春水にとける

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 元々は、西洋風に誂えた別荘で、内装は趣のある、意匠に富んだ建物である。  家主が増築と改築を重ねて、今ではその風情もほとんどみあたらない。  壊れた鍵穴は、王水角が入居する前からそのままらしい。  開け放たれた窓から冷たい雨が吹き込んでいる。  大切な資料が、飛び散った雨粒に湿っていた。インクがぼんやりとにじみ出しているのをみて、  いけない――!  叫ぶより先に窓に飛びついていた。  そのとき、 「……くそ」  と、大きな身体が、窓枠にしがみつき、重い身体が勢いよく持ち上がる。  男は、震え上がる王水角を前に、部屋の中に降り立った。  黒いチェスターコートに身を包み、渦を巻くような黒い髪に、雨滴をしたたらせていた。  不吉な目をした男が、全身濡れそぼった姿で、王水角の目の前に立っていた。  王水角は、ヒッ、と口にしたきり、動けなかった。それでもようやく、警察に、と、電話を取ろうと思い出す。 「歌声は、三度の飯より、好みらしいな?」  なにやら、俗っぽい口調。  男の伸ばす手の先に、電話がある。  それを、彼は投げ落とし、小汚い王水角の部屋に一瞥をむけた。 「だ、だ、……だれなんだ」  王水角の唇は震えていた。唇だけでなく、全身が大きく、ぶるぶると小刻みに震えていた。逃げ出したいと思っていたが、彼の足は動かなかった。 「誰って……」  男は寄りかかったテーブルから一枚の記事を摘まみ上げる。 「白……、金……、商……」  文字を伝う指先に、王水角は答えていた。 「白金商……」  続けて、王水角はまさかと、彼を見つめる。  濡れた、黒い瞳が、王水角を見つめ返している。  港町を撫でる歌声の主が、目の前に。 「誰も、正体が掴めなかった、あの、白金商……?」 「記事にでもするか? くだらん五流以下のハイエナ記者王水角」  睨み付けるその眼差しに、王水角の胸は跳ね上がる。まさか、彼の口から名前を呼ばれるとは、思いも寄らないことだった。
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