願するように私を見上げるアレンに、私は思った。 (……この人、付き合っている時からおかしいおかしいとは思ってはいたけど、本当に私が好きで好きでしょうがない病気なんだわ)  昔、まだ子供のころ、母さんが言っていたことをふと思い出した。 「男女って分かんないもんでね、別に美男美女だから上手くいくってもんでもないし、家柄が同格だから仲良くやれるってもんでもないの。来るのよ、なんかピピピって」 「ピピピ?」 「電流みたいなものね。お母さん昔は結構可愛くてモテモテだったし、伯爵家の三男からも縁談のお話があったりしたぐらいなの。でも、お父さんに会った時にそのピピピってのを感じたのよ。ああ私はお父さんと結婚するんだわ、と思った。私の直感は間違ってなかったし、リゼットやロビンという可愛い子供にも恵まれたし、幸せになったわ」 「へー、私にもそのピピピってのあるかな?」 「さあ、人によって違うから何とも言えないわ。でもね、病的にこの人でなければ、と思うぐらい惹かれる人が突然現れるの。どんなに他の相手の方が条件が良かったり望ましい相手だったりしても、他の人じゃダメなのよ。それがいいが悪いかは別としてね」  子供心にはよく分からなかったが、アレンを見ているとよく分かる。  私がどんなに平凡で、どこにでもいるような普通の女だと言ってもいや違う、特別だといつも言い続けていた。  いつの間にか私も抜き差しならぬほど彼に惹かれてしまったのは事実だが、それでも私よりも彼にふさわしい女性はいるんじゃないかとずっと引け目を感じていた。  だが、アレンはどうやら私にピピピを感じる病気のようだ。私の足がなかろうが本当に気にしていない。下手したら手がなくなっても目が見えなくなっても問題ないとまで言いそうで怖い。  だが私は考えた。  こんなやつれてバカみたいに有休使いまくって、執念のように私を探すぐらいの病であれば、私が突き放したところで何の意味もないし、諦めることもないだろう。 「……分かったわ」 「え?」 「そこまで言うなら、お試しで結婚しましょう。で、一緒に暮らしてみてダメならすぐ別れる。そういう約束ならいいわ。……でも私はこの家が気に入ってて、ようやく安定した仕事も見つけたし、これからもこっちで暮らしたいの。だからそれが難しいのであれば──」 「大丈夫! こっちの詰め所に異動させてもらうから。こうみえて俺仕事出来るから、多少の融通は利くんだ」  喜びにあふれたような笑みを浮かべてうんうんと頷く彼を見ていると、ちょっと軽率だったかなという気がしなくもない。  でもお試しだから。お試しなら何かあればすぐ別れてあげられるものね。  私はぬるくなった紅茶を飲みながら自分に言い聞かせていた。
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