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「やれば出来るじゃない。いつもサボってるの?」
太鼓腹の課長は眼鏡の縁を直しながら、にやにやと私に笑いかけた。褒められてるとは到底思えない。
「そんなことありません。今回がまぐれのようなものです」
「ふうん。いいじゃない。今回はこれで行く」
「よろしくお願いします」
書類が一発で通り、ここ数日のイライラの原因が霧が晴れるように消え去って、私はほっと胸を撫で下ろした。
「あ。ねえねえ、高橋ちゃん」
「はい?」
足早に立ち去ろうとする私を、課長がまた呼び止めた。
「野村くんと何かあったの」
さすがに声を潜めて私に尋ねてきた。また違う苛立ちが沸き起こる。
「…別に、何もないですよ」
「誰と付き合おうと勝手だけど、仕事に差し支えるのは困るよ。急に辞めちゃうなんて、子どもじゃないんだからさあ」
「失礼します」
退職の話は既に受理されている。これ以上聞く必要はないだろうと、一礼して私は自分の席へ戻った。笙の前は俯いたまま通りすぎたから、彼がどんな顔をしていたのかはわからない。
でも、どうでもよかった。
もうすぐ終わることだから。
定時に上がれたおかげで新幹線の時間まで余裕が出来たが、夕食は向こうに着いてからでもいい。久しぶりにカフェのテイクアウトを頼んで、お土産でも覗こうか。そんな些細なことも楽しみになる。
「麗奈さん」
ロッカー室を出てエレベーターに向かっていると、後ろから呼び止められた。誰の声かは振り向かなくてもわかったから、私は仕方なく立ち止まった。
「ちょっと話せる?」
笙が私に追いついた。人好きのする笑顔は、殺風景だった私の毎日をずいぶんと彩ってくれた。
「これから実家に帰るの。だから時間ない」
「お母さん、具合悪いの?」
「ううん。お医者さんと面談」
「そうか。大変だね」
一度は将来も考えたことがある相手だけに、彼の優しさでいろんな記憶が溢れ出すとやりきれなくなった。
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