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『野村さんも趣味悪いよね』
『ああ。女の』
『何でよりによってあんな年増なの』
『でも、野村さんがめっちゃ惚れてそう』
『そう? 女の方が弄んでるって気がするけどなあ。目を覚まして欲しいよ』
洗面所でくすくす笑いながら、不満をぶちまける後輩たち。私を嘲笑う顔が見えるようだ。容姿も仕事ぶりも申し分ない彼は、女性社員の注目の的だった。
何で私って こっちが聞きたいよ
三年前、中途採用で入社してきた笙の教育係を任された。と言っても彼にはそれなりのキャリアがあり、私はただ単にこの会社のルールを伝えるだけの役割に過ぎなかった。それでも素直に私の話を聞いて、質問をする彼の姿には好感が持てた。
ひと月ほどして会社での身のこなし方を覚えると、彼がお礼にと夕食に誘ってくれた。大袈裟だなと思ったけど、そんな時間もたまにはいいかと軽い気持ちでOKした。
『僕、麗奈さんが好きです』
食事が済んで駅での別れ際、彼が突然言い出した。
『え…』
『付き合ってもらえませんか。将来のことも含めて考えて欲しいんです』
私は慌てて自分の年齢を伝えたが、彼はとっくに知っていた。固辞する私を宥めるように、彼は私の長所を挙げ始めた。
『控えめでしっかり者かと思えば、純粋で笑顔が可愛くて。歳なんて関係なかった』
あの時は違う意味で穴に入りたくなった。
『僕は三男坊なので何のしがらみもないんです。世間的に言われることは何も気にしなくていいから、ずっと一緒にいてください』
毎日のように甘言を囁かれ、私はついに彼の手を取った。どちらにしてもこれが最後の恋になる。恋愛から遠ざかって数年たつ私に、笙はとても甘かった。年上の男性と付き合ったこともあるが、ここまで包み込まれるような扱いは初めてだった。年甲斐もなく彼に夢中になるのに、時間はかからなかった。
夢なら覚めないで
何度もそう思った。そして、目覚めは思わぬ方向からやってきた。
笙が野村商事の御曹司だと知ったのは、今年の初めだった。歯医者の待合室でめくっていたビジネス雑誌に、彼の写真が載っていたのだ。私がもう少し若くて結婚に前向きだったら「玉の輿だ」と有頂天になっただろう。でも、愕然とする私にそんなシンデレラストーリーは陳腐な夢物語でしかなかった。
何より、彼がなぜ自分の家のことを打ち明けなかったのかがわからない。悪意は感じられなかったが、どこか騙されたように思えたのも確かだった。
『何か、引かれそうでさ。僕自身を見て欲しかったんだよ』
言い当てられてさすがに口ごもった。
その気持ちもわからなくはないが、私は老いてゆく母をこれから抱えなければいけないし、実家へ引越す予定もある。
どう考えてもそれに彼を巻き込むのは違うと思った。
夢は終わったのだ。
私は彼に別れを告げた。
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