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ピーチティーに、溶ける。
「ほい、幸運ピーチティー」
無意識に机の一点を見つめていた私の視界に現れた、甘い匂いがこぼれるガラスのカップ。
「……ばあちゃん。いいかげん、その名前で出すのやめたら?」
「なんでだい。名前の通りのものなんだから」
「こんな嘘くさい名前だから、売れないんだよ」
「何回言っても分からない子だねえ。いいかい、桃は昔から中国で神聖な食べ物とされていて、あの孫悟空は……」
「それもう何百回も聞いたよ。私が言いたいのはそういうことじゃなくて、」
やめた。不満を述べるころには、もうばあちゃんはキッチンに引っ込んでいる。
風が吹いた。
ここは私のばあちゃんのカフェ、「開運パフェ」のテラス席。雰囲気もいいし、テラスには植物もたくさんあって、隠れ家的で。密かに人気があってもおかしくない。だが、人気はない。どれもこれも、「開運パフェ」とか「幸運ピーチティー」とか、うさんくさい名前のせいだ。
まあ、そのおかげで、今は私の隠れ家になっているんだけど。
コト、とカップを持ち上げて、ピーチティーを太陽にかざす。カップの液体は日光を乱反射して、私の瞳に眩しさを与える。綺麗な薄い赤茶色。透明。
口に運ぶと、まず強い桃の香りが鼻に抜ける。次にティーバッグをひたしすぎた紅茶のような苦み。そして最後に、ばあちゃんの手でこれでもかとつぶされた桃の果肉の繊維がのどにまとわりつく。
甘い。苦い。少し、苦しい。そして、濃い。
日に透かせばこんなに透きとおって、きらきらとして綺麗なのに、すごく、濃い。それがばあちゃんのピーチティー。
そう。これはまるで……………
「濁り」
「……え」
先輩は、私の絵の前に立っていた。
「この絵はお前が描いたのか?」
「……はい」
「濁りが見える。まるで嫌なことを全部ここに抽出しているようだ。濃い濁りだ。不快だ」
ねえ聞いた?人の絵を不快だって。
自分はたいして上手くもないのに。
負け惜しみじゃないの。
あんな見た目で何言ってるのかしら。
かの有名画家の娘に何を言うのかしら。
私の背中に、ひそひそ声の矢が刺さっていく。でも、そんなことはどうでもいい。先輩の言う通りだったからだ。濁りも、不快な濃さも。
「僕はお前の絵が嫌いだ」
「……ありがとうございます」
あの日初めて、私は自分の絵への、正直な感想を受け取った。
先輩の絵は透明だ。彼は透明なものを描く。
水。空気。シャボン玉。ガラス。窓。彼の絵は極端に色数が少なかった。でも美しかった。私は先輩の絵が好きだった。何回も何回も塗り重ねられた透明。深い透明。色数では表せない濃さがそこにはあった。そう、先輩はばあちゃんのピーチティーに似ている。
私は木を描くのが好きだ。よく、街路樹を描く。今日も、街路樹を描いている。
木の、町のすべてを見ている濃い生き方が好きだ。何でもないような顔をして立っている。でも、全てを見ている。透明なようで、濃い。
でも、私はその透明を出せない。
いつからか絵は、好きなものではなくて、嫌いなことを発散する手段になってしまった。美しくない。汚い。知っていた。先輩がそれを見抜いた。
キャンパスのなかの汚い木を見つめたまま手探りで消しゴムを取って、全部消した。
わたしには、できない。
「相変わらず濁ってんな」
思わず、わっと声が出た。後ろには先輩がいた。
「なんですか?」
「態度悪りぃー」
先輩が木の根元に座った。木漏れ日が先輩の銀髪を照らした。綺麗だった。
「これ飲むか?」
先輩が私に投げたのは桃味のいろはすだった。
「好きじゃないです」
「なんで?」
「薄いので」
「それがいいんだろ」
「嫌です。薄いように見えて薄いなんて一番つまらない」
「いいじゃねぇか。俺は俺みたいで好きだ」
「は?」
今週いち意外な言葉だった。
今月いちかもしれなかった。
「なんで」
「俺は薄い人間だからだ。お前とは違う」
「私のことは濁っているって、言ったじゃないですか」
「濁っているのが悪いなんて言ってないだろ」
「でも濁っているのは汚いです」
「まあ、そうだけど。それっていろんなこと知ってるってことだろ。人間らしいじゃん」
「……」
「いろんなこと知って、たくさん不安に思って、嫌なこともあって、でもそれはお前だけの濁りだろ。お前にしか分からない濁りだろ。俺が嫌いか嫌いじゃないかとかそう言う問題じゃない。俺にはそれがない。俺は持ってない濁るのが怖い。一生薄いままだ」
違うな。だって先輩はピーチティーだから。
むかつくなぁ。
そういうこと言わないでほしいな。
「私、先輩がもっと濃い人だって知ってますよ」
気に入らなければ何回でも消して、破って、書き直して。毎日夜遅くまで部室にこもって絵を描いていることを知っている。
私の濁りを見抜くほどに、先輩も心のうちに先輩の濁りを溜めているのだと知っている。先輩の透明のなかに見える濃さが物語っている。
「……どういう意味?」
私は、消しゴムでぐちゃぐちゃになった街路樹を破る。珍しく、先輩がびっくりした顔をした。
「ピーチティーを飲みに行きませんか?いいところを知っています」
「だから何を、」
「先輩が自分のこと薄いとか思ってるまま生きてるの癪なんで、私が証明します。ついてきてください」
甘くて、苦くて、少し苦しい。
透きとおっていて、濃い。深い。
やっぱり先輩はピーチティーだ。
私もいつか、必ず、ピーチティーに溶ける。
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