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男の子は俯いたまま顔を上げない。彼が着用しているアニメキャラが印刷されたTシャツは色あせてよれよれになっていて、黒の短パンも似た感じだ。たった今服が泥で汚れたのがその様相に拍車をかけていた。
沙夜子はため息をつく。
これは貧乏な家庭の子かな。
「ねえ、あなた、公園までついて来て」
沙夜子は自転車を押して、沼の隣の小さな公園に行く。男の子は戸惑いつつも彼女に従った。
沙夜子は部活用のバッグからタオルを取り出して水で濡らし、男の子をベンチに座らせ、彼の顔を拭こうとした。本音はあまり触りたくもなかったが。
しかし、こんなことやれば近所にいじめを止めたしっかり者のお姉さんなんて評判が立つかもね。
「ほら、顔を上げて」
表向きは優しくタオルを男の子の顔に当てる。男の子は体を強張らせつつも顔を正面に向けた。沙夜子はタオルを密着させて少し強めに動かす。
「はい、お利口さん」
沙夜子がタオルを取り、男の子は沙夜子を見た。その瞬間、沙夜子は言葉が詰まった。男の子の顔、それは白皙(はくせき)としかいいようのない肌に、目鼻口も一流の彫刻士によって施されたが如く実に秀麗なものであった。特に両目は眉毛と共にすらっとし、しかも清流の透明さを思わせ、泣いたせいもあって潤んでいて、それが一層その印象を高めた。
沙夜子は気後れする。男の子の方も高価な人形を錯覚させる、繊細な絵筆の妙によって描かれたような沙夜子の柔らかでしっとりとした顔貌にじっと視線を止めた。
「あ、あなた、名前は」
「篠田、篠田翔太」
「学年は?」
「三年だよ」
「翔太君ね、聞くまでもないけど、さっきのことは事実か」
翔太は沙夜子から目を逸らして答えない。
「いいのよ、明日ね、出来ればあの三人に謝りなさい。原因ははっきりしてるんだからそれで仲直りできるでしょ」
「嫌だよ、みんな持ってるのに何で自分だけないの」
「持ってる?ゲームのこと」
翔太は頷いた。
「お母さん絶対買ってくれない、うちにはそんなお金ないのって」
「ふーん、お父さんは」
「いない、俺、いつもお母さんと二人で引っ越しばかりしてるの」
なるほど、それだけの会話で翔太の置かれている状況が沙夜子には明確に分かった。貧しい母子家庭、そして頻繁に転校か、これはゲームなんか関係なくいじめにあいやすい子供ね。
「ゲーム機ってどんなの」
翔太はぼそぼそと答える。あ、何だ、私それ持ってるじゃない、ソフトも結構あったっけ。
「いいわ、明日夕方にこの公園に来れる?」
「え、どうして」
「それは明日のお楽しみ」
「あの、お姉ちゃんの名前は」
「沙夜子、高峰沙夜子」
「さよこ、お姉ちゃん、ありがとう」
翔太ははにかんで礼を言ってアパートへと帰った。沙夜子も自転車に乗って自宅へと走らせる。その間、沙夜子は生まれて初めての体験に動揺していた。幼い頃に自身の優美な外見をそのままに知ってから一度も味わったことのない感情、他者が己をどう見るかではなく、自分が先に相手の容姿に心を釘づけにされてしまった。
篠田翔太、か。
沙夜子は風に吹かれつつ、ペダルをこぐ足に無意識に力が入った。
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