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(5)
「近くまで来たのに寄ってくれないなんてつれないじゃない」
「ああ、大蜘蛛の。どうも」
「どうもじゃないわよ。例のドレスの話なんだけれど。爽やかに無茶を言ってくるのやめてくれない?」
「おや、加工できないと?」
「できるに決まってんでしょうが!」
婀娜っぽい女性に声をかけられた煕通が、珍しく愛想よく対応していた。そのやり取りを見て、紫苑はさっと顔を青ざめさせる。
(煕通さまにお似合いの美しい方。あの距離感は、お客さまではない。もしかして……)
じゃれ合うようなふたりの姿を見ていられなくて、紫苑は煕通に早口で話しかけた。
「煕通さま、お邪魔になりますし自分は先に戻ります」
「紫苑、ひとりでうろうろしては危ないだろう。もう少し、待っていなさい」
「ですが、石の使い道も考えたいので」
「だが」
「それにちょっとお腹も痛い気がしますので! すみません!」
「紫苑! はあ、言うことを聞かない子だね。危ないから、大通りをまっすぐ帰りなさい。何かあったら、わたしの名前を呼ぶように。すぐに駆け付けるからね」
(まさか、煕通さまの結婚相手の嫁入り道具作りに携わることになるなんて……)
紫苑は痛む胸をそっと押さえる。煕通に抱いている気持ちは拾ってもらった恩義だと思っていたけれど、ようやっと確信した。自分は煕通に恋をしている。自分ごときが、好きになってよいひとではないのに。
(石の歌を聞いて、お役に立てるだけで幸せだったはずなのに)
羽織紐の先につけられた烏玉(ぬばたま)をいじくりまわしつつ、ため息を吐いたその時だった。
「おい、こんなところにいたのか!」
あまりにも乱暴で、けれど聞きなれた怒鳴り声。前を向けば、昔よりも少しやつれた父が紫苑を見下ろしていた。
「まったく、探したぞ。手間をかけさせやがって」
「何の話をしていらっしゃるのか」
「お前が大通りの宝飾店で働いていることはわかっているんだ。ふん、伝手を作るとはやるじゃないか。あの店は評判がいい。石の価値がいまいちでも、あの名前があれば飛ぶように売れるだろう」
(このひとは何も変わっていない。石の掘り方についても散々話をしてきた。いつか掘り尽くしてしまう時のために、新たな産業を生み出さなければならないことも伝えてきた。けれど、ひとの話も聞かないまま好き放題で、立ち行かなくなるのは当然)
「弟……期待の息子殿はどうなさいました」
「末っ子長男というのはやはり駄目だな。甘やかされて、まったく役に立たん。鉱山はもう駄目だから、土地を浄化し、新たに産業を作るにはどうしたらよいか他所で学んでくるのだとさ。さあ、もう一度お前を後継ぎにしてやろう」
(あの家のいびつさは私が逃げたことで均衡を保てなくなったのでしょうね。でも、弟はまともに育ってくれた。それだけで十分です)
家を出るまでの間、大切なことを弟に言い聞かせてきた。その種がしっかりと芽吹いたことにほっと胸を撫でおろす。
「お断りします。自分は、そちらのご家庭とは一切関係がありませんので」
「ふん、連れ帰ってしまえばこちらのものだ。さあ、来い!」
「やめて、放してください!」
こんなときに限って警察はいない。手を振りほどくことも叶わず、引きずられそうになったそのとき。上空から黒い集団が勢いよく飛び込んできた。烏だ。いきなり現れた烏の大群が、明確な敵意を持って紫苑の父親を攻撃している。
「ぐっ、何だこいつらは。ええいやめろ、つつくな!」
細かい事情はわからぬまま紫苑はこの隙に工房の中に駆け込んだ。工房に入ると、煕通の匂いに包まれたような気がする。ここにいれば大丈夫なのだとなぜかそう思えた。
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