Ⅵ みちびき - aime-moi, guide-moi -

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Ⅵ みちびき - aime-moi, guide-moi -

 次に目を開けたとき、ノラはセルジュの匂いのする寝台に横たわっていた。ほんの一瞬だけ眠っていたような気がしたが、実際には何時間経っていたのかわからない。額にひんやりとした手が触れている。ノラはそれに自分の手を重ね、心配そうに顔を覗き込んでくるセルジュに笑いかけた。 「体調は?」 「もう大丈夫だ。わたしの浅はかさのせいで手間を掛けてしまった。ありがとう」  セルジュは大きく溜め息をついて、脱力したように椅子に背を預け、額を両手で覆った。 「はぁー…肝が冷えた…。迂闊すぎます。あの男がモリアックの息子だと知らなかったんですか?」 「実はさっき知ったんだ。ただの話の面白い遊び人だと思っていた」 「ただの遊び相手にしても選び方が最悪すぎます」 「う…」  ノラは目を泳がせて、サイドテーブルの瓶を掴んで水をガブガブと飲み、身体を起こして座った。乳房が露わになるまで乱されたドレスは、下着まできちんと整えられていた。セルジュがしてくれたのだろうが、何だか恥ずかしいやら情けないやらで、居たたまれない。 「ここはあなたの屋敷か?」 「そうです。気を失ったままゴーティエ夫人の家に帰すわけにはいかないでしょう」 「ハハハ。道理だな。大伯母さまが心臓発作でも起こしたら大変だ」 「笑い事じゃない」  セルジュが声を荒げた。 「あんな男の誘いに乗るほど傷ついたんですか。アンリ・ランバルとのことで」  ノラはきょとんとした。そういえば、アンリのことを忘れていた。 「それが、全然傷つかなかったんだ」 「は?」 「実はアンリ閣下が他の女性とまぐわっているところに出くわしてしまって、それでも結婚してくれと縋り付かれたんだが」 「そういう男は犬に食われて死ぬべきです」  また怒った声だ。ノラは苦笑した。 「そこまでは言わないが、まあ最低だよな。でもわたしも同じようなものなんだ。…一瞬でも‘ちょうどいいや’って、思ってしまったから」 「何がちょうどいいんです」 「夫に他の女性がいれば、妻は他の男に恋したままでも罪にならないだろうって考えてしまった。自分の浮ついた気持ちを正当化しようとした。やばくないか?倫理が崩壊してる。踏んでくれと懇願されなかったら、あの最低な求婚を受け入れていたかもしれない。そういう自分がすごくいやになったんだ。結婚というものに疑問も感じてしまった。だからちょっと…気晴らしをしたかったっていうのもあって」 「………‘踏んでくれ’?」 「一体どんな風に見られていたのかわからないが、自分を偽るととんでもない結果がついてくるって学んだよ。アンリ閣下にしても、フロラン閣下にしても、まあいい勉強になった」  ノラは神妙に言って、寝台から立ち上がった。足元はまだ重たいが、妙な浮遊感は消えたし意識も明瞭になっている。この感じなら辻馬車を捕まえてゴーティエ邸まで戻れそうだ。 「ここにはあまり長居するべきじゃないな。もう行くよ」  緊急事態でやむを得なかったとは言え、セルジュの寝室に入ってしまっては恋仲のマダム・ベケットに申し訳が立たない。ノラはちくちくと胸に棘が刺さるのを無視して、扉に手をかけた。  セルジュの顔を見て礼を告げるのが礼儀だが、顔を見ることができない。こんなに長くセルジュの匂いに包まれていては、理性が崩れてしまう。 「本当に助かった。礼は改めて――」  ぱたん、と扉が閉まった。  背後から伸びてきたセルジュの腕が扉を閉ざし、ノラの退路を断っている。  ノラは振り返り、顔を上げた。セルジュの苦悩するような灰色の瞳が、目の前に迫っていた。 「話は終わってないですよ」  どっと心臓が揺れた。血がものすごい勢いで身体中を巡っていくのが分かる。身体が熱くなり、のどが震える。 「好きな男って?」 「それは…」 「わたしから遠ざかろうとするのは、わたしが嫌いになったからですか」 「ちがう」 「なら、どうしてここに長居するとよくないんですか」 「だって――」  セルジュの瞳は暗く、声は苛立っている。ノラの胸の中からぐらぐらと何かが沸き上がり、のどで弾けた。 「だってあなたには、マダム・ベケットがいるじゃないか!言っただろ。わたしはあなたに触れられるともっと触れたくなってしまう。あなたには素晴らしい恋人がいるのに…わたしを浅ましい女にさせないでくれ。あなたへの想いを断ち切って結婚相手を探すには、距離を取るしかないんだ」  セルジュの手が、ノラの頬に触れた。離れたいのに、離れられない。まるで何か強力な引力が働いているようだった。 「マダム・ベケットとわたしの噂を信じたんですか」 「だって実際に親密だろう。あなたたちの間には特別な絆がある」 「そうですね」  ノラの胃が急激に縮んだ。目の奥が熱い。 (こういう風になるのが怖かったから、今まで口に出さないでいたのに…) 「親子ですから」 「ほらな、やっぱり。おや……ん?」 「マダム・ベケットはわたしの母です。お互い立場があるので公にしていませんが」 「え!!だって見た感じ五歳ぐらいしか違うように見えないぞ」 「本人に言ってあげてください。喜びますよ」  そう言われてみれば、二人の面立ちはよく似ているかもしれない。  単純な自分がちょっと情けない。落ち込んでいた気持ちが今度は浮ついて、鼓動を速めた。しかしセルジュは未だに苦悩するように、眉の間に皺を作っている。  ノラは気付いた。これは苦悩ではなく懇願している顔だ。 「もう一度訊きます、ノラ。好きな男って誰ですか」  声より先に手が出た。ノラはセルジュの襟を掴み、引き寄せて、唇を重ねた。  セルジュの手がもっと強い力でノラの側頭部を掴み、隙間もなくなるほど激しく唇を覆ってくる。舌が絡み、唾液が顎を伝って、呼吸が苦しくなる。 「はっ…はぁ。あなたのせいだ」 「何が」 「ん…」  セルジュが唇を浮かせて低く問い、またすぐに唇を塞いでくる。指先まで痺れる感覚が、甘やかに血流に乗ってノラの感覚を鋭くした。 「あなたのせいで、欲が出た。お金のために結婚さえできれば心はどうでもいいと思っていたのに、心が求める人と一緒にいたいと思ってしまった。あなたがわたしを変えてしまったんだ。もうどうしたらいいかわからない。責任取ってくれ」  燃えるように熱くなった目から涙があふれた。もう止められない。王都にやって来てからというもの、常に頭の中にセルジュがいた。他の男と話している間は頭の中でセルジュが振るまい方を指示していたし、他の男と踊っているときは目の前の男がセルジュだと思うようにしていた。  ノラが彼らの気を引いた一番の理由は、彼女が自分に恋しているように錯覚したからだ。どんな男と共に時間を過ごしても、ノラの目にはセルジュしか映っていなかった。 「責任を取っていいんですか。わたしはあなたが思うような男じゃない。潤沢な財産もなく、爵位も持たず、出世のために自分を偽り人を利用するのも厭わない俗物です」 「知ってるよ。それでも、どうしてもあなたが欲しくなっちゃったんだ。こんなに――」  ノラはセルジュの手を掴んで自分の胸に触れさせた。 「こんなふうになるの、あなただけなんだ。多分きっと、一生…」  セルジュの手のひらに、ノラの早鐘のような鼓動が伝った。  セルジュが焦れたように舌を打った瞬間、ノラの身体が浮き、次の瞬間にはベッドに戻されていた。セルジュがなだれ込むように重なってきて、噛み付くように唇を覆ってくる。ノラはセルジュの首に腕を巻き付け、舌を伸ばして応えた。重なった胸からセルジュの鼓動が聞こえる。自分の鼓動と同じくらい速く打って、まるで同調していくみたいだ。  唇が細い糸をつないで離れた時、次にノラに降りかかったものは、冬の空を照らすシリウスのような銀色の輝きだった。 「あなたが好きだ、ノラ。わたしたちが同じものを求めているなら、もう二度と離さない」  もう一度唇が重なってくる。セルジュの手が優しく腰を這い、背中の留め具を外していく。  心臓が破裂しそうだ。こんなに息が苦しいのに、それさえも幸せだなんてちょっと変かもしれない。 「うん…。わたしもあなたが大好きなんだ。これって、同じものかな」 「そうです」  セルジュが優しく笑った。また胸が苦しくなる。  結局王都へ来た目的も果たさないまま、身を焦がすような熱情にまかせて重大な決断をしようとしている。それでもノラには確信があった。大伯母さまの言うことを信じるべきだ。お金のことは案外何とかなるし、心で繋がれる喜びに何よりも価値がある。それに―― 「あなたとなら、何でもできる気がするな」  ドレスを乱されながら、ノラはセルジュのクラバットを抜き取ってシャツのボタンを外し、硬く精悍な胸に触れた。 「いいですね。試してみましょうか。いろいろ」  セルジュが頬を紅潮させてにやりと笑み、ノラの首に吸い付いて、ドレスを引き下ろした。 「ん?あっ!?そういうことじゃ…」  ノラは悲鳴を上げた。セルジュの言葉の意味を理解した時には、もう抵抗もできなくなっていた。いつの間にかセルジュの頭が脚の間に入り込み、秘所をこじ開けるように舌が這っていた。 「あ――!」  舐められているところから無数の火花が散って、全身に快感が走る。あまりの刺激にノラは身悶えしたが、腿を抱えられて脚を閉じることもできず、身体を震わせることしかできない。 「ちょ、ちょっと待って…こういうことじゃなくてだな…あぁっ」 「ふ。かわいい。わかってますよ」  意地の悪い笑い方だ。それなのにどういうわけか、セルジュの声に心臓が悦び跳ねている。 「んんー…!」  陰核を舌で弄ばれているうちに、指が奥まで入ってくる。 「あッ!だ、だめ…」  秘所の奥の感じやすい場所を撫でられると、腹の奥から強い痺れが起き、背を伝って、頭の中で真っ白な爆発が起きた。  こんなことが続いたら死んでしまいそうだ。それでも身体は燃えるように疼いて、もっと深いところへセルジュを求めている。 「くそ…」 「口が悪いですね」  ノラはむう、と頬を膨らませ、覆い被さってきたセルジュの頬を両手で挟み、口付けをした。乱れた髪がセルジュの首を撫で、やさしく髪を払う指が、ノラの耳をくすぐった。 「わたしの番だ、アベル卿」  ノラはセルジュの上に馬乗りになると、くすくす笑うセルジュの唇に羽が触れるような口付けをし、シャツを広い肩から滑り落とし、硬くゴツゴツと隆起した胸から腹へと小鳥が啄むように唇で触れた。次第にセルジュの息遣いが荒くなり、ズボンの前を寛げた時には、息を呑む時の微かな音が聞こえた。  ノラはそこから出てきたものに、柔らかい手で触れた。セルジュのそれは熱く張り詰めていて、想像よりも滑らかだ。  びくりと跳ねたセルジュの肌に、ノラは背徳感にも似た愉悦を感じた。先端を手で包み、上下に擦ってみると、セルジュが眉間に皺を寄せて何かに耐えるように目を細くした。 (おお…)  なんだか嬉しい。もっと淫らな顔が見たくて、ノラはじりじりと下へ膝を動かし、熱くなっているセルジュの一部を口に含んだ。 「は…ッ、う。ノラ…」  セルジュの声だけで、腹の奥がひくひくと熱くなる。 (咥えてみたはいいが、この後どうすればいんだ。こうかな…)  口に含んだままぺろりと先端を舐めてみると、既にそこは濡れていた。セルジュの身体が小さく震え、頭上から押し殺したような呻き声が聞こえる。  舌を根元から上へ這わせて先端を突く行為を暫く繰り返していると、口の中で更にセルジュのそれが硬くなった。そろそろ顎が限界だ。唾液がこぼれないように吸った瞬間、セルジュが堪らず声を上げた。 「うぁっ…!こら」  セルジュはノラの顎を掴んで脚の間から引き離すと、ノラの唇を濡らしたものを親指で拭い、自分の身体の下に倒した。 「あんなの一体どこで覚えたんですか」  乳房がセルジュの大きな手に覆われ、指で挟むように摘ままれると、ぞくぞくと身体に痺れが広がって息が上がった。 「貴婦人たちのサロンで…怒ったのか?気持ちよくなかった?」 「気持ちよかったです。他の男にしてないでしょうね」 「あ…!」  乳房の先端を囓られるように吸い付かれた。痛いのに、気持ちいい。セルジュの触れるところから熱が走って、全身が蕩けてしまう。 「してない…あなたの身体しか知らない」 「よかった」  セルジュがとびきり優しい笑みを浮かべた。  同時に身体の中にセルジュが入ってきて、ノラは歓喜の叫びをあげた。 「ああっ」  胸が苦しい。胃の中で何か小さな獣が飛び跳ねて暴れているみたいだ。腹の奥をセルジュが突いて、甘美な衝撃を得る度に頭の中がセルジュでいっぱいになっていく。 「ノラ――俺のノラ」 「うん…」  ノラは激しい律動にしがみ付き、腹の奥から広がる快楽に身体を震わせた。気持ちよくて、セルジュが愛おしくて、どうにかなってしまいそうだ。 「全部あなたのにしてくれ。愛する人のものに…」 「ノラ」  セルジュがノラの膝を抱えて更に奥を突いた。灰色の目が熱っぽく見下ろしてくる。恥ずかしくて堪らないのに、ずっと見ていてほしい。 「俺の名を呼んで」 「んぁっ…!セルジュ」 「もう一度」 「セルジュ…!」  もうだめだ。身体の奥から激しい波が襲ってくる。セルジュの情動が全身を包んで、この世に二人しか存在しない瞬間が来る。  ノラは降りてきたセルジュの口付けに応え、強すぎる衝撃に意識を放り出しながら、セルジュの身体を腕に包んだ。 「愛してる、ノラ。もう俺以外の男は諦めて。一生」 「わかった…コロンベットのおんなに二言はない」  身体の中でセルジュが脈打っている。  溶け合う熱でさえ涙があふれるほど愛おしく、この世の何よりも尊いと思った。 (これが、そういうことなんだな)  芽吹いた恋が、愛を実らせたのだ。  翌日、うっかりセルジュの腕の中で昼頃までうとうとしてしまったノラは、平素大らかなゴーティエ夫人の大目玉を食らうことになった。無論、セルジュも同席している。  ゴーティエ夫人は一通りのお説教を終えた後、二人の若者に茶を出し、いつものように穏やかな顔でにっこりと微笑んだ。 「でも、わたしはノラちゃんがお金なんかよりも心の声を選ぶってわかっていたわ。コロンベット家のおんなはね、愛に忠実なのよ」  ノラは何だか恥ずかしくなって、ちらりと隣のセルジュを見上げた。セルジュは、今までに見たことのないムズムズ顔でこちらを見つめていた。 「……ぶは!」  大伯母さまに叱られた後でこんな風に笑うのは絶対によくないとわかっているのに、腹が痛くなるほど笑ってしまうのを、もはや止める術はなかった。しかしつられてセルジュも笑い出したから、これはもう共犯だ。 「ところで、ノラ」  と、セルジュが王城へ向かう馬車の中で切り出した。万策尽きてようやく呼び出しに応じたカンディード・モリアックの件がこれから議会で揉まれるのだ。 「やはり荘園は取り戻せそうです」 「本当か」  ノラは目を輝かせた。 「フロランが持ちかけてきた取り引きに応じたんです。彼の乱痴気騒ぎとあなたへの暴行未遂について議会に報告しない代わりに、父親の詐欺行為を裏付ける帳簿を渡すと。実際にわたしが見て裏付けとして十分だと判断したので、応じました。ですがあなたが望むなら、あなたの名で議会へ訴え出ることも可能です。あくまでわたしが議会に申し出ないという条件ですから」 「ふおお」  ノラはセルジュを初めて会ったときと同じ、尊敬の眼差しで見上げた。 「さすが知恵がよく回るな。でもまあ、フロラン閣下のことはちょっと置いとこうかな。切り札は手元に残しておいて損はないだろ?」 「王都での戦い方を学んだようですね」 「アベル卿の薫陶を受けたからな」 「セルジュだよ、ノラ」  セルジュの指が唇に触れた。ノラは頬を赤く染めて、愛おしい名を呼び、優しく唇を重ねてきたセルジュの身体を抱き締めた。 「秋になったら、あなたとしたいことがたくさんあるな」 「例えば?」 「木々が色付く山で遠乗りとか、遠くへ旅に出るのもいい」 「じゃあ、今したいことは?」 「…夜に取っておく」  セルジュは笑い声を上げてノラの身体をきつく抱き締め、彼女の放つ春の匂いを吸い込んだ。  今まで嫌いだった生き方も、それほど価値がないと思っていた世界も、ノラと出会った夜に繋がっていたのなら、それだけで愛着が持てる。  あの日おしかけてきたのは、働き蜂を自由へ導く小鳩だったのだ。  そして、二人がコロンベットの荘園に建てた屋敷からしばしば旅に出るようになるのは、そう遠くない未来の話だ。
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