Ⅱ てほどき - une leçon -

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Ⅱ てほどき - une leçon -

 この時セルジュは、ダンスホールの隅で同輩の騎士とワインを飲みながら秘めやかな情報交換をしていた。ノラの姿が辛うじて見える位置だ。 「コロンベット家からの徴税記録を十五年ほど遡って調べてほしい」  セルジュが声を潜めて言うと、同輩のデシャンは怪訝そうな顔をした。 「コロンベット?聞いたことない家名だ」 「モリアック領の隣の小さな村を治めてる。十年前にコロンベットの荘園をモリアックが借金の担保として得たと言うが、それまではコロンベット家は借金をするほど困窮していなかったはずだ。モリアックが先代の当主が死んだのをいいことに騙したかもしれない。証拠を掴めば失脚させられるだろ」 「十年前の詐欺の証拠を掴むのは難しいぞ。それにモリアックは大臣の側近だ。揉み消すのは簡単だろうよ」  デシャンが言うことも道理だ。が、セルジュには計画がある。 「…彼女――」  セルジュは七人目の男と踊り始めたノラを視線で指した。 「アリエノール・コロンベット嬢を使う。別に証拠なんか掴まなくてもいいし、真実はどうでもいい。ただそれらしい理屈を付けて彼女に十年前の荘園の接収は不当だったと議会に訴えさせれば、無罪になったとしても疑念は残る。議会のモリアックに対する心証は最悪だ。失脚の端緒になる」 「おい、なんだよ」  デシャンがつまらなそうに言って目をぎょろつかせた。 「珍しくパートナーを連れてきたと思ったら、利用するために籠絡してるのか。お前も鬼畜なことをするな」 「利害が一致して頼み事を聞いているだけだ。だが本人はまだ任務のことは知らない。折を見て話すから余計なことをするなよ」 「わかったよ。だけど――」  と、デシャンが何か言いかけたとき、セルジュは突然ワイングラスをデシャンに押し付けてダンスホールの中央へ足を向けた。  ノラが、ダンスの相手にベタベタと触られている。それも、セルジュをいつも目の敵にしている不愉快な男だ。  異様に腹が立った。理由は分かっている。自分が守るべきパートナーが悪意の的になるのを防げなかったからだ。それ以外にない。  セルジュが男を引き離そうと近付いた時、セルジュの目には作り笑いだとはっきりわかるような顔で、ノラが口を開いた。 「あなたはアベル卿やその母君が実際に狡猾なことや淫らなことをしているのをご覧になったのですか?」 「いいえ。だがそうに決まっている。あなたのように清純な方には想像も出来ないでしょうが、あれは憐れでつまらない男ですよ」  男は鼻で笑い、悦に入っているようだった。 (清純かどうかなんて、一言話したくらいでこの人に分かるのか?)  ノラは溜め息を押し殺した。要するにこの男は、セルジュが心底嫌いなだけだ。 「わたしもあなたの思うような女ではないと思います」 「何を謙遜することがあるのです」  男が猫撫で声で言った。何とも不愉快だ。 「謙遜ではありません。わたしは百年前の戦で百人の首級を上げた傭兵の血筋です。曽祖父は仲間を侮辱した敵の舌を切って殺しました。あなたの理論が正しいなら、わたしはこのアストレンヌで最も尊敬する方を侮辱した男の舌を切らなければならないな」  男の顔が引き攣った。 「誰から生まれてどこに身を置いていようが、セルジュ・アベル卿はセルジュ・アベル卿だ。わたしは彼の懐の深さを買っているし、あの人の博識さと人を楽しませる能力は並ならぬ努力で身に付けたものだ。わたしはアベル卿を心から尊敬している」  ノラは豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くした男から身体を離し、恭しくお辞儀をしてその場を立ち去ろうとした。 「わっ」  と、数歩も行かないうちにノラが立ち止まったのは、そこにセルジュがいたからだ。  セルジュは自分がどんな顔をしているか分からなかった。こんなことは、初めてだ。 「う、アベル卿…」  ノラは顔を赤くして、悪戯を見つかった子供のように眉尻を下げた。 「粗忽者にて、申し訳ない」 「ぶはははは!」  腹を抱えて笑い出したのは、セルジュの後ろでこれを見ていたデシャンだった。 「デシャン!」  セルジュが咎めても、デシャンの笑いはおさまらない。 「だって、粗忽者って…。くっく…いや、いいね。見事な啖呵だった」  ノラは赤毛の騎士を見上げ、つられて笑ってしまった。 「ハハ。どうも、えーと」 「デシャンだ。リアム・デシャン」 「初めまして、デシャン卿。わたしは――」  デシャンが差し出した手をノラが握る前に、セルジュはノラの手を取って大きなアーチの扉に向かった。 「今夜の収穫は充分でしょう」 「あ…でも、ご友人はいいのか?」 「ええ。もう用は済みましたから」  帰りの馬車では、気まずい沈黙が流れている。 (やってしまった)  ノラは落ち込んだ。恐れ多くて顔も上げられず、馬車の窓へ顔を向けていた。せっかく上手くやっていたのに、頭に血がのぼってつい言葉が素に戻ってしまった上に、舌を切るなどとまったくもって貴婦人らしからぬ物騒な言葉を口にしてしまった。それに、昨日出会ったばかりなのに知ったようなことを厚かましくもべらべらと喋ってしまった。  これは、呆れられても仕方がないというものだ。 「あの…」  ようやくノラが顔を向かいへ巡らせると、セルジュがこちらをじっと見ていた。いつからそうしていたのか、肌がひりつくほど強い視線だ。言葉が出ない。怒っているのかと思ったが、どうも様子が違うように見える。 (あっ…!これは、もしかして)  ノラの頭が目まぐるしく回り始めた。 (試されているのか?いや、絶対そうだ。明日も粗忽者のわたしをパートナーとして伴うに値するか、これからの行動を見て決めるつもりなんだ。これは、挽回の好機…!失敗できない。ちゃんとやればできるということを示しておかなければ…)  完全に迷走している。が、ノラはそれに気付かない。  ノラは意を決して腰を上げ、セルジュの隣に座った。セルジュはノラの突然の挙動に驚いて顔を上げたが、動かずにその挙動を見守っている。 「‘蜜蜂さん’…」  ノラはセルジュの手に触れ、甘えるように肩に頭をもたせかけた。顔ごと上に向けるのではなく、目線を動かし、僅かに顎を上げて、伏し目がちに相手の目を見る。――セルジュの教え通りだ。 「ねえ、機嫌を直して」  子猫の頭を撫でるほどに優しく指先で相手の頬に触れ、もう片方の手は肩に触れて、ノラは腰を浮かせた。セルジュの目が鈍く光る。恥ずかしくて堪らないが、表情に出したらその時点で落第決定だ。ノラはセルジュの右の頬の、唇に近い場所に、羽が触れるようなキスをした。 (ううぅ、恥ずかしい)  顔が燃えるように熱いし、心臓も走った後のようにばくばくしている。善良なセルジュを相手にこんな破廉恥なことをしてしまって本当によかったのかわからない。それでも概ねそれっぽくできたはずだ。 「そそ、それで、あの、どうだろう。及第点くらいはもらえるだろうか」  ノラが身体を離した途端、不意に腕を強く引かれて、そのまま膝の上に乗り上げてしまった。 「…!」  声が出なかったのは、ノラにそんな隙を与える前にセルジュの唇が重なってきたからだ。柔らかくて、優しい触れ方なのに、ひどく熱い。いや、熱いのは自分自身の体温かもしれない。  上下の唇を優しく啄むようにセルジュの唇が吸い付き、腕を掴んでいた大きな手は腰に巻き付いて、髪の中に指が入ってくる。 (う、嘘…)  ノラは激しく混乱した。何も考えられない。それなのに、与えられるこの熱が心地よいと感じることはできる。  まるでこの春の夜に、世界で二人きりになってしまったみたいだ。  セルジュの舌がノラの下唇をぺろりと舐めたとき、ノラの細い喉から小さな呻き声が漏れた。心臓が大きく打って息が上がる。唇が離れたあと初めて見たものは、熱を帯びて暗くなったセルジュの灰色の瞳だった。 「ノラ嬢」  声まで別人のようだ。頭がぼうっとする。 「はい…」 「わたしを挑発してどうするんです」 「えっ!?そういうことじゃなかったのか?」 「どういうことです」 「わたしが大失態を犯したから、挽回できるか試しているんだとばかり」 「どうして、そんな…」  セルジュはそれ以上言わず、頭を抱えてふぅーと大きく息をついた。そのくせに、ノラの身体を膝に乗せたまま離そうとしない。 「……もしかして初めてでした?」 「あ」  ノラは顔が熱くなった。なんだか改めて言われると、大事件のような気がしてきた。経験したことがないくらいに恥ずかしい。 「…うん。今みたいのは」 「今みたいのって?」 「あの…親鳥がヒナに餌をあげるみたいな…」 「くっ」  セルジュが肩を震わせたと思ったら、周囲の空気を震わせるように笑い出した。少年のような声だ。 (驚いた)  穏やかなアベル卿がこんな風に笑うなんて、想像もしていなかった。なんだか胸の奥がざわざわとする。 「あなたといると退屈しません」 「光栄だ、アベル卿。わたしもあなたといるといくつも発見がある」 「ああ、でも次これをやる時は、その男と一晩過ごす覚悟を決めてからにしてください」 「わ」  ノラの顔がじわじわと赤くなった。耳や肩まで熱い。いかに世故に長けた宮廷人でも、きっととんでもなく大胆なことだったのだろう。 「わかった…」  ノラはセルジュの視線から逃げるように目を逸らし、そろりと膝から降りた。  セルジュはノラを大伯母のゴーティエ夫人の屋敷へ送った後、しばらく自己嫌悪に陥った。 (何をしているんだ)  予測不可能なノラの言動に振り回されていては、任務に支障が出る。だが、あの引力には抵抗できなかった。  アリエノール・コロンベットは、憎たらしいくらいまっすぐで、純粋で、心が翼を得たように自由だ。彼女が自分に向けてくる曇りのない善意は一体どこから来るのか、見当もつかない。  ノラがあの不愉快な男から聞いた事は事実だ。出自や立場について他人からとやかく言われることには慣れている。自覚もある。だからそれに相応しい振る舞いをしているのだ。容姿が良く便利に使えるただの騎士だから、みな集まってくるに過ぎない。  憐れみをひけらかしてこの肉体を手に入れようとする高慢な女もいれば、傷を舐め合いたい卑屈な女もいる。そういうセルジュを妬む男もいる。が、彼らは所詮平凡な幸せ者だ。その虚しさに気付かないのだから。  しかし、ノラは違う。  ――誰から生まれてどこに身を置いていようが、セルジュ・アベル卿はセルジュ・アベル卿だ。  ノラが毅然と口にした時、あろうことか彼女を愛おしいと思ってしまった。  本当のセルジュ・アベルを知りもせず、利用されていることなど疑ってもいない、浅はかな女だ。それなのに、ノラの柔らかい唇が頬に触れた瞬間、薄汚い欲望が胸に満ちた。  それほど性欲の強い男でもなければ、恋人でもない女性にキスするような不埒なことを平然とする男でもない。それなのに、止められなかった。もしも酒に酔っていたらあのまま連れ帰って犯していたかもしれない。  心の内ではむしろ、触れるだけのキスで終わらせられたのだから、自賛すべきだとさえ思っている。  だがそれでは駄目だ。心置きなく彼女を利用するために、利用されてやらなければならない。  春の宴の第三夜には、ノラはもはや誰にも見向きもされない田舎娘ではなくなっていた。今までどんな令嬢も宴に伴ったことのないセルジュ・アベル卿が連日必死で口説いている謎の貴婦人に、多くの者が興味を示したからだ。それに、無礼な男に毅然と対峙したことも主に婦人たちの間で評価を上げていた。  セルジュとは最初のダンスを踊り、そのあとは舞い込むダンスの申し込みを次々に受け、或いは彼らに紹介してもらった貴婦人たちとの席に参加し、交友関係を最大限に広げることに従事した。  ノラは持ち前の根気強さを発揮してよくやっていた。  内心で高嶺の花っぽい貴婦人を演じることがとてつもなく恥ずかしかったが、困窮する家族を救うためならそんなことには構っていられない。それに、交友関係を広げることは元より好きな方だ。それほど興味が湧かない相手であっても、相手に向き合って会話を交わせばいくつも美点を見つけられることが、ノラの美徳なのだ。  この日ノラは何件かの貴婦人の主催する茶会や夜宴などの招待を多く受け、その全てに応じた。 「アベル卿のおかげだ」  ノラは帰りの馬車で喜色満面にして言った。 「お役に立てたのなら何よりです」  セルジュの声は、低く落ち着いている。 「なんだか会話のコツを掴めた気がするんだ。アベル卿が紹介してくれた男性はみんな気さくでいい人たちだったし、婦人たちとも仲良くなれた。これで良い縁に繋がりそうな関係を築けると思う。本当にアベル卿にはどうお礼をしたらいいかわからない」  セルジュは微笑みの下に染み出す毒を隠すので必死だった。今こそ対価にモリアックの提訴を求めるときだ。これほどの感謝を得れば、人情に厚いノラのことだからこちらの頼みを無下には出来ないだろう。しかし、喉が貼り付いたように言葉がうまく出てこない。 「…礼をくださるなら、ノラ嬢――」 「なんだ!何でも言ってくれ」  ノラは溌剌と目を輝かせた。この輝きに鼻白んで、セルジュは思わず違うことを口にした。 「…今宵、あなたの時間をわたしにください」 「いいぞ!」 (あっ?)  ノラの元気いっぱいの返答を聞いて初めて、セルジュは自分が言い方を間違えたことに気付いた。まずモリアックの件を丁寧に説得するために時間が欲しかったのであって、決してノラの名誉を脅かしたいわけではなかった。が、結果、どう考えてもそう聞こえるような言い方をしてしまった。  今ひとつの間違いは、ノラがその意図を一切気にすることなく快諾してしまったことだ。一体ノラが何を想定して「いいぞ」などと言っているのか分からない。 (本当にいいのか?…いや、この感じだと多分何も考えていないな)  しかしセルジュは、ノラがどれほどの覚悟で王都へやって来たか、考えが及んでいなかった。  ノラを自分の屋敷の客間へ招き入れた直後、柔らかい唇が頬に触れてきた。  一瞬だけ触れ合った熱が夜気に溶けたあと、使用人が先ほど灯したばかりの燭台が、ノラの目元を赤く染めた。 「デシャン卿が、アベル卿へのお礼ならキスが喜ばれると言っていた」 (余計なことを)  セルジュは身体を離そうとして掴んだノラの肩を、自分の方へ引き寄せた。  思っていた行動とは逆のことをしている自覚はある。身体が密着するほど近付いても、ノラは拒まない。セルジュの厚意に報いる方法として、本当に何でもするつもりなのだ。  情けないほどに、身体が熱い。 「…デシャンにも結婚相手を探していると話したんですか」 「うん。昨日恥ずかしいところを見せてしまったから、隠す必要もないし」 「それで、彼ともダンスを?」 「したよ。デシャン卿もリードが上手だ。あなたほどではないけど」  面白くない。  デシャンが昨日ノラに興味を持ったのは知っていたが、見ていないうちにダンスに誘ったとは思っていなかった。だが今はモリアックの件を話す方が重要だ。 (訴え出ろと、言わなければ…)  しかし、次にノラが爪先を伸ばしたとき、セルジュは任務の一切を忘れてしまった。  普段は騎士のように凜々しい娘が恥じ入ったように目を伏せて、唇に唇を触れ合わせてきたのだ。  今までこれほど甘美な唇を持った女性はいなかった。  セルジュは、ノラのかかとが床につくまでの数秒間、指先も動かせずにいた。 「も、もしかして頬じゃなかったのかなと思ったのだけど」  触れるだけのキスの後、ノラが不安そうにまぶたを上げて、栗色の睫毛の下からセルジュの顔を覗き込んだ。相当に恥ずかしい思いをしながらキスしてきたのがバレバレだ。頬が燭台の灯りでもよく分かるほどに赤くなっている。 「…それだけ?」  セルジュはノラを壁際に追い遣り、ノラの顎を掴んで、唇を重ねた。 「んっ!?んぅ…」  変な声が出る。ノラは恥ずかしくて身体中が燃えるように熱くなった。  セルジュが唇を啄み舌を這わせてくると、小さな痺れが指先まで伝って、一気に心臓が騒がしくなった。柔らかく熱い舌が口の中に入ってくる。セルジュの舌が歯列をなぞり、上顎を這い、舌をつついてくる。  こんなキスがこの世に存在したことを、ノラは初めて知った。 「昨日わたしが言ったことを覚えていますか」  言葉が唇の上を這うように、吐息が触れる。  ノラは顎を引いた。 「だって、今夜わたしの時間をくれと言ったのはこういうことじゃないのか?」  セルジュの灰色の目が暗くなった。ノラは身体の中に、今まで知らなかった衝動を見つけた。 「違いました。でも、今は違わない」 「よく、わからないな…」 「わたしもです」  蜜色の睫毛が灰色の瞳を隠して、もう一度唇が重なってくる。 「…ほら、唇をひらいて」  セルジュの低い声が命じるままに、ノラは唇を開き、再び入ってきた舌に自分の舌を触れ合わせた。ぞくぞくと耳の後ろがざわめいて、身体から意思と一緒に力が抜けていく。耳に親指が触れ、首の後ろを手のひらが這って、髪の中に指が入ってくる。腰に回された腕がきつく巻き付き、身体が互いの鼓動を感じるほどに近い。  身体が浮いて奥のベッドの上に倒されたとき、ノラは初めて心臓が破裂しそうなほど打っていることに気付いた。いつからこんなになっていたのか、息が苦しいほどだ。セルジュが膝をついてベッドに乗り上げ、上衣を脱ぎ捨てた。 「あ、アベル卿…」 「こういう時は、名前を呼ぶんですよ。ノラ」  いつも柔和なセルジュの目が、射るような鋭さで見つめてくる。視線の先からじりじりと灼かれそうだ。 「セルジュ…」  ノラは痺れる指先を上げてセルジュのベストのボタンを外し始めた。指が震えて、うまくできない。 「こういうことは初めてですか」  低く甘い声で問われ、ノラは無言で頷いた。わざわざ聞かなくても判りきっているのに、ちょっと意地悪だ。それでも今口を開いたら心臓が飛び出てきそうで、文句の一つも言えない。  震える手をセルジュが握り、指先にキスをした。 「…あなたに教えて欲しい。初めての人はあなたがいい。これは見返りなんかじゃなくて――」  ノラはセルジュの頬に触れ、自分の方へ引き寄せて深く口付けた。この部屋に入って頬にキスをしたときから、礼のつもりでも対価のつもりでもなかった。  きっとこの先、誰かと身体を重ねる度に初めての時を思い出すだろう。その時に蘇るのがセルジュ・アベルの肌ならば、それほど相手を愛せなかったとしても、その行為を悪く思うことはないはずだ。  重なった唇の下で、セルジュが呻いた。焦れたように服を脱ぎ、よく鍛えられた胸が露わになると、ノラは思わず溜め息を漏らして見蕩れた。燭台が張りの良い筋肉の照らして肌の上に影を踊らせ、こちらに伸びてくる腕に筋が浮き上がって、腹はごつごつと隆起している。 「あまり見られると恥ずかしいです」  セルジュが吐息交じりに苦笑した。 「こんなに健全で美しい肉体のどこに恥じる要素があるんだ」 「ではあなたも見せて、小鳩さん」 「そ、そうか。わたしばかりが見ては公平じゃないな」 「ふ」  セルジュが腹をひくひくさせて笑い、ドレスを脱ごうと身体を起こしたノラをベッドに押し戻した。 「宝箱を開ける楽しみはわたしにください」 「たか…?は、はい…」  男の目に肌を晒すのがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。ノラは次第に暴かれていく身体を隠したくなるのを必死で堪え、セルジュの静かな灯火のような視線に耐えた。  やがてセルジュの手が繊細なガラス細工を扱うように鳩尾に触れ、胸に触れて、柔らかい丘陵をすっぽりと覆った。 「う、アベ…セルジュ…」 「いや?」  ノラはふるふると首を振った。なんだか身体が変だ。  セルジュは吐息だけで笑むと、淡く色付いた乳房の先端にキスをした。 「ふ、あ…!」  舌が乳房を這い、先端が硬く立ち上がって、全身に甘やかな痺れをもたらした。  全てを覚えておこうとしているのに、身体中にやさしく触れるセルジュの唇に呼吸を乱され、意識があやふやになっていく。 「痛かったら言ってください」 「え?」  ほとんど聞いていなかった。何をされるかもよくわからないまま、ノラの身体はセルジュの指を受け入れた。 「んう…!」 「痛いですか」 「違う、大丈夫。けどなんか…」  気遣わしげにこちらを覗き込んでいたセルジュの目がふと弧を描いて、ノラの心を苦しくさせた。  脚の間に異物が入ってきたというのに、ノラの身体は熱く潤っている。ひどく恥ずかしかったが、すぐに羞恥を感じる余裕さえなくした。  セルジュが内側から滲んだ蜜を秘所の上部に塗りつけてそっと撫でると、ノラは頭の中で火花が散ったような衝撃を受けた。 「あっ…!な、なにして…」 「教えて欲しいんでしょう。そのまま感じて」  セルジュの灰色の目が鈍く光って、近づいてくる。ノラは淫らな口付けを受け入れながら、次第に激しさを増す痺れに喘いだ。セルジュの長い指が円を描くように秘所をなぞり、ノラの官能を呼び覚ますように内部を探っている。  身体中が熱い。漏れてしまう声が、自分のものだとは思えないほどに高く淫靡に聞こえた。思考を白い波に覆われるように、意識がぼんやりとしてくる。  射竦めるような強さで向けられるセルジュの目が、ノラの目に映る唯一のものだ。 「あ――待って、何か…ああっ!」  身体の中で張り詰めたものが頭の中で激しく弾けた時、全速力で走った後のように息が上がった。からだが別人に造り変えられてしまったように、熱くて溶けそうだ。  ふとセルジュがノラの額にキスをして、身体を離した。ノラの胸に小さな喪失感が生まれた。 「わたしがあなたの期待通りの紳士なら、ここでやめます」  ノラは起き上がってセルジュの手を握った。 「やめないで」  こんなことを言ったら恥知らずな女だと思われるかもしれない。が、ノラはもう覚悟を決めている。それを容易く覆されるのは、騎士が剣を折られるほどの屈辱に等しい。 「やめるつもりはないです。あなたの思うような紳士じゃないので」  セルジュが悪戯っぽく笑った。ノラの胸がざわざわと落ち着かなくなり、身体のあらゆる器官が引き絞られるように痛くなった。  予感がする。この現象は、ノラの人生に於いて唯一、セルジュ・アベルにしか引き起こせないものかもしれない。  ノラは腕を広げてセルジュを抱きしめた。  知らなかった。こんなふうに抱き合うことで、満たされるものがあるなんて。  ノラはセルジュの手に導かれるままに脚を開き、その間に硬い男の肉体を受け入れた。 「――っ!んぅ」  じりじりと奥へ熱が入ってくる。 「痛いですか」 「少し…」 「では、その痛みを覚えていて」  セルジュが苦しそうに眉を歪めて隙間なく身体の奥を埋めた時、胸が柔らかい熱で満ちた。 「セルジュ…」  名を呼ぶと、灰色の目が優しい輝きを宿してこちらを見た。ノラは首の後ろに腕を回し、顔を引き寄せて、口付けをした。舌が絡み合い、身体の奥に緩やかな律動を感じる。内側が擦れ合うたびに小さな痛みをもたらし、同時にむずむずとくすぐったいような、不思議な感覚が生まれた。  セルジュの長い指が乳房の先端をそっと撫でると、肌の上に火花が散って、全身が痺れた。 「あっ、あ…」 「…っノラ、あまり締めないで」  苦悶するような声だ。セルジュの頭が肩に落ちてきて、荒い呼吸が肌を湿らせた。 「そ、そう言われても…。あなたも痛いのか?」 「ふ。違います」  優しい笑顔だ。胸が痛くなる。 「あなたの中が気持ちよすぎて、無様に我を忘れそうになる」  ぎゅう、と身体の内側が引き絞られるようになって、甘やかな鼓動が肌を打った。この人の創り出す未知の感覚に溺れてみたいと思った。 「…いいよ。我を忘れたセルジュのことも信頼している」  この後の行為は、まるで高波に攫われたようだった。甘美な熱が全身を包んで、抱え上げられた脚の間に、ノラの最も深い場所を穿つような強さでセルジュが衝撃を与えた。  先に我を忘れたのは、ノラの方だった。  不可思議な激しい衝動が身体中を走り回る。ノラはセルジュの名を呼び、その胸に縋り付きながら法悦の悲鳴を上げて、身体を震わせた。自分の身体がセルジュをきつく締め付けたのが分かるほど、内部が激しく波打った。 「――ッ、ああ。ノラ…」  意識を失う前に、ノラは細波のようなセルジュの声を聞いた。
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