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8. ヒメナ
ガートルードはホール奥の大きな部屋に僕を案内した。そこはベッドや机、テーブルのある奥に無限の書棚のある不思議な部屋だった。書棚は天井にも床にも壁にも幾重にもなって続いていて、中には無数の本が並べられている。その中の一冊を手に取り開いてみたが、先ほどの結界の周りに描かれていたようなカラフルな謎の文字や写真が3D眼鏡で見たときのように浮かび上がってきて、読むことができなかった。
「何て書いてあるか分からないだろう? ここにある本は俺たち時使いが千年近くもの間辿ってきた歴史や物語が記してある。君と僕の物語もいずれここに綴られるかもしれないな」
彼が話をしているとき、黒い猫が壁の空っぽの書棚の奥から現れた。
「お父さん、やっぱり帰ってたの?」
黒猫はたちまち僕と同じくらいの歳の女の子の姿に変わった。黒いパーカーに破れたジーンズというラフな出立ちで、巻き毛で赤毛のショートヘアのさっぱりとした出立ちだった。目は美しい緑色で、パーカーのポケットに手を突っ込んだ彼女はまじまじと僕の顔を見た。
「あんた誰?」
「僕はアンソニー。ガートルードの……その……友達なんだ」
なぜか緊張してしまってしどろもどろで話す僕を穴が開くくらいじっと見たあと、彼女は右手を差し出した。
「私はヒメナ。ガートルードの娘よ、血は繋がってないけどね」
握手をしながら「そうなの?」と訊くとええと相手は頷いた。
「色々あってここに住んでるわ、今は時使いの修行中なんだけどね」
「君は動物になれるの?」
「そうよ。歳をとったり若返ったりは苦手だけれど、動物になるのは得意なの。特に猫が好きだから黒猫に化けてるけど……。来て、私の部屋を見せてあげるわ」
そう彼女は言って、僕の手を引いて本棚の中に消えた。僕も彼女の後を追った。
彼女の部屋は全面ガラス張りでコックピットの内部のようなデザインで、外に宇宙の景色が広がっていた。
「凄い部屋だな!」
僕が興奮して言うと得意げに彼女は微笑んだ。
「でしょう? パパに頼んでやってもらったのよ、パパはこんなことが得意なの」
「君のパパは多才なんだね」
「まあね。それにしても、あなたどうやってパパと出会ったの?」
公園での出会いの顛末や僕の弟のことを聞いた彼女は、神妙な顔をした。
「そうだったの……。大変ね、弟さん」
「そうだね……。何で弟だったのかって思うんだ、病気になったのが彼じゃなかったらよかったのにって」
ヒメナは僕の目を真っ直ぐに見て話を聞いていた。初対面の女の子にこんな話をすることなんて絶対になかったのに、このときの僕は誰かにこのことを打ち明けたくて仕方なかった。
「エヴァンは兄貴思いな奴で、僕や両親に心配をかけないようにってあんまり弱音も吐かない。一番辛いのは彼だって分かってるし僕が泣いていられないって思う。だけど怖いんだ、彼が僕の前から消えてしまうことが。死んだらこれまでみたいに会えなくなる、一緒にゲームをしたり馬鹿話を
することも……」
僕は泣き出していた。エヴァンにいつか素敵なガールフレンドができたとき恋愛相談に乗ってやったりしたい。彼の病気が治り苦しい闘病から解放されたとき、僕が一番側にいてやりたい。だけど、その願いが叶う可能性は何%なんだろう。未来のことについて考えるのが怖かったから、僕はガートルードに公園であんなお願いをしてしまった。今日が続くようにだなんて、独りよがりで愚かなお願いを。そのせいでこんなふうにガートルードと自分の身を危険に晒している。そのことが情けなくて悔しかった。
ヒメナそっと僕を抱きしめた。僕が口に出さなかったことまで理解しているみたいに優しく。女の子に抱きしめられるのなんて初めてで、少しドキドキしたけど彼女の体温はあたたかかった。
「大丈夫よ、アンソニー。時間が解決するとよく言うけど、そんな無責任なこと言えない。中には解決しないこともあるものね。だけど信じることは大事よ、エヴァン君はそんなに弱い子じゃないはずだから」
確かにそうだ。エヴァンは僕が思っているより、彼自身が感じているよりもずっと強いのかもしれない。僕なら到底耐えられないような辛い現実にも逃げずに向き合っている。自分の治療で精一杯だろうに、家族のことも思いやりながらだ。
「私は時間泥棒の子どもなのよ。私の父さんと母さんは愛し合っていたがために、少しでも二人でいる時間が欲しくて、悪いことをしてガートルードの父親に殺されてしまったの。5歳の私だけが取り残されて、一人で泣きながら彷徨っていたところをガートルードに拾われた。私は両親を殺した時使いが憎かった。いつかこの手で仇を打ってやろうと思っていたけれど、彼は優しかったわ。自分の敵の子どもである私を本当の子どものように育ててくれた、子どもに罪はないからって」
ヒメナは微笑んで、「血がつながらない人間同士でも家族になれる。家族の力って大きいわ、あなたが側にいるからエヴァンは闘えるのよ、それを忘れないで」と言った。
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