長女の帰郷

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 チケットの番号と照らし合わせて、私は自分の席についた。二人掛けの窓際だった。隣に誰も来ないと助かるなと思いながら、まだ温かい紙カップをテーブルに置いた。 どうしてもとせがまれて、一度だけ笙を母に会わせたことがある。母は彼を覚えているだろうか。都合の悪いことは全部忘れていて欲しかった。 車窓の宵闇に街の灯りが流れていく。  父が忙しかったせいか、母は厳しい人だった。 教育や躾に熱心で、手探りで進む長女としてはその指示に戸惑い、叱られるたびに母の顔色を窺っていた。おどおどした私が気に入らないのか、母の口調もまたきつくなる。 妹は私と母のやり取りから要領よく学んで、自分の立ち位置を見出だした。母も水を向ければすぐさま反応する妹の方を可愛がっていた。 妹に介護される方が、母も幸せなんじゃないだろうか。そんな想いも込み上げてくる。 進学でさほど困ることもなく、大人になって振る舞いを褒められることで、母の躾の有り難みを実感したが、一方で子供時代の想い出は苦いままだった。 『あんな若い人と付き合って大丈夫なの』 『大丈夫って何が』 『騙されてるんじゃないの?』 『そんな人じゃないわよ。勝手に決めないで』 『ただでさえ人と違ってるんだから、気をつけないと』 だから 何に 言葉に出来ない苛立ちは、私の中で燻る。 いわゆる団塊の世代であるせいか、母は周りと違うことをするのを好まなかった。皆がこうしてるから、皆はこう言ってるから。それが彼女の決定基準だった。 私は親にも学校にも特に反発心を抱いたことはなかったけれど、さすがに高校時代は自分の希望が母と一致しないために、よく喧嘩になった。大学進学で上京して実家を後にした時に、どこかせいせいしたと思ったのを今でも覚えている。 思えば、手放しで褒めてもらった記憶はなかった。幼少期のアルバムには撮った側の愛情は感じられるものの、覚えているのはいつもどこか否定されたエピソードばかり。 母に悪気はないのかもしれない。 私が繊細すぎたのかもしれない。 だけど、どうしても子育ての見えない部分のしわ寄せが、全部自分に向かってきてるように思えた。 そんな母の介護に、私は積極的になれずにいた。母に優しく出来る自信もなかったし、ともすれば『虐待』と言う二文字が脳裏を掠めたりもする。何かひとつ(ボタン)をかけ違えたら、私たちの関係はニュースになりかねない。そんなことすら考えた。 旅路の間、私の脳内では憂鬱なことばかりがぐるぐると駆け巡っていた。
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