真緑の鉄塔

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沙夜子が自身の幸福を客観的に認識していると、百合奈がぐずり始めた。 「あ、ごめんなさい」 沙夜子はソファに浅く腰掛け、上着をたくし上げ、乳房を百合奈の口元に近づける。百合奈は母の乳首に強く吸い付いた。 間もなく一歳になろうとする百合奈は母からの栄養を貪欲に摂取する。百合奈の喉がこくっこくっと小さく動いた。 沙夜子は娘の背中を温かく撫でる。しかし百合奈に乳を与える際、沙夜子の瞼にはいつも別の人物が浮かぶ。 お姉ちゃん、お姉ちゃん、沙夜お姉ちゃん。 翔太、翔太、翔太、沙夜子は幾分夢を見ているような表情で呟いた。 あなたが私の心に現れる、翔太、翔太、とてもかわいい男の子、翔太、とても瑞々しい体をした男の子、翔太、私と会えば、途端にとてもあどけない顔をした男の子。 百合奈があなたと重なるわけじゃない、百合奈が生まれてから、娘に乳を含ませるようになってから、あなたが私に笑顔で手を伸ばす姿が見える。それは私を嬉しくさせる、なぜならあなたは私が本気で好きになったただ一人の・・・ あなたも私を愛していた? それは疑うまでもなくそうなのよね、だからあなたは私を求めて・・・ 沙夜子は目を閉じて翔太の全身を脳裏に映す。 沙夜子は中学二年の時に翔太と出会った。 関東地方のとある県、低く長い山並みが穏やかな形で街の背になっている地域。とある小説家が、この街の山林と家々の合わさった姿は絵画のように見事なもので、それは日本の原風景を思わせると語った場所。 そんな街で沙夜子は育った。 中学二年、その頃から既に沙夜子の可憐な容姿は学校で噂となっていた。沙夜子が廊下を歩けばすれ違う男子生徒は皆反応した。表向きは無関心な男子でも沙夜子を視界の隅に収めているのが彼女にははっきりと分かった。放課後の教室では、二人の若い男性教諭が、あの子は確かに美人だけどさ、何か怖いような色気もあるよな、言いたいことは分かるね、それは俺も感じてるなどと話しているのが耳に入ったこともある。 沙夜子自身は、己の容姿に奢ることはなく、持って生まれた光る顔立ちを効果的に利用して日々を送っていた。基本は男子とは如才なく、女子とも柔和に接し、決して自分だけ前に出ることはせず常に一歩引いた謙虚さと、時には多少の荒さと自分の存在感に似つかわしくないくだけた態度で会話し、それが周囲に親近感を生じさせ、クラスの中で沙夜子が浮くことはなかった。 そんな沙夜子の振る舞いは計算というわけでもなく、女の活発さと奥ゆかしさに快感を得ていた彼女にとって自分の理想的な立ち位置を自然な形で確保するのは容易なことだった。沙夜子の可憐で芯のある姿は彼女の内面から生じるものだと誰もが思った。 沙夜子の母は、彼女に向かって、あなたは実に有利なものを神様から頂いたのねと皮肉交じりに呟いたことがある。その時、沙夜子は母に対してこの女と思ったが、それはお母さんとお父さんのおかげよと強調して言った。 ある日、下校中に自宅近くの沼の岸辺で四人の子供達が言い争っているのが見えた。一人の胸を二人が叩いて、一人が止めようとしている。全員男の子だった。男の子は突き飛ばされて地面に転がる。その声が激しく大きかったものだから、沙夜子は自転車を降りて彼らに駆け寄った。 「何やってるの、やめなさい」 沙夜子は鋭く怒声を発して睨みつける。すぐに三人が反応し、沙夜子の剣幕にたじろいだ。一人が慌てて倒れた男の子を引き上げる。男の子は服を汚して泣き始めた。 「ケンカなら一対一で堂々とやれば、三人で一人をいじめるなんてね」 「違うよ、こいつ、ウソついてんだ」 男の子が反論する。 「ウソ?」 「そうだよ、こいつ、俺達からゲーム借りてさ、次は俺のも貸すからって言って、全然持ってこないんだ。俺達三つも貸したのに」 「本当はないんだよ、いつもあるあるって俺達を騙してるんだ」 二人の男の子は躍起になる。一人は俺は暴力は振るってないよと言いたいのか、落ち着きなく視線を動かした。 あーそう、ゲームね、子供の諍いなんてもうめんどくさい、沙夜子はそう思ったがとりあえず三人を宥めることにした。 「あなた達に理由があるのは分かった、でも今日はこれで帰りなさい。私がその子に言い聞かせるから、それでいい?」 彼らは不満そうにしながらも泣いている男の子を垣間見て、何も言わず大人しく帰路に着いた。
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