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(6)
その日、夕方になっても煕通は帰ってこなかった。あの婀娜っぽい女性と盛り上がっているのだろうか。紫苑のしょんぼりとした雰囲気が伝わるのか、お昼頃まで大合唱していた石たちも今はすっかり静かなものだ。
(おそらく実家の財政は破綻寸前……。やはり、煕通さまにお伝えするべきでしょうか。ですが女であることを告げれば、もう煕通さまのおそばで働くことはできなくなるかもしれない……)
そんなことを考えながら、ぼんやり原石を眺める。まったく仕上がっていない下書きを机に戻したところで表が騒がしいことに気が付いた。
「何を言っているのやら話にならない」
「だから、うちの息子を返せと言っている。後継ぎをさらったあげく、下男扱いとはとんでもない話じゃないか。そこにいるのはわかっているんだ! 出てこい!」
紫苑の父はどこかで安酒をひっかけたのか、酷く酔っぱらっていた。せっかく築き上げた自分の場所を、また父親がめちゃくちゃにしていく。例の女性のこともあり、紫苑はすっかり心が折れてしまった。
(これ以上、煕通さまに迷惑はかけられません……)
「……いい加減にしてください」
「ほら、いるじゃないか。手間をかけさせて。ほら、紫苑帰るぞ!」
だがそこで、煕通が割り込んだ。紫苑をその背にかばうようにして彼女の父を睨みつける。
「もう一度確認しようか。あなた方が探しているのは、紫苑という後継ぎの息子で間違いないね?」
「だから、そうだと何度も言っている」
「ならば、やはり人違いだ。彼女は、わたしの可愛い婚約者だ。紫苑という男などここにはいない。どうぞお引き取りを」
「きゃっ」
いきなり抱きしめられて、紫苑は目を白黒させる。煕通が何を言っているのか、紫苑にはよく理解できない。
(女だと、知られていた? それに今、煕通さまの背中に黒い翼が見えたような)
「彼女が可愛らしい女性だと、一目でわからないほうがどうかしている。ちなみに彼女にわたしの着物を着せていたのは、男避けも兼ねてのこと。烏は独占欲が強いのでね」
「何を言っている?」
「あの日、綺羅星のような彼女を見つけたんだ。誰にも取られたくなくて、すぐさま大事に抱え込んだよ。日々を懸命に生きる彼女は美しく愛おしい。それなのに。彼女の父だからと情けをかけたのが間違いだった。さきほど彼女を痛めつけたその汚い手は、不要だね?」
「ぐあああああ」
紫苑の父の右腕がどす黒く染まりみるみる朽ちていく。そのまま道端に倒れ込んで悶絶する姿を見て、紫苑は慌てて煕通を止めた。
「煕通さま、いけません!」
「どうして? 紫苑はこんな父親でも、やっぱり大事なのかな?」
「違います。店や工房にいる石たちに、こんな下衆の声を聞かせたくないんです。彼らの歌声が汚れてしまいます」
「なるほど。紫苑は綺麗なものが好きだからね」
父親の悲鳴が止まる。どうやら気絶してしまったらしい。
「紫苑に免じて、命だけは助けてあげよう。約束を違えぬように、呪いをかけているから心配はいらないよ」
紫苑はそのまま煕通に抱きかかえられ、煕通の私室へと連れられた。
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