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10. 最後の仕事
どうやって彼を運んだのかほとんど覚えていなかった。ヒメナと彼と三人でセントラルパークにもう一度戻ってきたときは皆びしょ濡れで息も切れ、身体に力が入らないうえ寒さと壮絶な疲労で気が遠くなりそうだった。
ガートルードは今にも倒れてしまいそうな足取りで、ふらふらと梟の檻の前に立った。
「さて、これが最後の仕事だ。世界には戦争で国を守るために闘う人々や虐めや病気に苦しむ子供達がいる。取り返した時間をそんな人達に分けてやりたい」
ガートルードが金時計を空に翳し呪文を唱えると、時計から大量の虹色の輝きを放つ迸りが溢れ出た。七色の光が夜のセントラルパークを眩く照らし空に吸い込まれたかと思うと、やがて虹色の光の玉があちこちの家の屋根と遠くの空に彗星のように降り注いだ。
僕はしばらくその光景をぼんやりと眺めていた。あまりにも綺麗で幻想的で、夢の中にいるような気持ちだった。
ガートルードは時計を持った手を下ろし、ふうと息を吐いた。
「よし、これで俺の仕事は終わりだ。まだ悪者は何人かいるが皆雑魚で、あの男が俺にとって最後の、最も手強い敵だった。不意打ちをした君は大したもんだよ、俺の家族ですらあいつを倒せなかったのに。君はヒーローだな」
そう言われて僕は久しぶりに誇らしい気持ちになった。思えば両親はここ数年エヴァンにかかりきりだったために、僕が学校の小論文コンクールで賞をとったときも、すごいねと一言褒めただけですぐにエヴァンの手術の話に移行した。当時はエヴァンの腫瘍摘出手術のことで両親はいっぱいいっぱいだったから、仕方ないと思いそれ以上のアピールをしなかった。
僕はかなり手強い敵を倒した、そしてガートルードを助けこの世界に生きる時間を必要とする人たちに貢献した。それだけで十分僕は英雄だ。たとえガードルード以外にそのことを知る人がいなかったとしても。
ガートルードはまた僕の目をまっすぐに見て、哀しそうに笑った。
「分かっていると思うが、俺の肉体はもう長く持たない。思った以上に傷が深くてな。そこで君にお願いがある」と彼は僕の手のナイフを指差した。
「それで俺の胸を一突きしてくれ」
「無理だ、できない。君を殺すだなんて……」
「嫌だ……お父さん、行かないで」
ヒメナは泣きじゃくりながら父親の腕に縋りついた。その様子がとても痛々しくて悲しくて、彼女たち父娘を引き離すことなんて自分にはとねもできないと思った。だがガートルードの意志は固いようだった。
「俺は死にはしない。ただこの肉体を捨てあいつの身体に入るだけだ」
彼は檻の梟を顎でしゃくった。
「見てみろよ、あの梟はもう死にかけているだろう?」
そう言われて檻を覗くと、オーツは金属の床に横たわり虚な目で荒い呼吸をしていた。
「俺はもうずいぶん長い間闘ってきた。身体を若返らせることができても、心はとうの昔に限界になってた。もう時間に縛られるのも闘い続けるのにも疲れた、そろそろ自由になりたい。手強い時間泥棒を退治した今、俺にやるべきことは何もない。だがもし俺の魂があの梟の身体の中に入れば、自由に空を飛び回れる」
ガートルードは僕を見て優しく笑った。
「会えて本当によかった。時間は君たちのような人の為に必要だ。そうそう、言い忘れていたけれど、命を助けてもらったお礼に君の弟に僕の時間を分けておいた。頑張って生きようとしている君の弟の助けに少しでもなればいいんだが」
「ありがとう」
ガートルードは僕の肩をたくましい手のひらでがしっと掴んだ。
「今後君を惑わす人間が現れたとしても負けるな、嘘か真かは自分の心で見極めろ。君なら大丈夫だ」
そのあとガートルードは泣いているヒメナを抱きしめた。
「元気でな、強く生きろ。お前は強い子だ。どこにいても俺はお前を見守っている。空や電線や木の枝の上、ビルの屋上からでも。お前が一人で生きていけるようになるまでずっと」
ガートルードはヒメナに金色の時計を授けた。
「これは俺が生きた証だ、取っておいてくれ」
ヒメナが何度も頷いたのを見て、ガードルードは大空に羽ばたく準備をするみたいに両手を大きく広げた。
「さあアンソニー、やるんだ」
僕はナイフの柄を握りしめた。手が震え涙が溢れ落ちた。彼は死なないと言ったけれど、憎んでいない、むしろ自分を救ってくれた愛着のある人の命を手にかけることは僕にとってとてつもなく辛いことだった。もしこの相手がエヴァンや両親だったらと考えるとどうにかなりそうだった。
ガートルードは僕の恩人であり父であり教師のような存在だった。だけど、だからこそ、ガートルードの肉体が滅びかけている今、彼自身がもう生きていられない、自由になりたいと望んでいる以上、僕はその望みを叶えないといけない。彼のことを今すぐに解放してやらなきゃならない。壮絶で果てしなく長い闘いで疲弊した彼の身体から、数々の人を救い導いてきたその崇高で美しい魂を。
「泣くなよ、またいつか会えるさ」
ガートルードはまた微笑みかけた。僕はヒメナの方を見た。彼女は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で頷いた。父の選択を受け入れたのだと思った。
「ありがとう……ガートルード。君のことを忘れない、絶対」
ガートルードがやれ、と目で訴えてきた。
僕はナイフを彼の胸に埋め込むように刺した。
彼の身体が地面に崩れ落ちた。
美しい橙色と水色に輝く光の玉が彼の心臓から出てきて宙に浮かび、ゆっくりと泳ぐように梟の身体の中に吸い込まれた。やがて羽をパタパタ動かし起き上がった梟は檻の中を飛び回り、止まり木に止まると澄んだ目で僕を見た。
僕はナイフの刃で檻の扉にかかる錠を叩き壊し扉を開いた。
梟は檻の外に飛び出すと僕たちの周りを数回旋回して、2mはゆうに超えるであろう両翼を大きく羽ばたかせながらゆっくりと夜空に飛び立った。
僕たちは公園のベンチにしばらくぼんやりと座っていた。ヒメナはしばらく泣いていたが、「そろそろ帰らないとね」と涙を拭って立ち上がった。
「ずっと泣いてちゃ、お父さんが悲しむから。お父さんは自由になったんだわ。私はお父さんといてすごく幸せだったし本当はもっとそばにいてほしかったけど、それは私の我儘だもの。とっくにお父さんの身体には限界が来てた。それに、ずっと無理してることも分かってたの、早く自由になりたいってことも。だけど私のために今まで頑張ってくれた。これからは私が頑張る番ね」
ヒメナは手に握った金の時計を見つめた。
「私はお父さんと同じ仕事をする。あの黒い男が死んでも、またどこかから新しく悪い奴が出てくるかもしれない。これからもっともっと強くなって、そいつらをやっつけてやるわ」
「君ならなれるよ、すごく気高くて強い時使いに」
「ありがとう、アンソニー」
ヒメナは僕の額に素早くキスをすると、手を振ってどこかに走り去った。
スマートフォンの液晶画面には4月2日(火)と表示されていた。
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