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有休を消化することもあり、四月の半ばで会社を辞めた。笙はあれからも何度か声をかけてくれたけど、私が最後に「幸せになってよ」と告げると寂しそうに笑っていた。
そして、今日は引越しの日だ。
チャイムが鳴った。
「はーい」
昨日から手伝いに来た妹が玄関に向かった。
業者が来たらしい。取りあえず搬入して貰って、荷解きはゆっくりすればいい。
母は相変わらずの状況だ。
だけど、妹のおかげで対処法が見つかった。
『構ってちゃんなのよ。話がしたくて仕方ないんだから、ここぞと言う時だけ同意しとけばいいの』
私みたいに全部真面目に聞いてたら、自分が参っちゃうと笑われた。
「お姉ちゃん。荷物もだけど、お客さんも来てる」
妹が戻ってきた。
「ほら、田中さんの後にお家建ててたでしょ。昨日越してきたみたい」
「ああ、斜かいの」
「それがさ、すっごいイケメンなの」
「あ、そう」
あんな素敵なところに住むなんて、どうせ家族持ちに決まってる。期待するだけ無駄だ。
ドアを開けてよそ行きの声を出そうとした私の前に、笙が立っていた。
「おはよ。麗奈さん」
「…何で」
「忘れ物、届けにきた」
呆然とする私をふわっと彼の腕が包み込む。
「置いていくなよ。僕を幸せにするのは君なんだから。この薄情者」
絞り出すように私を責める彼の声は、心なしか震えていた。
「嫌われたかと思ったんだ」
「そんなこと…」
笙がこんな弱気になるなんて初めてだ。
「君と一緒にいたいから、全部その前提で考えたのに。だから、もう君がいないと生きていけない」
ずるいのは どっちかな
「あの家どう? 言っとくけど親には頼ってないからね。そういうの嫌でしょ」
「でも、仕事はどうするの」
「引く手あまたですから、ご心配なく」
何これ
自分の人生じゃ あり得ないんだけど
「念願のお茶が出来るんだよ。早く片付けてコーヒー飲もうよ」
笙が腕まくりをして笑顔になった。私も素直に笑みを返した。
「うん、ありがとう。力仕事は任せた」
「えー! なになに、どういうこと。お姉ちゃんの彼氏なの?」
「うるさいな。後にしてよ」
「野村です。よろしくお願いしまーす」
人生半ば。
手に入らないものはたくさんあるし、未だに人間も出来ていない。
でも、私はまだ健康でいられる。
厳しかった母は可愛い子どもだと思えばいい。自分を選んでくれた愛しい人もそばにいる。
自分の持っているものを並べてみたら、案外悪くない。いや、結構いいかもしれない。そう思ったら単純なもので久しぶりに心が晴れた。
門出にふさわしい青空に急かされて、私も袖をまくった。
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