4人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
沙夜子は翔太に自分の服を着せた。シャツは彼には大きすぎ、短パンは紐をぎゅーっと絞めて何とか着用した。
沙夜姉ちゃんの服、ぶかぶかだね、翔太は無邪気に両腕を振って飛んだ。
沙夜子は翔太にクリームのたっぷり入ったドーナツをあげる。沙夜ねえちゃん、いつもこんな甘くておいしい物を食べてるんだと翔太は喜び、いいなーと彼女を羨ましがる。これくらい、あなたがここに来ればいつでも味わえるのよと沙夜子は言った。
ゲームをしながらの二人の楽しい時はあっというまに過ぎていく。沙夜子は壁時計を見て、時間を止めたいという思いに駆られた。
外に干していた翔太の服は夏の陽光に晒され、水分は完全に蒸発している。翔太はそれに着替えて気持ちいいと体を揺らし、沙夜姉ちゃん、今日もありがとうと言った。
帰り際、沙夜子は翔太の唇に自身の唇を重ねた。翔太は何も言わず不器用に沙夜子のキスに応じる。彼の鼻息が沙夜子の頬に触れた。
それからも二人の週末の密やかなデートは続く。沙夜子は金曜になると心が躍ったが、幼い少年に女の愛を抱いているという後ろめたさもあって、なるだけ翔太を回りから隠しつつ密事の時を過ごす。しかし翔太にとってはそうではないわけで、彼は愛情豊かな母親と姉と親友を同時に手に入れたように、うきうきと、あっけらかんと振る舞った。その態度に沙夜子は時折翔太をぎゅっと抱きしめて、私のこと好きと彼に問う。翔太は勿論大好きだよと答えた。
真夏になり、クーラーの効いた部屋で、沙夜子はゲームをするだけでなく翔太に勉強も教え、漢字の書き取りや簡単な計算をやらせた。彼女の予想通り、翔太はそれらが苦手だったが、彼は沙夜子の期待に応えようと懸命に鉛筆を走らせる。その気配には沙夜子の愛を失いたくないという彼の思いがありありと表れていた。その甲斐もあって翔太は読み書きも算数も上達する。
やっぱり私が教えるから頑張ってるのかな、沙夜子は翔太を一層愛おしく感じた。
二人の待ち合わせ場所である公園と沙夜子の家の間にある山道、そこを歩くと木々の中に高い鉄塔があるのが見える。それは古びていて、四方をツタがやんわりと絡んでいた。下方には四車線の道路がある。
「沙夜姉ちゃん、あれ何」
翔太は鉄塔を指さす。
「あ、あれはね」
沙夜子はそれを見て祖父を思い出す。
「ここら辺の山林はお祖父ちゃんのものだったの、あの人は山だけでなくあちこちに土地を持ってて大きな地主でもあったんだけど、それを私たち家族が相続してね」
「お祖父ちゃんはこの山を持ってたの」
翔太は周囲を見回して驚く。彼は幼いなりに金持ちの立ち位置をはっきりと感じたようであった。
山道にある木のベンチに沙夜子は腰掛ける。たたっと走って隣に翔太も座った。
「山だけじゃそんなにお金にもならないよ。それはいいとしてバブル経済って知ってる?」
「ううん、知らない」
「当たり前よね、今から二十年以上前かな、その頃の日本はお金がいっぱい庶民の間を駆け巡っていたらしくてさ。日本中が浮かれていて、それで各地も観光で人が大勢押し寄せていたって」
ゴルフ場やら遊園地やら建設しまくって、沙夜子が言うと、翔太は熱心に耳を傾ける。
「公園の向こう側に、坂を下ると四車線の広い道があるじゃない。それもその時期に作ったもので、他県から観光客を呼び込むために。それで道を通る人に向けて市の魅力を発信するのに、あの鉄塔にでっかい看板を付けていたのよ。ようこそ、歓迎します、ゆっくりしてくださいって」
翔太は納得して鉄塔を見上げた。
「今は看板ないの?」
「それがね、お金が国中にどっさりあった時はあっけなく終わっちゃって。日本も段々貧乏になってさ、しばらくしてから市の人も看板を下ろしたのよ、土地の使用料がかかるからって」
沙夜子の話は全て祖父から教えられたもので、祖父は鉄塔が立った時、土地の賃貸料は年間八万だそうだと笑って言った。看板を下ろした際には、これどうします、撤去しますかと市役者の者に聞かれたが、ろくに整備も掃除もせずに錆びついていた鉄塔に、祖父はもうこのままでいいよ、面倒だと返事した。
チンケなもんだが、こいつは正に全国にあるバブルの残骸の一つだな、祖父の言葉を沙夜子は明確に覚えている。
「そのバブルは何で終わっちゃったの」
お金はいっぱいあったんでしょ、翔太が聞く。
「バブルはアブクという意味で、要はアブクは、そうシャボン玉と同じよ。シャボン玉はすぐに割れてなくなるから、そんなものだったんじゃないの、お金がシャボン玉で、ぱんぱん弾けて消えちゃった」
翔太はその場面を沙夜子の言葉通りに想像して、そんなの勿体ないねと真顔で言った。
最初のコメントを投稿しよう!