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マグロ
我々は大海原に飛び出した。この果てしない海を自由に行き交うのは、我々を含めほんの数種の生物に過ぎない。まだ、1ミリにも満たない卵だが、2年もすれば体長は1メートルを超える。そうなのだ、我々は海の支配者と言ってもいい。
海流に揺られ、卵の塊が四方八方に散ってゆく。この海洋で我々ほど自由なものはいない。どの海域でも、どの深度でも、我々は生きてゆける。まだ、生まれる前の我々だが、一塊になって海水に漂っていた。
我々の塊は同じ日に孵化し、集団を形成した。今は体長およそ3ミリであるが、いずれ大海を支配する大型魚になるのだ。我々より早く孵化していた集団は、すでに黒潮ハイウェイに乗っていて、かなり北上していったらしい。我々より後に孵化した集団は、まだ沖合いの緩やかな波にあやされている。
我々の集団は、あたたかな海水に持ち上げられた。海中をどんどん上昇していく海流に乗り、太陽光が差し込む浅い海にたどり着いた。今はまだ小さい我々は、このような海域のほうが安全である。複雑に入り組んだ海底や、サンゴ礁が、捕食者から守ってくれるのだ。ただ、タコやウツボなど、肉食生物には気をつけねばならない。我々は、スイスイと碧く透明な海水を泳ぎ回った。
孵化してから4週間が経ち、5センチほどに成長した。しかし、我々の仲間の中から、泳がなくなるものが出はじめた。ユラユラと岩に近づいていき、そこに停止して動かなくなるのである。動かないからといって、死んでいるわけではないのだ。もちろん、意思疎通もできる。
「どうしたんだ?なぜ、泳がないんだ?!」
「泳ぐ必要を感じなくなったのさ」
あっさりというヤツがいた。我々は、一生泳いでいなければ生きてはいけない種族である。なのに、泳がなくていいなんて、正気の沙汰とは思えなかった。
「なぜ、泳ぐのをやめたんだ?!」
「もう、ここで生きていけるって思ったからさ」
恐ろしいことをいうヤツもいた。ここで生きていけるなんて、泳げる空間も限られているのに体長3メートルの大人になったら、岩礁から出られなくなってしまうではないか!
「マグロのアイデンティティを失ったのか?!」
「いや、もうマグロじゃないし」
どうかしている!マグロじゃないとは、どういうわけだ。
「キミも、そろそろ気づくはずだよ」
近くにいたテーブルサンゴが口をはさんできた。
「なんだと!?」
「キミたちの卵塊は4月1日に孵化した。この日に孵化した者は、本来の性質とは正反対のモノになるんだ。つまり、一生泳いで生活するマグロは、動かずに生活する生命体に成長する」
「そんなバカな!!!」
「そんなバカなことが起こるのが4月1日というわけさ」
テーブルサンゴは愉快そうに笑っていた。
「実はな、私も4月1日に生まれたホオジロザメだった」
「まさか!?」
「そうさ、おかしいだろ?でも、私はサンゴになってよかったと思っているよ。サメだったら一生を全うしてもせいぜい70年ってところだが、サンゴだから条件さえよければ1000年だって生きられる」
それには、返す言葉もなかった。我々も長生きして20年余りというところだ。7~8年生きれば、ほとんどが人間に捕獲されてしまうのだ。そんなことを考えていたら、なんだか体が重くなっていくのを感じた。
「我々は大海の王者マグロのはず…」
「いや、もうそれは忘れるんだな。キミの体は停止することを望んでいる」
心の強さでは体を制御することができなくなった。テーブルサンゴの足元で停止せざるを得なかった。
「これから、よろしくな、若造!」
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