Macchiato di tele Vol.3 秘密のヴィーナス 中編

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 秘密のヴィーナス  中編  あれから1週間がたった。  私は毎日、朝の出勤前と夕方7時過ぎにミアちゃんと彼の病室に通った。彼の手を握ると反射的に握り返してくるなどの反応はあったが、ずっと深い眠りにいるようだった。苦しんでいる様子はないし、時々何か独り言を言っている。まるで別の世界で夢でもみているようだ。そのまま魂の手を引っ張って連れ戻したい衝動に駆られる。  ミアちゃんはここ2晩私のアパートで夕食を共にしていた。 「すごく嬉しいんです。」 「何が?」 「こうやって一緒に夕食作りができるなんて。まるで…、」  彼女は細い手で薄切りの仔牛肉にパン粉をつけている。 「トンカツじゃなくて、ミラネーゼなのね。」 「ええ、ヴィエナーシュニツェルとどこが違うかはちょっとわからないんですけど…。」 「大きさかしら? それとも…、ねぇ。」  手際良い彼女は嬉しそうに微笑みながらうなづいている。 「それに、日本のパン粉だとちょっと違う。」 「そうなの?」 「ヨーロッパのはもっと細かいんです。」 「へー。」 「美味しいかな?」 「美味しいに決まってるでしょ!」  180度弱のオイルに滑り込んだ肉はシュワシュワと繊細な音を立てている。 「フィレンツェのシモネッタさんは、おとうの事は零さんに任せて日程どうりに来なさいって言ってます。シンジはそんなことで死ぬわけはないって。でも…、」 「ミア。」  振り返った彼女の表情はどこか憂いに満ちていた。思わず彼女を強く抱きしめた。 「ミア。お父さんはあなたがイタリアに行くことを望んでいると思う。どんな時でも前に進めって、チャンスを逃すなって言うと思う。」 「…。」 「大丈夫。彼が良くなったら、一緒にフィレンツェに遊びに行くわ。だから、予定を変えない方がいいと思う。」  パリサクの歯応えに食べやすい肉の厚さ。直前にかけたレモンの酸味がほどよく効いて美味しい。何枚でもいけちゃいそうなところがおばさんにも乙女にも危ない感じ。 「零さん.…。」  なんかシオらしいミアに首を傾げた。 「今日は泊まっていってもいいですか?」  突然の彼女の提案に少し驚いたけど、 「私のパジャマでよければ。少し小さいかもしれないけど。それに、ベッドはセミダブルだけどいいかな?」 「私、寝相は悪くないと思います。」 「でもまさか、大いびきとか?」 「え? 零さんいびきをかくんですか? 知らなかった〜。まさか寝言も?どうしようかな。」 「こら!」 二人でキャハハと黄色い声を上げた。  先にシャワーを浴びたミアはすでにベッドに潜り込んでいた。いつもなら、瞼が落ちてくるまでベッドで読書をするけれど、そろりと彼女の横に滑り込んだ。艶やかな寝顔は、きっと母親譲りに違いない。寝息が静かにリズムを刻んでいる。ベッド脇に点いていた小さな灯りを消すと、スッと藍色の帳が落ちた。遠くで救急車の音が響いている。 「零さん。」 「ごめん。起こしちゃった?」 「こんなに甘えちゃってすいません。」  私はクスッと笑った。 「変ね。」 「え?」 「なんだかね、私の方が癒やされているの。こんな時なのにあなたが近くにいると不思議とホッとする。」  彼女は目をパチクリした。 「それは、私のセリフです。」  話したいことはたくさんある。でも…。 「ミアちゃん、」 「ミアです。」  そうだった。 「ミア、いつのフライトだったっけ?」 「今週の土曜日です。月曜日からは研究室に。」 「すぐね。マンチーク女史によろしくね。」 「はい。母のことなども聞ければと思っています。」 「そうね。」  ミアは私に抱きついてくると、何か小声で言った。 「え?」  どこか安心している面持ちは、幼い女の子が寝ているようだっった。     × 「ご安心を。順調に回復しています。あとは、目を覚ますだけです。」 「いつ頃なんでしょうか?」 「それはなんとも。しかし、心配は入りません。」  主治医は軽くお辞儀をして出ていった。 「おとう、行ってくるね。フィレンツェで待ってる。」  ミアは静寂な教授の額にキスをした。荷物は大きいバックパックと小ぶりのトートバッグ。少しラフな格好がどこかたくましさを漂わせている。 「零さん。」  強く抱きしめられた。見つめ合った彼女の顔はいつになく精悍だった。  ブラインドのスリットから彼女がタクシーに乗るのが見えた。 「頑張るんだぞ!」  そう心で呟くと、後ろから声がした。 「無事に出発したか。」  教授が半身を起こしてこちらを見ている。 「起きてたの?」  彼はバツが悪そうにうなづいている。 「いつから?」 「今朝からだよ。」 「じゃ、先生は…、」 「もちろん知っている。」 「ちょっと、どう言うこと? 娘の大事な出発の時に!」  込み上げてきたのは怒りだった。 「彼女を安心させてあげればよかったのに。」 「なんか怖かったんだよ。色々聞かれそうでさ。」 「何それ?」 「わき目をふらないように静かに送り出してあげたかったんだよ。」  わがままを言っている彼の哀しくも安心している表情が心をかき回す。  窓の方に振り返ると思わず涙が溢れてきた。 「もう、本当に心配したんだから!」  自分の緊張が一気に解けて嗚咽を上げた。  教授はいつの間にかベッドを降りて私の肩に手をかけていた。 「心配させてすまなかった。」 「バカばかばか!」  私は彼の胸の中でひとしきり泣いた。 「で、実はだな…。」 「何?」  潤んだ網膜に映る彼は少し歪んでいる。 「次に行くところを決めた。」 「え?」 「ボティチェリの秘密を明かすことができるかもしれない。」 「ええ? ってフィレンツェ? すぐに行くの?」  彼は優しい笑顔で首を横に振った。 「ひとつお願いがある。それなりの準備が必要だ。」 「準備?」 「ああ、AIを装備した小型カメラの使い方を学んでほしい。」 「はぁ?」 「解像度の高いカメラと、取り込んだ映像の解析が素早くできるAIが必要なんだ。」  何を言っているのかよくわからないが、そうだ、櫻井くんなら丁寧に教えてくれるかもしれない。 「零。」 「何?」 「今度も来てくれるか?」  思わずコクンとうなづいた。ずっとその言葉を待っていたから。 「衣装はこの前渡したビアンコだぞ。」  あ、鼻の下が…。 「ふざけんな!」  ビンタを食わすと彼はそのままベッドに転がり笑っている。そこに先生が入ってきた。 「すぐに退院できますな、こりゃ。」   × 「画像解析のAIってことは、生成AIってことですね。」  櫻井くんの得意分野らしい。良かった。 「何それ?」 「普通のAIは、膨大なデータを元に答えを引っ張ってくるんですが、生成AI、つまり、ジェネレーティブAIは創造力があるんです。」  へーって言っていながら全然わかっていない私。 「簡単に言えば、人工知能。ディープラーニングにより自分で考えることができるんです。」 「そっか。私たちが予想できない答えも返ってくるってことね。」 「まぁ、そう言うことですね。そこからイメージを生成することもできるんです。」 「映像表現もできるんだ。でもそうなると、感がいいやつとそうでないやつがいるってこと?」 「さぁ、感かどうかはわかりかねますが。モデルによって得意不得意はあるかもしれませんね。まだ完璧なものはないみたいですし。」 「AIにも性格がありそうね。想像力のあるのがいいのかな。」 「そういえば、あの自動販売機。あれは普通の…、」 「あいつ、絶対に許さない!」  櫻井くんは「意外と正確です」という言葉をゴクンと飲んだ。 「真治は何を考えているのかしらね?」  BBは首を傾げている。 「あの事故で、何か閃いたのかもしれません。」 「打ちどころが変なところじゃなければいいけれど。」  私は思わずプッと吹き出しながらアッと声を上げた。 「これ以上は悪くならないと思いたいですが。」 「そう願いたいわね。」  BBは少し呆れた表情を見せた。 「そういえば…、あのブロンドの若いお母さん。振り返った時に見せた表情がヴィーナスっぽく見えたんですけど?」 「何かそこにもヒントがあったりしてね。」  3人の目線が1つのホログラムを作り上げかけたように感じた。   ×  櫻井くんと大学の廊下を歩いていると、向こうから車椅子に乗った教授が角を回ってきた。 押しているのは若い女子大生だ。鼻の下のびのびで楽しそうに会話をしている。 「教授!」 「あ、零。」 「確か、退院された時は歩かれてましたよね? フツーに。」 「あ、これはその、大事をとってだな…。」 「おじいちゃんですからねぇ。ったく。」  私はじーっとある一点を見つめた。 「?」 「社会の窓開けっぱなしですけど。」 「いやぁだ〜。」  と声をあげて後退りしながら失礼しますと女子大生は去っていった。 「おい、何もここで。」 「事実は事実でしょ。チャック全開のニヤけたジジイが女の子に押してもらってるなんて最低。ほら!」  私は携帯で撮った写真を見せた。 「後でミアちゃんに送っとこ。相変わらず元気ですって。」 「あのな〜。」  櫻井くんは苦笑いしている。 「で、彼は?」 「初めまして。櫻井と申します。沢山Dのお手伝いをしています。」 「なんか自分の若い頃にそっくりだな。爽やかさとか。」  んなわけないだろ、もう。 「彼はAIに関して詳しいの。で今日は、」 「いくつかテストができればと思ってカメラも持ってきました。」  教授はシャキッと立ち上がり彼の肩を叩いて一緒に歩き出した。 「ゼミ室に行こう。零、車椅子を持ってきてくれ。」 「ちょっと、何それ!」  ブレーキの外し方で戸惑っているうちに彼らは先の角を曲がってしまった。 「シンジのばか!」  いつの間にか彼のことをシンジって呼んでいる自分がいた。    ×  彼らはすでにカメラをセットし終わっていた。いくつか大きめの絵が用意されている。 「って、全部裸体じゃないの!」 「ヴィーナスは裸だろ?」 「でもこの絵なんか、ちょっとセク…、艶かしすぎない?」  教授のことをきっと睨むと櫻井くんが口を挟んだ。 「いろんなサンプルがあった方がいいと思います。」  もっともだが、彼もクールな割にはなんか嬉しそうだ。  教授が裸体のある一点にグッと寄っている。 「ちょ、ちょっと!」  絵の具と鼻がくっつきそうだ。 「櫻井くん。ここにググーっと寄れるかな?」  真面目で真剣な眼差しの彼の鼻の下がなんだか…。  ズームだと足りないし、近づくとフォーカスが合わない。 「マクロレンズが必要ですね。」 「うん、本番はマクロだけでいいと思う。」 「はぁ?」  そう言えば、思い出した。以前、社会番組で風俗がテーマの時にストリップ古屋を取材した。 昼間なのに、客としてサラリーマンなどがちらほら。ステージの最前列にいたのはあるおじいちゃんだったが、目の前でダンサーがスッポンポンで踊っているのに、彼は、なんと双眼鏡で鑑賞しているのだ。いや、鑑賞じゃない。それはまさに一点集中の覗きだ! 「零、どうした、ぼーっとして。大丈夫か?」 「このすけべジジイ! 許せない! 何がAIよ! いい加減にしろ!」  私は思わずゼミ室から飛び出すと、先ほどの女子大生が目の前に立っていた。 「ダメよ。今ここに入っちゃダメ! ちょっと中庭でも散歩しましょう。」  彼女を無理やり引っ張って木陰のあるベンチに座った。  ハァッと大きなため息をついた。 「教授のことですか?」  私は彼女にゆっくりと振り向きながら目配せをした。 「授業は面白いんですよ。時々どこかズレているように感じるんですけど、そういう余白があるから自分でこうじゃないかなって考えるんです。 よく学生の話を聞いてくれるし、ちょっとHなところがまた面白いし、どこか興味を湧かせてくれる。 杓子定規で押し付けがましい他の教授より全然いいですよ。それに、どこかジェントルマンだし。」  褒めすぎだろ! 「じゃ、今日のチャックは何?」  彼女は手で口を押さえながらウフフと笑った。 「さっきはびっくりしたけど、あれはちょっとしたイレギュラーですね。」 「イ、イレギュラー?」 「ああいうポケッとしたところがあるから、逆に信頼できるんです。」 「老害じゃないの?」 「ロウガイ?」  彼女は一瞬きょとんとしてケラケラ笑った。 「いいえ、まだ全然大丈夫だと思います。だって…」 「?」  枝からもれる木漏れ日が少し眩しい。 「教授は今恋をしてるんだと思います。」  え 「最近、『あ、これ以上言うと誰かさんに怒られるから、あとは自分で考えるように。』、なんて思い出したかのように言うことがあるんです。最初は年頃の娘さんのことかなとも思ったのですけど…、」  彼女は私のことをジロジロ見ている。  と、ゼミ室から櫻井くんが出てくるのが見えた。 「ありがとう。もう行かないと。」  そそくさとガラスの向こうを歩く彼を追った。足が絡まりそうだ。 「どうだった?」 「ええ、一通り撮影した後にデータをパソコン経由でネット上にあるいくつかのAIで試したんです。」 「で?」 「教授の予想とはいくつか違う答えが返ってきたりしましたが、それはそれとして面白そうなやつをいくつか候補にしてあります。キーワードもいろいろ試しました。」  なんだその面白そうって。キーワード? 「帰ってから時間のある時にもう少し研究する必要があります。どれが最適な奴かって。そうだ、イメージも生成したんですけど、見ますか?」  彼がタブレットを近づけてきたが、いやだと目を瞑りながら私は手を伸ばした。どうせ…。 「しかし、教授は面白い人ですね。」  彼の鼻の下がどことなく伸びている。 「櫻井くん。」 「はい?」 「変な影響を受けないでよ。ね。」  廊下を曲がるところで後ろから声がした。 「零!」  私は振り返って教授にアッカンベーをした。 「立石教授。あの方どなたですか?」  彼は少し口を尖らして女子大生の方を向いた。 「そういう こ と か。」  彼女は小声で言いながら教授の脇腹をドンとどついた。   × 「チャックおっ広げって、まさか、事故の後遺症じゃないわよね。」  ミアはキャハハと笑っている。 「でもよかった。シンジは相変わらず元気そうね。」  ミアが振り返るとマンチーク女史は腕を組んでガハハと笑っている。 「で、そんな写真を撮ったのは誰?」 「零さんです。」 「やっぱりね。で、あの二人ってどうなってんの?」  ミアの頬がほんのり赤い。 「なんかよくわかりません。二人の会話だけ聞いてると、昭和な夫婦っていうか。」 「ショーワ?」  マンチークの頭の上には大きな疑問符が見える。  ミアの笑いが止まらない。 「言ってみれば、ひと世代前の夫婦の会話って感じでしょうか。」 「あぁ、そう言われるとわかるかな。なんか懐かしい感じね。」 「お父さんは昔からあんな感じだったんですか?」 「若い頃はもっと真面目だったわよ。精悍で希望に満ちていた。だから、あなたのお母さんも彼のプロポーズに応えたんだと思う。二人とも素敵だった。」  マンチークのメガネのレンズが瞳の青さを強調している。 「だから、地震の事故の後、声をかけられずにはいられなかったの。」 「確か…、」 「そう、シモネッタって名前も一緒だったから尚更ね。でもね。シンジの性格は、今の方が自然かな。」 「そうですか?」 「歳とったからね。ツッパってた若い時より自然体に見える。そういえば…、」 「?」 「ほら、あそこの角っこ。」  ミアは壁の隅に煤けた落書きを見つけた。 「S…i?」 「そう、もう薄汚れて見えずらいけど、確かにSとi。あなたが木炭で描いたのよ。」 「私が?」 「そう、小さい時にここに遊びにきてたからね。きっとシモネッタのSi。お母さんか私かはわからないけど。」 「それで、この部屋、なんだか懐かしい感じがしたんですね。」  ミアは少し顔が熱っている。と携帯が震えた。写真メッセージだ。 『これも。忘れてた。』零さんからだ。  絵画の局部を凝視する教授。 「やっぱり鼻の下がビローンなのね。」  マンチーク女史はやれやれと頭を掻いている。 「次のターゲットがなんになるやら思いやられるわ。ミアちゃんは何か知ってる?」  ミアはしゃがんだまま上目遣いに考えた。 「そういえば、零さんはムンクの『叫び』とか、『裸のマハ』とか口に出していましたけど。」 「そう…、でもまだ怪しいかな。」 「そうですね。」 「私たちはね、ちょうど同世代でしょ。私は正攻法で探究するタイプだけど、彼は少し捻くれていた。」 「捻くれ者ですか?」 「言い方が悪かったか。少しネジれたところ、つまり想像もしない別アングルから攻めてくるの。取るに足りないものもたくさんあったけどね。」 「ですよね。」 「でも、話を聞くのが楽しみだったわ。そんなことないでしょって思いながらも、どんどん話に引き込まれていくのよ。あなたのお母さんもそこがまた好きだったのかもしれないわね。」 「シモネッタさん。」  彼女はなあにっと首を傾げた。 「ありがとうございます。私たち、なんかいつもお世話になっちゃってるんですね。」 「あら、お互い様よ。彼を見るたびに頭を柔らかくしないとって思ってるんだから。」 「やわすぎですよね。」 「ありゃ? 娘にそう言われちゃ、彼も立つ手がないな。」  女史はまた大声でガハハと笑った。 「でも、不思議なんです。」 「何が?」 「零さんといると、なんだか落ち着くんです。安心できるっていうか。」 「たぶん…。シンジもそうなんだと思う。」 「…」 「あの写真撮った時、彼女の見た目は全然違うのに、全く関係ないのに、若い頃のシモネッタ、そう、あなたのお母さんを思い出したの。何故かね。」 「でも、性格は違いますよね?」 「それはよくわからないけど、零はどこか同じ雰囲気を持っているのかも。」  マンチーク女史は、そう言ってから少し目線を逸らしたかと思うと目をつぶってから首を横に振った。 「違う。というか、それだけじゃない。」 「どう言うことですか?」 「シンジが彼女といる時に醸し出す雰囲気からそう感じたのかもしれない。」  ミアは女史にぎゅっと心臓を握られた感覚に襲われた。 「午後は『ヴィーナスの誕生』を見にいくわよ。」  女史が出ていった後、ゼミ室には少しきつめの香水の匂いが漂っていた。   × 「『夜警』のキーイメージはあなたのアイフォーンで撮ったあの映像でしょ。現地でのロケと、教授とマンチーク女史のインタビューは必須ね。で、」 「はい。あの映像は女史の研究成果の重要な1つとして扱うと。」 「そう、それで彼女にも了解をとってみるわね。惜しいところだけど、忍び込んでなんていえないからね。」  自分たちの手柄とも言えるのをライバル相手に渡すのは歯がゆいものがあるが、あの時のことを思い出すだけで顔が熱ってくる。 「女史の見解をメインにしてありますが、私たちの違う解釈を視聴者に投げかけるというエンディングで番組を終わろうと思っています。」  BBはニヤッと微笑んで大きく頷いた。 「じゃ、まずは教授のインタビューからね。それをまとめてからアムスに飛ぶと。早いうちに先方に取材の申し込みとそれができる期間を確認しないといけないわね。」 「はい。」 「マンチーク女史のインタビューはオンラインって言う手もあるかもね。」 「確かにそうですが…、」  目を細めて彼女を伺った。 「やっぱりそうよね。フィレンツェロケよね。行きたいんでしょ?」 「もちろんです。」  女史の仕事場も見て見たかったし、撮影もしたい。それに、 「私も久しぶりにフィオレンティーナが食べたいわ。」 「え? ご一緒されるんですか?」  彼女の表情は既にポンテヴェッキオを歩いている。 「もちろん、高級レストランではマンチークのオゴリにしてもらうわよ。」  さすが。少し先が思いやられるが…、 「さてと、予算増額を算段しないとね。」    シンとしている櫻井くんのデスクを見ると、彼はパソコンと睨みっこしている。 「櫻井くん?」  聞こえないのか、彼はVRゴーグルをかけて立ち上がったかと思うと、キョロキョロしだした。あぁ挙動不審。 「櫻井くん!」  肩を叩くとワッとびっくりして我に帰ったようにゴーグルを外した。 「何見てたの? ねえ、なんかにやけてなかった?」  彼は慌てているのか冷や汗をかいているようだ。 「コラ!、ちょっと見せなさい!」 「あ!」  私はゴーグルを奪い取ってのぞいて見た。 「これは…。」 「はい、ちょっと古いデータのようですが、フィレンツェのウフィツィ美術館の展示室です。後ろを見てください。」  振り向くと、そこには、例の絵があった。  保護ガラスの向こうのヴィーナスが私を見下ろして見つめている。目が合って彼女に私の心を覗かれた! 瞬間的にそんな気がして思わず胸に手を当てた。鼓動と共に息が荒くなる。彼女を背中にしても視線を感じる。待って、ここは…、目をつぶって深呼吸をしながらゴーグルを外した。そしてゆっくりと目を開けると、 「キャー‼︎」 「お、おい!」  私は気絶したのか目の前が真っ暗になった。  瞼を開くと煌々と光る灯りが見えた。まさか、美術館? 「おい、大丈夫か。」  声の聞こえる方に誰かいるが霞んでいる。 「突然気を失って倒れてくるんだから。」  彼の声だ。 「教授。」  彼は額をゴッツンコさせた。 「熱はないな。」  私は彼の肩を掴んでゆっくりと押し除けた。 「ちょっとびっくりしただけ。ワープから帰ったきたら、突然目の前にあなたがいるんだもん。驚かさないでよ。ったくぅ。」 「びっくりしたのはこっちだよなぁ、櫻井くん。」  彼は心配そうに私を見て頷いている。 「最近のゴーグルは解像度が高いし、CGの精密さもすごい。現実との区別がつかなくなることもあるかもしれません。」  確かに、不覚にも私はのめり込んでいたのかもしれない。一瞬だけど。 「帰ってきたら、あまりにも現実が酷いから気絶したってわけね。」  ふふフンとBBが笑っている。 「なんだそりゃ。」  彼は苦笑いしながら私に目線を送ってきた。 「櫻井くんにはどこから侵入するのがいいのか考察してもらっていたんだ。」 「忍び込むって…。」 「しかし、零、見ただろ?」 「え?」 「絵の前には厚い強化ガラスが備え付けられている。」 「教授。絵とガラスの間には隙間があるように見えましたが。」  櫻井くんはいつも冷静だ。 「どこまで忠実に再現しているのかしら。現場に行ってから違うじゃ遅すぎる。」  少し疑いの眼差しで教授を見た。 「幸い…。」 「まさか、ミアも巻き込むの?」  教授は軽く頷いた。 「周囲の状況も、もちろん絵もしっかり観察するようには伝えてある。それとなく的確に。」         ×  この絵は一度見たら忘れない。もちろん、そんな絵はこの世の中にいくらでもあるだろうし、人それぞれに感じるものは異なるに違いない。だけど、「モナリザ」や「真珠の耳飾りの女」の表情が一瞬で心に焼きついてしまうのは何故だろう。この目の前にいるヴィーナスにしても、見れば見るほどその表情は…。 「ミア。」  女史が絵を前に固まっている彼女に声をかけた。 「あなたの絵画を見るときの眼差しは、シンジにそっくりね。」  彼女はハッと我に帰った。 「どこを見てたの?」 「あ、あの。」 「絵の全体を見ることも大切よ。気になる部分はあるでしょうけどね。」  ミアは絵に防護ガラスにくっつくように近寄ってヴィーナスを見つめているところから、全体を眺められるところまで後退りした。 「一般的な人の画角って、そうね、映画のカメラでいう35ミリって言われているのを知ってる?」 「…。」 「もちろん、きっとそれは映画の人たちが切り取りの標準として言い出したこと。だって、すごく周りが見えている人もいるかと思うと全然見えてない人もいる。最近のテレビは大画面が多いけど、見るところはストーリーに左右されるわよね。それに、」 「それに?」 「ここ数年のテクノロジーで画面の解像度が飛躍的に上がったでしょ。」 「4Kとか8Kとかですか?」 「そう。だから、昔と同じ画角でも見える度合いが全然違う。」 「情報量が多いってことですね。」 「そう、いやがおうにもね。だから、選択の余地がなくて疲れちゃうのよ。まぁ、それがいいか悪いかは別だけど。映画の場合は強調したいところ以外はフォーカスを合わせないっていう手法を使うけどね。」 「たいていの絵画は、全部にフォーカスが来ていますよね。」 「そう。この絵も言ってみれば、パンフォーカス。でもね、」  ミアは絵画が醸し出す空気感をなんとなく感じている自分に気がついた。 「感じ方によって見るところが違うってことですか?」  女史は笑顔で軽くうなづいた。 「それだけでなく、見え方が違うって言ってもいいかもしれない。」 「確かに。感じる絵と何も感じない絵っていうのもあるんです。」 「もちろん、それぞれの絵画には普遍的な解釈ってのはあるし、私はそれを探求するのが仕事ではあるけど…。」  マンチーク女史はどこかに困惑の表情を見せている。そしてそっとミアに耳打ちした。 「本当にそれが正解なのかどうかは、それを描いた画家にしかわからないと思う。」 「シモネッタさんの研究は、常に精密で奥深く的を得ていると聞いています。」  女史はウフフと肩をすくめて再び笑顔を見せた。 「そうだといいんだけどね。」 「そういえば…、絵には関係ないかもしれないですが。」 「?」 「ヴィーナスのモデルはシモネッタ。マンチーク女史もシモネッタ。そして、私のお母さんもシモネッタ。まさに、」 「シモネッタ三姉妹!」  マンチーク女史はヴィーナスのポーズをしてみせた。  ミアはすかさず携帯で写真を撮った。  画面に映った彼女の笑顔はいつになく嬉しそうだった。 「ミア。」  マンチーク女史がヴィーナスをバックにミアとセルフィーを撮った。   × 「ミアから送られてきた展示状況は、この前のバーチャルとは違うな。」 「保護状況が強化されているようですね。最近美術館をターゲットにする圧力団体の輩とかいますから。隙間から何かかけられたらおしまいですからね。」  櫻井くんは画面を拡大したり縮小してりしている。 「ガラス越しに撮影するしかないのか…。」  教授はうーんと腕組みをしながらソファーに横になった。 「この際、女史に頼んで生絵にしてもらうしかないですかね? 教授。」  振り返ると彼はソファで腕を組んだままスヤスヤと眠りに落ちているようだ。 「…。」  と誰かが入ってくる気配がした。 「あら、櫻井くん? 今日はデートじゃなかったの?」 「晩御飯は彼女のアパートで食べることになっていますが…。」 「ここのところ教授の所に入り浸りなのね。」 「ええ、結構ここのゼミ室は居心地がいいんです。それで、現場の解析とAIとの付き合い方を、」 「付き合い方って?」 「僕にもわからないこと数多くあるんです。圧倒的なデータから出てくる答えはその速さと緻密さには驚かされます。しかし、冷静に検証すると、おかしいところもいくつかあるんです。だから、いろいろと試して経験値を上げておこうかと。」  頼りになるな。 「教授が言ってるんです。」 「なんて?」 「知らないうちにフェイクに加担することにならないように注意しろって。」  それにしても、彼がいろいろ協力しているのに昼寝とは。いい加減おじいちゃんなのかしら本当に、もう。はぁとため息をついた。 「妄想してるんだよ。」 「昼寝しているんじゃなかったの?」 「もう夕方だぞ。少し空想の旅に出ていた。どう攻略しようかとね。」  何カッコつけてんの? 下手くそな言い訳。 「どうせまたいやらしいこと考えているんでしょ? ヴィーナスの裸とか。」  教授は片目を開けてこちらを見たかと思うと再び瞑想に入ったようだ。 「私たち、あの絵の何が目的なのか知らないわよね? 櫻井くんは?」 「確かにそうですが。」  と、突然教授が立ち上がった。 「集中することが重要なんだ。」  彼は私のことをじっくりと下から上まで舐め回すように見た。  なんだかゾクっとする。  が、目が合うと、一瞬の間をおいて自分の鼻を押さえて背中を向けた。 「?」  床には数滴の赤い滴りが…。 「鼻血?」  教授は天井を見上げている。 「ちょっと、本当に何想像してるの? ヘンタイ? そうか、血圧が高いのね。」 「ビタミンK不足ですよ、きっと。それとも…。」  櫻井くんは意味深に私を見た。 「教授は繊細なんですよ。誰かさんと違って。…あっ。」 「ちょっと、どういうこと?」  櫻井くんが教授化してる。もう。  手にしていたビニール袋をドンとテーブルに置いた。 「三峰亭の寿司弁当か?」  教授の鼻詰まりな声。 「どうしてわかるの? 匂いしないでしょ鼻血で。」 「音だよ。」  んなわけない。 「うそ!」 「食べたいと思っていたんだよ。」 「気が利きますね〜。」  櫻井くんの目が怪しい。 「ごめん。あなたの分はないわよ。」 「僕はこれからデートですから、ごゆっくり。」  彼は微笑みながらそそくさと帰る準備を始めている。 「あ、電源は落とさないでくださいよ。」  パソコンの画面に映っているヴィーナスの上半身を見ていると扉の閉まる音がした。  ここのお寿司はいつ食べても美味しい。 「やっぱり、シャリだな。」 「え?」  ネタがいいんでしょ?  美味しいものを食べている時の彼の表情は子供のように純粋だ。 「以前、北欧のレストランに入った時に日本人ですか?って聞かれて、そうだよって答えたら、新しくメニューに寿司を加えたいから、ぜひ試食してとシェフに言われてね。」 「どうだったの?」 「ネタは新鮮で良かったんだけど、シャリがダメなんだよ。」 「寿司メシってこと?」 「やっぱり、普段からご飯を食べてないからかな。寿司メシどころか、基本的な米の炊き方がわかっていない感じ。」 「私たちにとっては、当たり前のことがダメなのね。」 「見た目はいいし、作ってみる努力は買うけど、それが本物の寿司かと言われるとやっぱり違う。ただ、」 「?」 「シェフ自身も何かがおかしいと思っていて試食を頼んだってわけ。」 「問題点が明確になったってことか。」 「行き詰まった時にこそ、視点を変えるのが必要なのかな。」  彼は少し顎をしゃくり上げながら私を見た。 「何よ、偉そうに!」 「は?」 「あなたの場合は、いつも変な視点から見てるから、たまにはマトモにものを見る必要があるんじゃないの?」 「おい。」 「今回のヴィーナスにしたって、何が目的なの? 私は未だに何も聞いていないわ。教えてくれないんなら、あの衣装着るのやめる。」  私はプイと拗ねた。  と、教授はポンと拳を叩いた。 「お、発見した!」 「何?」 「その歳でそんな可愛い表情を見せるんだ。」 「だから!」 「いや、わかっている。櫻井くんまで巻き込んでいることに責任は感じている。」  鼻にティッシュが刺さっている彼の眼差しが鋭さを増していく。 「実はだな…。」  周囲に誰もいないことを確認すると、最後にとっておいたマグロのにぎりを頬張る私の耳元で彼が囁いた。 「んなわけないだろ!」  マグロが喉に詰まって咳き込んだ。 「大丈夫か?」  教授は私の背中を優しくさすりながら、まだほんのり温かい湯呑みを渡してくれた。 「だって!」  私は一番大きく描かれている『ヴィーナスの誕生』のサンプルを本棚から引っ張り出して一点を凝視した。更に、パソコン上にある絵のその部分を目一杯拡大して見た。  解像度が追いつかない。 「よくわからない。」  振り返ると探究心いっぱいの彼の表情。何か込み上げてくるものを感じながらもう一度目を凝らして見た。 「あ…確かに…、というか、もしかしたら…、」 「だろ? ということはだ。」 「ま、まさか。」  教授の視線が私の目の奥に刺さっている。  冗談がすぎる。 「でもそれは、そういう先入観で見えるだけなんじゃないの?」 「いや、そんなことなどあり得ないという思い込みがあるから見えないんじゃないのか?」  あぁ、どっちがどっちだかわからない。 「いや、もちろん、これはあくまで個人的な仮説だ。だから、」 「AIの力を借りるってこと?」 「まぁ、それを全面的に信用するかどうかは別として、裏付けになればいいなくらいだけどね。」 「でも、櫻井くんには言ってないんでしょ、このこと。」  教授は首を横に振った。 「これは2人だけの秘密だ。」 「なんで?」 「それこそ、私の仮説という色眼鏡で見て欲しくないと思ってね。」 「ほら、やっぱジジイ!」 「?」 「色眼鏡なんて死語だよ。」  そう言いながら、彼の最後の握りをつまんで食べた。 「あ、おい!」 「さっき詰まらせたのは、あなたなんだからね。」  私は嬉しさが込み上げてフフッと笑った。 「ど、どうした?」 「あなたも美味しいものは最後に残しておくタイプなのね。」  彼は私を見ながら口をパクパクさせている。  × 「日本では毎日こんなもの食べてるの?」  マンチーク女史はオレンジ色のシャケを頬張りながらミアを見ている。 「ええ。魚は結構食べますね。で、お口にあいますか?」 「とっても美味しいわ。ご飯もふわふわでいつもと違うし、ミソスープも。」 「良かった。」  彼女の箸の使い方はとても自然だ。 「ミア。部屋が見つかるまでって言ってたけど、研修中はずっとここにいてもいいのよ。」 「でも、色々とご迷惑かと。」 「ううん。こうやって時々食事を作ってくれると嬉しいな。一人だとね、なんか適当になっちゃう時があって。あなたがいると思うと、私も頑張って作ろうかなっていう気にもなるし。」  彼女のフラットはそこそこ広く、街に近い小高い丘の中腹で静かで便利もいい。美術館にもちょっとした散歩のノリで行ける。  ミアはどうしようかなと目をキョロキョロさせた。 「あなたの負担になるようだったら引き留めないわ。」  彼女の言葉が心に響く。 「お邪魔でないのであれば…。」 「決まりね。」  マンチーク女史は冷蔵庫から小ぶりのシャンパンを取り出して、ミアをバルコニーに呼んだ。  ポン! 軽快な音が響く。 「シモネッタって呼んで頂戴ね。ミア。」  重ねたグラスの金色の泡の向こうには藍色の帳にライトアップされた大聖堂のドームと鐘楼が逆さまに小さく映っていた。 「ところで、イタリア語はどこで覚えたの?」 「まだまだなんですけど、中学生の頃から興味はあったんです。父が時々使っていたし、すごく明るい歯切れのいいトーンが好きで高校の時からネットで。いえ、本格的に始めたのは大学に入ってからですけど。」 「へー、現代っ子らしいわね。でも、いい感じよ。」 「もちろん、わからない言い回しとか、難しい単語もまだまだあるんです。」 「大丈夫よ。言葉は生きているっていうでしょ。」 「はい。」 「でも、それだけに、ここで生活しているとフィレンツェ弁になっちゃうかな?」 「え〜?」 「大丈夫。美術館の人たちは綺麗な標準語を話す人たちがほとんどだから、それに慣れれば、街中の言葉が面白く感じるくらいよ。フィレンツェは職人の街だから尚更ね。」 「でも…、」  ミアの表情はどこかいたずらっ子ぽい。 「?」 「インテリジェントな感じで方言話した方がインパクト大ですよね?」  マンチーク女史の目がまんまるになっている。 「ミア、あなた、本当にシンジの子供ね。頼もしいわ。」  ミアは体を少し強張らせてグラスを持ったまま深くお辞儀をした。 「ここにいる間、よろしくお願いします!」  彼女もそれを真似てお辞儀をすると、ゴチンと頭が当たって視界に小さな花火が上がった。  ×  朝、出社すると早速BBの部屋に呼ばれた。櫻井くんもいる。 「沢山さん、来週アムスに飛べますか?」  まず口を開いたのは彼だった。 「櫻井くんが美術館と話をしたら、来週末には『夜警』が通常展示に復帰するらしいのよ。」  BBも真剣な眼差しだ。 「私としては、額が外れて大きなガラスケースに囲われている絵の状態で撮影したいですね。」 「私もそう思う。そちらを優先しましょう。櫻井!」 「はい。」 「すぐに航空券を手配して。2枚よ。沢山と私の分。」 「え?」 「当然私も行くわよ。あなたのアシスタントでいいかしら。」  BBは可愛らしく首を軽く傾げた。 「撮影スタッフは現地で手配でいいですか?」  櫻井くんが聞いてきた。 「ええ。コーディネーターに確認してもらって。」  知り合いのコーディネーターは優秀な撮影スタッフを知っている。スケジュールが合えばいいが。 「それと…、」 「その後でフィレンツェの女史にインタビューでしょ?」  BBはすかさず反応した。まだ教授の計画は知られていないはずだけど。 「そちらも現地スタッフでいいですか?」  櫻井くんは私を見ながらクールな表情を崩していない。 「ええ。その方が勝手がいいと思う。」 「決まったわね。私はマンチーク女史にアテンドするから、櫻井、スケジュールの調整と航空券の手配をお願いね。」 「わかりました。できるだけ早く情報をください。」  BBは親指を立てた。 「ところで、教授のことだけど…、」  不敵な微笑みで私に目配せしている。櫻井くんと2人の目線が…。  やばい。 「ま、まず、シン…、いや、か、彼にイン、インタビューですかね。」  口がうまく回らない。 「いや、この状況だから、とりあえずは彼は私たちが帰ってきてからでいいんじゃないの?」  BBの提案に櫻井くんは黙ってうなづいている。  彼は次のターゲットがウフィッツイだってことを知ってはいる。しかし、 「そういえば、教授はヴィーナスが…、」 「櫻井くん!」  私は彼の言葉を慌てて遮った。 「そう言えば、この前VRゴーグルで見てたのは…。」  BBが眼差しが疑いの色に変化していく。 「あ、いえ、きっといつもの教授の妄想です。この前はムンクとか言っていたし、ねえ?」  櫻井くんをギュッと見つめて同意を促した。 「あぁ、そうでした。裸のマハとかも言っていました。だから、いろんな美術館の3D散歩をしている段階です。」 「ふーん。相変わらずね。変な後遺症とかないといいけれど。で、あとはよろしく。これから忙しくなるわよ。」  私たちはBBに一礼して部屋のノブに手をかけたところで後ろから声がした。 「零、何か彼の動向を掴んだら、私にも教えてよ。」 「は、はい。」 「危険なことはさせたくないの。私たちのためにも。」    喉がカラカラだ。櫻井くんを自販機のブースに誘った。 「私が奢るわよ。」  という間もなく彼は自販機に話しかけている。 「僕の分と、沢山Dの分を。」  ピッと腕時計をかざすと支払い終了のサインが出た。 「渋いな。沢山さんは昆布茶ですか?」  自販機にカメラがついているのか、勝手に顔認識され、画面上に私の写真、その下に以前のデータからか昆布茶と表示されている。  なにこれ、相変わらずムカつく。  ”変更される場合は販売機の前に正対してボタンをどうぞ”と書いてある。  すぐに合成音が聞こえてきた。反応が早い。 『レイさんこんにちは。今日のアナタはお若く見えます。ボタンを押してください。』  こいつ、お世辞まで言うようになったのか!   と、廊下からは城長Pと若い女の声が聞こえてくる。私は櫻井くんと奥のテーブルに移動した。 「私、この自販機大好きなんです。」  反対側の新しい自販機の前に立っている。 「ほら、この数字見て!」 「ほう〜、見た目通りってことだね。」  城長Pの甘ったるい声。背中が痒い。  二人はきゃっきゃ言いながら飲み物を持ってその場から立ち去った。 「沢山さん、お茶はいいんですか?」 「いらない。私、この自販機大っ嫌い。」  誘っておきながら引き攣った笑顔で櫻井くんを見ると、彼は一歩下がりながらうなづいて私の分を返金操作した。 「ところで、教授は行かれるんですか?」 「多分…。私はフィレンツェで教授と合流することになるわ。あなたも行きたいの?」 「いえ、僕はここで万全の準備をしたいと思います。データさえ送ってくれれば、すぐに解析できますから。」 「でも、時差があるでしょ?」 「若いから関係ありませんよ。」  彼は爽やかにウインクしてみせた。 「あ」  私の表情はその『若い』に引っかかっていたに違いない。 普段はそんなこと気にしていないのに。   × 「そこの美しいお姉さん!、あなたが来るのを待ってましたよ。」  英語で誰かに話しかけている声が聞こえた。  でも周りにいるのはおばあちゃんばっかりだ。ミアはどこから声がするのかキョロキョロした。 「おまえさんだよ!」  恰幅のいい白衣を着たおじいちゃんが吊り下がった肉の間から手招いている。 「わたし?」  ミアがイタリア語で返すと、彼は両手をあげた。 「フィレンツェに住んでるのかい?」 「まだきたばかりです。」 「じゃあ、こいつはどうだ!」  彼は大きな肉の塊を持ち上げた。 「フィオレンティーナ? 一人じゃ食べられないわ。」 「じゃぁ、俺が食いにいってやるよ。ガハハ。」  ミアは片手をつまむようにして目の前に持ち上げると、彼は何かを持ち上げた。 「トリッパはどうだ?」  ミアは鼻に皺を寄せながら首を横に振った。 「なんだ。ここら辺の名物だぞ。」  うーんと考え込んだかと思うとピーンと頭の上に電球が灯ったような笑顔を浮かべて、顎でショーケースの先を促した。  ミアはつられてガラスを覗き込んだ。 「新鮮なチンギアーレの挽肉だ。」 「!」 「これでパスタを作ると美味いのなんの。このマーケットで材料は全て揃う。」 「パスタはなにがいいの?」 「いうまでもなくピーチだ。」 「ピーチ?」 「そう。この先のパスタ屋で売っている。」 「じゃぁ、まず見てくる。」   「ピーチだろ。」  パスタ屋のおばちゃんはミアを見るなり、並んでいる生麺を指差した。 「太麺なんだ⁉︎」 「ムチムチだよ。」  表面は少しザラザラしている。ちょっとイタズラっぽい表情を見せて携帯を取り出した。 『シモネッタ、今日も夕食作ります!』 『いいの?』 『何時頃お帰りですか?』 『8時前には。』 『了解!』 『楽しみ〜!』  おばちゃんはもうパスタを包んでいる。 「最初だから、少しおまけしといたよ。あたしと同じで器量が良さそうだからね。ウヒヒ。」  買ってきたパスタを見せると、おじいちゃんも赤い挽肉を既に紙の袋に盛り付けている。 「あのババア、可愛い娘を見ると自分と同じとか言ってすぐに大盛りにするんだ。って、負けるわけにはいかねえ。」  値段を聞くと驚くほど安い。 「また待ってるよ。ボナペティート。」  イタリアはたくさんのおじいちゃんが楽しそうに働いている。 「グラツィエ モルトジェンティーレ!」  ニンニク、オリーブオイルはとてもいいものが台所にあるのは確認済み。あとは…。  ミアは八百屋で粋のいい兄さんと会話を弾ませて小ぶりのパキーノとバジルを頼むと、いいものを見つけた。 「よし。ミアオリジナル!」  メルカートチェントラーレの高い天井にこだまする活気にその声が吸い込まれていった。  台所に木のまな板を置くとカランという音が響いた。イタリアの昔ながらの建物は集合住宅でも天井が高い。トントントンととニンニクを刻む音が音楽のようだ。  と、その音の混じって携帯が震えた。 「ミア、帰るの少し遅くなるかも。」 「どうしたんですか?」 「重大事件発生なの。後で話す。」 「夕食は食べられるようにしておきます。」 「ありがと…。」  言葉途中で携帯は切れた。テレビをつけると、赤い帯が画面に入っている。ブレイキングニュースだ。 「本日ウフィツィ美術館で環境保護団体の若い男女2人が『ヴィーナスの誕生』にペンキをかけ、手を張り付けるテロが起きました。幸い絵画はガラスに覆われており無事でしたが、現在2人の手を剥がす作業をしていて、それが終わり次第逮捕される模様です。」  ミアは美術館へ行きたい衝動に駆られたが、それはおそらく混乱を招くだけだ。マンチーク女史がてんやわんやで対応しているのが目に見える。 「よし。」  エプロンをきゅっと締め直した。帰ってきたらすぐに美味しいものが食べられるように。 『帰る前に一報ください!』  とりあえずメッセージを入れた。具材はあらかじめ作っておいて、メッセージが来たらピーチを茹で始めれば、熱々ホクホクにできる。テレビを消して調理に集中した。 「ただいま〜。」  ミアが玄関に迎えにいくとマンチーク女史の肩にはいつにない疲労が浮き出ている。時計を見ると、もう日付が変わっていた。それでも、エプロン姿のミアを見ると女史の表情が和らいだ。 「あら?」  キッチンからいい匂いがしている。大好きな匂いだ。 「メッセージをいただけたんで、もうすぐパスタが茹で上がるところです。」 「お腹ペコペコよ。」  マンチーク女史はバスルームに駆け込んだ。 「チンギアーレのピーチね!」 「トラディショナルとは少し違うんですけど…。」  熱々の湯気越しに覗くと確かにパキーノが可愛くのっていたり、バジルが散りばめられていたりで、色彩豊かで普通のものよりさらに美味しそうだ。 「ボナペティート!」  ワインで乾杯した。 「アンティパストがないんですけど。」 「シンプルでいいの。」  と女史はパスタを口にした。 「ン⁉︎」  驚いた目をしてミアを見ると、もう一度パスタを口に運んだ。 「なにこれ? モルトブォーノ!」  ミアはホッとして自分も食べ出した。 「思ったより美味しいかも。」 「は? 作ったことなかったの?」 「はい。今日マーケットに行って即興でアレンジしたんです。」 「このほんのり感じるアロマは何かしら?」 「なんだと思います?」  濃厚なチンギアーレのミートソースのどこかに感じる美味しい違和感。 「どこかちょっと和風、なのかしら。」  さすがマンチーク女史。 「実は、椎茸とネギを細かく刻んで、そして味醂と醤油が隠し味として…。」 「べースの味を生かしているところが最高。奥がある。センスあるなぁ。」  ミアはぺろっと舌を出した。 「お口に合って嬉しいです。ピーチがうどんっぽいなって思って、日本から持ってきた調味料をちょっと使いました。」 「困ったわ。」 「?」 「あなたがいると太っちゃうかも。」  疲れが一気に飛んだようだった。 「ニュースで見ましたけど、大変だったみたいですね。」 「そう、絵には被害はなかったんだけど、防護ガラスを再検査する必要があるので、絵自体は避難させたわ。」 「避難?」 「そう、地下の保管庫にね。あそこは安全なの。」 「そんなところがあるんですね。」 「ええ、いろんなものが眠っている。まだ世に出ていないものとかもあるわ。」 「美術館よりも面白いかもしれませんね。」 「確かに。」  いつの間にか女史の皿にはほぼ何もなくなっている。 「いつ絵は元に戻るんですか?」 「そうね。10日後くらいかな。」  皿に残ったソースをパンで掬い上げてそれを一口で頬張ると、女史はフウと美味しいため息をもらした。       × 「来週頭に私たちはアムスに飛びます。」 「って、明後日? で、私たちって?」 「私とBB。」 「そこで3日ほど撮影してフィレンツェに。」  教授は私の瞳をキュッとつかむように見つめて餃子をつまみ上げた。 「この店は、東京で三番目に美味しいと言われてるらしい。」  もう、真面目な話をしてるのに。  少しふてくされて私もパクッと口に放り込むと 「あ、ほんとだ。美味しい。」  付け合わせがキャベツだけど、それもいいコンビネーションだ。 「俺たちはついているな。」  教授は目の前にスッと携帯を差し出した。 「?」 「どーこだ?」  絵が展示されている廊下には規制線が張られていて大きな額だけが残っている。 「これはウフィッツイの…、絵はどこに?」 「地下にある保管庫。」 「ミアちゃんの情報?」  ポリポリとキャベツを噛みながら教授はうなづいた。 「10日間はそこにあるらしい。」 「それって…。」 「呼ばれてるんだよ。あのヴィーナスに。いや、求愛されてるのかな?」  ったく都合のいいように決め込んでいる。能天気もいいところ。  でも、なんだかその言葉に誘われて胸の奥から身体が火照ってくる。 「零、おまえさんはアムスに飛ぶが、同日便で俺はフィレンツェに飛ぶ。向こうで準備して待ってるよ。…どうした?」  嬉しいけど、また何か起きそうな予感。自分の心臓の音が耳の奥でこだまする。 「今日は俺が奢るよ。」 「いつもケチなあなたが?」 「打ち上げじゃなくて、打ち入り。」  どうだと何か勝ち誇った表情。  何よ! 「それにしては安上がりじゃない⁉︎」  私は彼の口元に最後の餃子をもったいぶりながら優しく運んだ。 「アーン。」 「くれぐれもあの衣装忘れるなよ!」  もぐもぐしながらいつものように鼻の下が伸びている。 「スケベジジイ!」  大きい口を開けて言ったら、相当ニンニク臭かった。  ×  グラッパをクイっと飲んだマンチーク女史の瞼はずっしりと重そうだった。 「いろいろあるけど幸せかな。ボニッシモ。ミア、グラツィエモルト。」  お腹がいっぱいになって疲れがどんと表面に溢れ出てきたようで大あくび。  ミアが微笑み返すと彼女はフラフラっと立ち上がってボナノッテという言葉を残して寝室に向かった。  ミアも少し待ち疲れをしてはいたが、ささっと食器を片付けようと台所に立った。 と、まな板に残っていた赤いパキーノがコロコロと床に転がった。  あ、とかがみながらそれを追いかけると、ドンと頭が壁にぶつかった。 「イタタタタ。」  パキーノを拾い上げると、壁の間に隙間ができている。 「あれ?」  少し気になっていた少女の絵がかかっている場所だ。  その隙間に手を差し伸べると、ゆっくりと壁が開いた。 「秘密の部屋?」  広い空間ではない。天窓から月明かりが漏れて、イーゼルらしきシルエットが奥に見える。 「アトリエ?」  そろりと中に入ると部屋はたくさんの絵で溢れているようだった。  薄明かりの中ではっきりは見えないが、全て少女の絵?。  「ミア!」  ハッと振り返ると、仁王立ちしているシルエットがそこにあった。 「シモネッタ!」                                                                第三話 了             秘密のヴィーナス 第三話  あれから1週間がたった。  私は毎日、朝の出勤前と夕方7時過ぎにミアちゃんと彼の病室に通った。彼の手を握ると反射的に握り返してくるなどの反応はあったが、ずっと深い眠りにいるようだった。苦しんでいる様子はないし、時々何か独り言を言っている。まるで別の世界で夢でもみているようだ。そのまま魂の手を引っ張って連れ戻したい衝動に駆られる。  ミアちゃんはここ2晩私のアパートで夕食を共にしていた。 「すごく嬉しいんです。」 「何が?」 「こうやって一緒に夕食作りができるなんて。まるで…、」  彼女は細い手で薄切りの仔牛肉にパン粉をつけている。 「トンカツじゃなくて、ミラネーゼなのね。」 「ええ、ヴィエナーシュニツェルとどこが違うかはちょっとわからないんですけど…。」 「大きさかしら? それとも…、ねぇ。」  手際良い彼女は嬉しそうに微笑みながらうなづいている。 「それに、日本のパン粉だとちょっと違う。」 「そうなの?」 「ヨーロッパのはもっと細かいんです。」 「へー。」 「美味しいかな?」 「美味しいに決まってるでしょ!」  180度弱のオイルに滑り込んだ肉はシュワシュワと繊細な音を立てている。 「フィレンツェのシモネッタさんは、おとうの事は零さんに任せて日程どうりに来なさいって言ってます。シンジはそんなことで死ぬわけはないって。でも…、」 「ミア。」  振り返った彼女の表情はどこか憂いに満ちていた。思わず彼女を強く抱きしめた。 「ミア。お父さんはあなたがイタリアに行くことを望んでいると思う。どんな時でも前に進めって、チャンスを逃すなって言うと思う。」 「…。」 「大丈夫。彼が良くなったら、一緒にフィレンツェに遊びに行くわ。だから、予定を変えない方がいいと思う。」  パリサクの歯応えに食べやすい肉の厚さ。直前にかけたレモンの酸味がほどよく効いて美味しい。何枚でもいけちゃいそうなところがおばさんにも乙女にも危ない感じ。 「零さん.…。」  なんかシオらしいミアに首を傾げた。 「今日は泊まっていってもいいですか?」  突然の彼女の提案に少し驚いたけど、 「私のパジャマでよければ。少し小さいかもしれないけど。それに、ベッドはセミダブルだけどいいかな?」 「私、寝相は悪くないと思います。」 「でもまさか、大いびきとか?」 「え? 零さんいびきをかくんですか? 知らなかった〜。まさか寝言も?どうしようかな。」 「こら!」 二人でキャハハと黄色い声を上げた。  先にシャワーを浴びたミアはすでにベッドに潜り込んでいた。いつもなら、瞼が落ちてくるまでベッドで読書をするけれど、そろりと彼女の横に滑り込んだ。艶やかな寝顔は、きっと母親譲りに違いない。寝息が静かにリズムを刻んでいる。ベッド脇に点いていた小さな灯りを消すと、スッと藍色の帳が落ちた。遠くで救急車の音が響いている。 「零さん。」 「ごめん。起こしちゃった?」 「こんなに甘えちゃってすいません。」  私はクスッと笑った。 「変ね。」 「え?」 「なんだかね、私の方が癒やされているの。こんな時なのにあなたが近くにいると不思議とホッとする。」  彼女は目をパチクリした。 「それは、私のセリフです。」  話したいことはたくさんある。でも…。 「ミアちゃん、」 「ミアです。」  そうだった。 「ミア、いつのフライトだったっけ?」 「今週の土曜日です。月曜日からは研究室に。」 「すぐね。マンチーク女史によろしくね。」 「はい。母のことなども聞ければと思っています。」 「そうね。」  ミアは私に抱きついてくると、何か小声で言った。 「え?」  どこか安心している面持ちは、幼い女の子が寝ているようだっった。     × 「ご安心を。順調に回復しています。あとは、目を覚ますだけです。」 「いつ頃なんでしょうか?」 「それはなんとも。しかし、心配は入りません。」  主治医は軽くお辞儀をして出ていった。 「おとう、行ってくるね。フィレンツェで待ってる。」  ミアは静寂な教授の額にキスをした。荷物は大きいバックパックと小ぶりのトートバッグ。少しラフな格好がどこかたくましさを漂わせている。 「零さん。」  強く抱きしめられた。見つめ合った彼女の顔はいつになく精悍だった。  ブラインドのスリットから彼女がタクシーに乗るのが見えた。 「頑張るんだぞ!」  そう心で呟くと、後ろから声がした。 「無事に出発したか。」  教授が半身を起こしてこちらを見ている。 「起きてたの?」  彼はバツが悪そうにうなづいている。 「いつから?」 「今朝からだよ。」 「じゃ、先生は…、」 「もちろん知っている。」 「ちょっと、どう言うこと? 娘の大事な出発の時に!」  込み上げてきたのは怒りだった。 「彼女を安心させてあげればよかったのに。」 「なんか怖かったんだよ。色々聞かれそうでさ。」 「何それ?」 「わき目をふらないように静かに送り出してあげたかったんだよ。」  わがままを言っている彼の哀しくも安心している表情が心をかき回す。  窓の方に振り返ると思わず涙が溢れてきた。 「もう、本当に心配したんだから!」  自分の緊張が一気に解けて嗚咽を上げた。  教授はいつの間にかベッドを降りて私の肩に手をかけていた。 「心配させてすまなかった。」 「バカばかばか!」  私は彼の胸の中でひとしきり泣いた。 「で、実はだな…。」 「何?」  潤んだ網膜に映る彼は少し歪んでいる。 「次に行くところを決めた。」 「え?」 「ボティチェリの秘密を明かすことができるかもしれない。」 「ええ? ってフィレンツェ? すぐに行くの?」  彼は優しい笑顔で首を横に振った。 「ひとつお願いがある。それなりの準備が必要だ。」 「準備?」 「ああ、AIを装備した小型カメラの使い方を学んでほしい。」 「はぁ?」 「解像度の高いカメラと、取り込んだ映像の解析が素早くできるAIが必要なんだ。」  何を言っているのかよくわからないが、そうだ、櫻井くんなら丁寧に教えてくれるかもしれない。 「零。」 「何?」 「今度も来てくれるか?」  思わずコクンとうなづいた。ずっとその言葉を待っていたから。 「衣装はこの前渡したビアンコだぞ。」  あ、鼻の下が…。 「ふざけんな!」  ビンタを食わすと彼はそのままベッドに転がり笑っている。そこに先生が入ってきた。 「すぐに退院できますな、こりゃ。」   × 「画像解析のAIってことは、生成AIってことですね。」  櫻井くんの得意分野らしい。良かった。 「何それ?」 「普通のAIは、膨大なデータを元に答えを引っ張ってくるんですが、生成AI、つまり、ジェネレーティブAIは創造力があるんです。」  へーって言っていながら全然わかっていない私。 「簡単に言えば、人工知能。ディープラーニングにより自分で考えることができるんです。」 「そっか。私たちが予想できない答えも返ってくるってことね。」 「まぁ、そう言うことですね。そこからイメージを生成することもできるんです。」 「映像表現もできるんだ。でもそうなると、感がいいやつとそうでないやつがいるってこと?」 「さぁ、感かどうかはわかりかねますが。モデルによって得意不得意はあるかもしれませんね。まだ完璧なものはないみたいですし。」 「AIにも性格がありそうね。想像力のあるのがいいのかな。」 「そういえば、あの自動販売機。あれは普通の…、」 「あいつ、絶対に許さない!」  櫻井くんは「意外と正確です」という言葉をゴクンと飲んだ。 「真治は何を考えているのかしらね?」  BBは首を傾げている。 「あの事故で、何か閃いたのかもしれません。」 「打ちどころが変なところじゃなければいいけれど。」  私は思わずプッと吹き出しながらアッと声を上げた。 「これ以上は悪くならないと思いたいですが。」 「そう願いたいわね。」  BBは少し呆れた表情を見せた。 「そういえば…、あのブロンドの若いお母さん。振り返った時に見せた表情がヴィーナスっぽく見えたんですけど?」 「何かそこにもヒントがあったりしてね。」  3人の目線が1つのホログラムを作り上げかけたように感じた。   ×  櫻井くんと大学の廊下を歩いていると、向こうから車椅子に乗った教授が角を回ってきた。 押しているのは若い女子大生だ。鼻の下のびのびで楽しそうに会話をしている。 「教授!」 「あ、零。」 「確か、退院された時は歩かれてましたよね? フツーに。」 「あ、これはその、大事をとってだな…。」 「おじいちゃんですからねぇ。ったく。」  私はじーっとある一点を見つめた。 「?」 「社会の窓開けっぱなしですけど。」 「いやぁだ〜。」  と声をあげて後退りしながら失礼しますと女子大生は去っていった。 「おい、何もここで。」 「事実は事実でしょ。チャック全開のニヤけたジジイが女の子に押してもらってるなんて最低。ほら!」  私は携帯で撮った写真を見せた。 「後でミアちゃんに送っとこ。相変わらず元気ですって。」 「あのな〜。」  櫻井くんは苦笑いしている。 「で、彼は?」 「初めまして。櫻井と申します。沢山Dのお手伝いをしています。」 「なんか自分の若い頃にそっくりだな。爽やかさとか。」  んなわけないだろ、もう。 「彼はAIに関して詳しいの。で今日は、」 「いくつかテストができればと思ってカメラも持ってきました。」  教授はシャキッと立ち上がり彼の肩を叩いて一緒に歩き出した。 「ゼミ室に行こう。零、車椅子を持ってきてくれ。」 「ちょっと、何それ!」  ブレーキの外し方で戸惑っているうちに彼らは先の角を曲がってしまった。 「シンジのばか!」  いつの間にか彼のことをシンジって呼んでいる自分がいた。    ×  彼らはすでにカメラをセットし終わっていた。いくつか大きめの絵が用意されている。 「って、全部裸体じゃないの!」 「ヴィーナスは裸だろ?」 「でもこの絵なんか、ちょっとセク…、艶かしすぎない?」  教授のことをきっと睨むと櫻井くんが口を挟んだ。 「いろんなサンプルがあった方がいいと思います。」  もっともだが、彼もクールな割にはなんか嬉しそうだ。  教授が裸体のある一点にグッと寄っている。 「ちょ、ちょっと!」  絵の具と鼻がくっつきそうだ。 「櫻井くん。ここにググーっと寄れるかな?」  真面目で真剣な眼差しの彼の鼻の下がなんだか…。  ズームだと足りないし、近づくとフォーカスが合わない。 「マクロレンズが必要ですね。」 「うん、本番はマクロだけでいいと思う。」 「はぁ?」  そう言えば、思い出した。以前、社会番組で風俗がテーマの時にストリップ古屋を取材した。 昼間なのに、客としてサラリーマンなどがちらほら。ステージの最前列にいたのはあるおじいちゃんだったが、目の前でダンサーがスッポンポンで踊っているのに、彼は、なんと双眼鏡で鑑賞しているのだ。いや、鑑賞じゃない。それはまさに一点集中の覗きだ! 「零、どうした、ぼーっとして。大丈夫か?」 「このすけべジジイ! 許せない! 何がAIよ! いい加減にしろ!」  私は思わずゼミ室から飛び出すと、先ほどの女子大生が目の前に立っていた。 「ダメよ。今ここに入っちゃダメ! ちょっと中庭でも散歩しましょう。」  彼女を無理やり引っ張って木陰のあるベンチに座った。  ハァッと大きなため息をついた。 「教授のことですか?」  私は彼女にゆっくりと振り向きながら目配せをした。 「授業は面白いんですよ。時々どこかズレているように感じるんですけど、そういう余白があるから自分でこうじゃないかなって考えるんです。 よく学生の話を聞いてくれるし、ちょっとHなところがまた面白いし、どこか興味を湧かせてくれる。 杓子定規で押し付けがましい他の教授より全然いいですよ。それに、どこかジェントルマンだし。」  褒めすぎだろ! 「じゃ、今日のチャックは何?」  彼女は手で口を押さえながらウフフと笑った。 「さっきはびっくりしたけど、あれはちょっとしたイレギュラーですね。」 「イ、イレギュラー?」 「ああいうポケッとしたところがあるから、逆に信頼できるんです。」 「老害じゃないの?」 「ロウガイ?」  彼女は一瞬きょとんとしてケラケラ笑った。 「いいえ、まだ全然大丈夫だと思います。だって…」 「?」  枝からもれる木漏れ日が少し眩しい。 「教授は今恋をしてるんだと思います。」  え 「最近、『あ、これ以上言うと誰かさんに怒られるから、あとは自分で考えるように。』、なんて思い出したかのように言うことがあるんです。最初は年頃の娘さんのことかなとも思ったのですけど…、」  彼女は私のことをジロジロ見ている。  と、ゼミ室から櫻井くんが出てくるのが見えた。 「ありがとう。もう行かないと。」  そそくさとガラスの向こうを歩く彼を追った。足が絡まりそうだ。 「どうだった?」 「ええ、一通り撮影した後にデータをパソコン経由でネット上にあるいくつかのAIで試したんです。」 「で?」 「教授の予想とはいくつか違う答えが返ってきたりしましたが、それはそれとして面白そうなやつをいくつか候補にしてあります。キーワードもいろいろ試しました。」  なんだその面白そうって。キーワード? 「帰ってから時間のある時にもう少し研究する必要があります。どれが最適な奴かって。そうだ、イメージも生成したんですけど、見ますか?」  彼がタブレットを近づけてきたが、いやだと目を瞑りながら私は手を伸ばした。どうせ…。 「しかし、教授は面白い人ですね。」  彼の鼻の下がどことなく伸びている。 「櫻井くん。」 「はい?」 「変な影響を受けないでよ。ね。」  廊下を曲がるところで後ろから声がした。 「零!」  私は振り返って教授にアッカンベーをした。 「立石教授。あの方どなたですか?」  彼は少し口を尖らして女子大生の方を向いた。 「そういう こ と か。」  彼女は小声で言いながら教授の脇腹をドンとどついた。   × 「チャックおっ広げって、まさか、事故の後遺症じゃないわよね。」  ミアはキャハハと笑っている。 「でもよかった。シンジは相変わらず元気そうね。」  ミアが振り返るとマンチーク女史は腕を組んでガハハと笑っている。 「で、そんな写真を撮ったのは誰?」 「零さんです。」 「やっぱりね。で、あの二人ってどうなってんの?」  ミアの頬がほんのり赤い。 「なんかよくわかりません。二人の会話だけ聞いてると、昭和な夫婦っていうか。」 「ショーワ?」  マンチークの頭の上には大きな疑問符が見える。  ミアの笑いが止まらない。 「言ってみれば、ひと世代前の夫婦の会話って感じでしょうか。」 「あぁ、そう言われるとわかるかな。なんか懐かしい感じね。」 「お父さんは昔からあんな感じだったんですか?」 「若い頃はもっと真面目だったわよ。精悍で希望に満ちていた。だから、あなたのお母さんも彼のプロポーズに応えたんだと思う。二人とも素敵だった。」  マンチークのメガネのレンズが瞳の青さを強調している。 「だから、地震の事故の後、声をかけられずにはいられなかったの。」 「確か…、」 「そう、シモネッタって名前も一緒だったから尚更ね。でもね。シンジの性格は、今の方が自然かな。」 「そうですか?」 「歳とったからね。ツッパってた若い時より自然体に見える。そういえば…、」 「?」 「ほら、あそこの角っこ。」  ミアは壁の隅に煤けた落書きを見つけた。 「S…i?」 「そう、もう薄汚れて見えずらいけど、確かにSとi。あなたが木炭で描いたのよ。」 「私が?」 「そう、小さい時にここに遊びにきてたからね。きっとシモネッタのSi。お母さんか私かはわからないけど。」 「それで、この部屋、なんだか懐かしい感じがしたんですね。」  ミアは少し顔が熱っている。と携帯が震えた。写真メッセージだ。 『これも。忘れてた。』零さんからだ。  絵画の局部を凝視する教授。 「やっぱり鼻の下がビローンなのね。」  マンチーク女史はやれやれと頭を掻いている。 「次のターゲットがなんになるやら思いやられるわ。ミアちゃんは何か知ってる?」  ミアはしゃがんだまま上目遣いに考えた。 「そういえば、零さんはムンクの『叫び』とか、『裸のマハ』とか口に出していましたけど。」 「そう…、でもまだ怪しいかな。」 「そうですね。」 「私たちはね、ちょうど同世代でしょ。私は正攻法で探究するタイプだけど、彼は少し捻くれていた。」 「捻くれ者ですか?」 「言い方が悪かったか。少しネジれたところ、つまり想像もしない別アングルから攻めてくるの。取るに足りないものもたくさんあったけどね。」 「ですよね。」 「でも、話を聞くのが楽しみだったわ。そんなことないでしょって思いながらも、どんどん話に引き込まれていくのよ。あなたのお母さんもそこがまた好きだったのかもしれないわね。」 「シモネッタさん。」  彼女はなあにっと首を傾げた。 「ありがとうございます。私たち、なんかいつもお世話になっちゃってるんですね。」 「あら、お互い様よ。彼を見るたびに頭を柔らかくしないとって思ってるんだから。」 「やわすぎですよね。」 「ありゃ? 娘にそう言われちゃ、彼も立つ手がないな。」  女史はまた大声でガハハと笑った。 「でも、不思議なんです。」 「何が?」 「零さんといると、なんだか落ち着くんです。安心できるっていうか。」 「たぶん…。シンジもそうなんだと思う。」 「…」 「あの写真撮った時、彼女の見た目は全然違うのに、全く関係ないのに、若い頃のシモネッタ、そう、あなたのお母さんを思い出したの。何故かね。」 「でも、性格は違いますよね?」 「それはよくわからないけど、零はどこか同じ雰囲気を持っているのかも。」  マンチーク女史は、そう言ってから少し目線を逸らしたかと思うと目をつぶってから首を横に振った。 「違う。というか、それだけじゃない。」 「どう言うことですか?」 「シンジが彼女といる時に醸し出す雰囲気からそう感じたのかもしれない。」  ミアは女史にぎゅっと心臓を握られた感覚に襲われた。 「午後は『ヴィーナスの誕生』を見にいくわよ。」  女史が出ていった後、ゼミ室には少しきつめの香水の匂いが漂っていた。   × 「『夜警』のキーイメージはあなたのアイフォーンで撮ったあの映像でしょ。現地でのロケと、教授とマンチーク女史のインタビューは必須ね。で、」 「はい。あの映像は女史の研究成果の重要な1つとして扱うと。」 「そう、それで彼女にも了解をとってみるわね。惜しいところだけど、忍び込んでなんていえないからね。」  自分たちの手柄とも言えるのをライバル相手に渡すのは歯がゆいものがあるが、あの時のことを思い出すだけで顔が熱ってくる。 「女史の見解をメインにしてありますが、私たちの違う解釈を視聴者に投げかけるというエンディングで番組を終わろうと思っています。」  BBはニヤッと微笑んで大きく頷いた。 「じゃ、まずは教授のインタビューからね。それをまとめてからアムスに飛ぶと。早いうちに先方に取材の申し込みとそれができる期間を確認しないといけないわね。」 「はい。」 「マンチーク女史のインタビューはオンラインって言う手もあるかもね。」 「確かにそうですが…、」  目を細めて彼女を伺った。 「やっぱりそうよね。フィレンツェロケよね。行きたいんでしょ?」 「もちろんです。」  女史の仕事場も見て見たかったし、撮影もしたい。それに、 「私も久しぶりにフィオレンティーナが食べたいわ。」 「え? ご一緒されるんですか?」  彼女の表情は既にポンテヴェッキオを歩いている。 「もちろん、高級レストランではマンチークのオゴリにしてもらうわよ。」  さすが。少し先が思いやられるが…、 「さてと、予算増額を算段しないとね。」    シンとしている櫻井くんのデスクを見ると、彼はパソコンと睨みっこしている。 「櫻井くん?」  聞こえないのか、彼はVRゴーグルをかけて立ち上がったかと思うと、キョロキョロしだした。あぁ挙動不審。 「櫻井くん!」  肩を叩くとワッとびっくりして我に帰ったようにゴーグルを外した。 「何見てたの? ねえ、なんかにやけてなかった?」  彼は慌てているのか冷や汗をかいているようだ。 「コラ!、ちょっと見せなさい!」 「あ!」  私はゴーグルを奪い取ってのぞいて見た。 「これは…。」 「はい、ちょっと古いデータのようですが、フィレンツェのウフィツィ美術館の展示室です。後ろを見てください。」  振り向くと、そこには、例の絵があった。  保護ガラスの向こうのヴィーナスが私を見下ろして見つめている。目が合って彼女に私の心を覗かれた! 瞬間的にそんな気がして思わず胸に手を当てた。鼓動と共に息が荒くなる。彼女を背中にしても視線を感じる。待って、ここは…、目をつぶって深呼吸をしながらゴーグルを外した。そしてゆっくりと目を開けると、 「キャー‼︎」 「お、おい!」  私は気絶したのか目の前が真っ暗になった。  瞼を開くと煌々と光る灯りが見えた。まさか、美術館? 「おい、大丈夫か。」  声の聞こえる方に誰かいるが霞んでいる。 「突然気を失って倒れてくるんだから。」  彼の声だ。 「教授。」  彼は額をゴッツンコさせた。 「熱はないな。」  私は彼の肩を掴んでゆっくりと押し除けた。 「ちょっとびっくりしただけ。ワープから帰ったきたら、突然目の前にあなたがいるんだもん。驚かさないでよ。ったくぅ。」 「びっくりしたのはこっちだよなぁ、櫻井くん。」  彼は心配そうに私を見て頷いている。 「最近のゴーグルは解像度が高いし、CGの精密さもすごい。現実との区別がつかなくなることもあるかもしれません。」  確かに、不覚にも私はのめり込んでいたのかもしれない。一瞬だけど。 「帰ってきたら、あまりにも現実が酷いから気絶したってわけね。」  ふふフンとBBが笑っている。 「なんだそりゃ。」  彼は苦笑いしながら私に目線を送ってきた。 「櫻井くんにはどこから侵入するのがいいのか考察してもらっていたんだ。」 「忍び込むって…。」 「しかし、零、見ただろ?」 「え?」 「絵の前には厚い強化ガラスが備え付けられている。」 「教授。絵とガラスの間には隙間があるように見えましたが。」  櫻井くんはいつも冷静だ。 「どこまで忠実に再現しているのかしら。現場に行ってから違うじゃ遅すぎる。」  少し疑いの眼差しで教授を見た。 「幸い…。」 「まさか、ミアも巻き込むの?」  教授は軽く頷いた。 「周囲の状況も、もちろん絵もしっかり観察するようには伝えてある。それとなく的確に。」         ×  この絵は一度見たら忘れない。もちろん、そんな絵はこの世の中にいくらでもあるだろうし、人それぞれに感じるものは異なるに違いない。だけど、「モナリザ」や「真珠の耳飾りの女」の表情が一瞬で心に焼きついてしまうのは何故だろう。この目の前にいるヴィーナスにしても、見れば見るほどその表情は…。 「ミア。」  女史が絵を前に固まっている彼女に声をかけた。 「あなたの絵画を見るときの眼差しは、シンジにそっくりね。」  彼女はハッと我に帰った。 「どこを見てたの?」 「あ、あの。」 「絵の全体を見ることも大切よ。気になる部分はあるでしょうけどね。」  ミアは絵に防護ガラスにくっつくように近寄ってヴィーナスを見つめているところから、全体を眺められるところまで後退りした。 「一般的な人の画角って、そうね、映画のカメラでいう35ミリって言われているのを知ってる?」 「…。」 「もちろん、きっとそれは映画の人たちが切り取りの標準として言い出したこと。だって、すごく周りが見えている人もいるかと思うと全然見えてない人もいる。最近のテレビは大画面が多いけど、見るところはストーリーに左右されるわよね。それに、」 「それに?」 「ここ数年のテクノロジーで画面の解像度が飛躍的に上がったでしょ。」 「4Kとか8Kとかですか?」 「そう。だから、昔と同じ画角でも見える度合いが全然違う。」 「情報量が多いってことですね。」 「そう、いやがおうにもね。だから、選択の余地がなくて疲れちゃうのよ。まぁ、それがいいか悪いかは別だけど。映画の場合は強調したいところ以外はフォーカスを合わせないっていう手法を使うけどね。」 「たいていの絵画は、全部にフォーカスが来ていますよね。」 「そう。この絵も言ってみれば、パンフォーカス。でもね、」  ミアは絵画が醸し出す空気感をなんとなく感じている自分に気がついた。 「感じ方によって見るところが違うってことですか?」  女史は笑顔で軽くうなづいた。 「それだけでなく、見え方が違うって言ってもいいかもしれない。」 「確かに。感じる絵と何も感じない絵っていうのもあるんです。」 「もちろん、それぞれの絵画には普遍的な解釈ってのはあるし、私はそれを探求するのが仕事ではあるけど…。」  マンチーク女史はどこかに困惑の表情を見せている。そしてそっとミアに耳打ちした。 「本当にそれが正解なのかどうかは、それを描いた画家にしかわからないと思う。」 「シモネッタさんの研究は、常に精密で奥深く的を得ていると聞いています。」  女史はウフフと肩をすくめて再び笑顔を見せた。 「そうだといいんだけどね。」 「そういえば…、絵には関係ないかもしれないですが。」 「?」 「ヴィーナスのモデルはシモネッタ。マンチーク女史もシモネッタ。そして、私のお母さんもシモネッタ。まさに、」 「シモネッタ三姉妹!」  マンチーク女史はヴィーナスのポーズをしてみせた。  ミアはすかさず携帯で写真を撮った。  画面に映った彼女の笑顔はいつになく嬉しそうだった。 「ミア。」  マンチーク女史がヴィーナスをバックにミアとセルフィーを撮った。   × 「ミアから送られてきた展示状況は、この前のバーチャルとは違うな。」 「保護状況が強化されているようですね。最近美術館をターゲットにする圧力団体の輩とかいますから。隙間から何かかけられたらおしまいですからね。」  櫻井くんは画面を拡大したり縮小してりしている。 「ガラス越しに撮影するしかないのか…。」  教授はうーんと腕組みをしながらソファーに横になった。 「この際、女史に頼んで生絵にしてもらうしかないですかね? 教授。」  振り返ると彼はソファで腕を組んだままスヤスヤと眠りに落ちているようだ。 「…。」  と誰かが入ってくる気配がした。 「あら、櫻井くん? 今日はデートじゃなかったの?」 「晩御飯は彼女のアパートで食べることになっていますが…。」 「ここのところ教授の所に入り浸りなのね。」 「ええ、結構ここのゼミ室は居心地がいいんです。それで、現場の解析とAIとの付き合い方を、」 「付き合い方って?」 「僕にもわからないこと数多くあるんです。圧倒的なデータから出てくる答えはその速さと緻密さには驚かされます。しかし、冷静に検証すると、おかしいところもいくつかあるんです。だから、いろいろと試して経験値を上げておこうかと。」  頼りになるな。 「教授が言ってるんです。」 「なんて?」 「知らないうちにフェイクに加担することにならないように注意しろって。」  それにしても、彼がいろいろ協力しているのに昼寝とは。いい加減おじいちゃんなのかしら本当に、もう。はぁとため息をついた。 「妄想してるんだよ。」 「昼寝しているんじゃなかったの?」 「もう夕方だぞ。少し空想の旅に出ていた。どう攻略しようかとね。」  何カッコつけてんの? 下手くそな言い訳。 「どうせまたいやらしいこと考えているんでしょ? ヴィーナスの裸とか。」  教授は片目を開けてこちらを見たかと思うと再び瞑想に入ったようだ。 「私たち、あの絵の何が目的なのか知らないわよね? 櫻井くんは?」 「確かにそうですが。」  と、突然教授が立ち上がった。 「集中することが重要なんだ。」  彼は私のことをじっくりと下から上まで舐め回すように見た。  なんだかゾクっとする。  が、目が合うと、一瞬の間をおいて自分の鼻を押さえて背中を向けた。 「?」  床には数滴の赤い滴りが…。 「鼻血?」  教授は天井を見上げている。 「ちょっと、本当に何想像してるの? ヘンタイ? そうか、血圧が高いのね。」 「ビタミンK不足ですよ、きっと。それとも…。」  櫻井くんは意味深に私を見た。 「教授は繊細なんですよ。誰かさんと違って。…あっ。」 「ちょっと、どういうこと?」  櫻井くんが教授化してる。もう。  手にしていたビニール袋をドンとテーブルに置いた。 「三峰亭の寿司弁当か?」  教授の鼻詰まりな声。 「どうしてわかるの? 匂いしないでしょ鼻血で。」 「音だよ。」  んなわけない。 「うそ!」 「食べたいと思っていたんだよ。」 「気が利きますね〜。」  櫻井くんの目が怪しい。 「ごめん。あなたの分はないわよ。」 「僕はこれからデートですから、ごゆっくり。」  彼は微笑みながらそそくさと帰る準備を始めている。 「あ、電源は落とさないでくださいよ。」  パソコンの画面に映っているヴィーナスの上半身を見ていると扉の閉まる音がした。  ここのお寿司はいつ食べても美味しい。 「やっぱり、シャリだな。」 「え?」  ネタがいいんでしょ?  美味しいものを食べている時の彼の表情は子供のように純粋だ。 「以前、北欧のレストランに入った時に日本人ですか?って聞かれて、そうだよって答えたら、新しくメニューに寿司を加えたいから、ぜひ試食してとシェフに言われてね。」 「どうだったの?」 「ネタは新鮮で良かったんだけど、シャリがダメなんだよ。」 「寿司メシってこと?」 「やっぱり、普段からご飯を食べてないからかな。寿司メシどころか、基本的な米の炊き方がわかっていない感じ。」 「私たちにとっては、当たり前のことがダメなのね。」 「見た目はいいし、作ってみる努力は買うけど、それが本物の寿司かと言われるとやっぱり違う。ただ、」 「?」 「シェフ自身も何かがおかしいと思っていて試食を頼んだってわけ。」 「問題点が明確になったってことか。」 「行き詰まった時にこそ、視点を変えるのが必要なのかな。」  彼は少し顎をしゃくり上げながら私を見た。 「何よ、偉そうに!」 「は?」 「あなたの場合は、いつも変な視点から見てるから、たまにはマトモにものを見る必要があるんじゃないの?」 「おい。」 「今回のヴィーナスにしたって、何が目的なの? 私は未だに何も聞いていないわ。教えてくれないんなら、あの衣装着るのやめる。」  私はプイと拗ねた。  と、教授はポンと拳を叩いた。 「お、発見した!」 「何?」 「その歳でそんな可愛い表情を見せるんだ。」 「だから!」 「いや、わかっている。櫻井くんまで巻き込んでいることに責任は感じている。」  鼻にティッシュが刺さっている彼の眼差しが鋭さを増していく。 「実はだな…。」  周囲に誰もいないことを確認すると、最後にとっておいたマグロのにぎりを頬張る私の耳元で彼が囁いた。 「んなわけないだろ!」  マグロが喉に詰まって咳き込んだ。 「大丈夫か?」  教授は私の背中を優しくさすりながら、まだほんのり温かい湯呑みを渡してくれた。 「だって!」  私は一番大きく描かれている『ヴィーナスの誕生』のサンプルを本棚から引っ張り出して一点を凝視した。更に、パソコン上にある絵のその部分を目一杯拡大して見た。  解像度が追いつかない。 「よくわからない。」  振り返ると探究心いっぱいの彼の表情。何か込み上げてくるものを感じながらもう一度目を凝らして見た。 「あ…確かに…、というか、もしかしたら…、」 「だろ? ということはだ。」 「ま、まさか。」  教授の視線が私の目の奥に刺さっている。  冗談がすぎる。 「でもそれは、そういう先入観で見えるだけなんじゃないの?」 「いや、そんなことなどあり得ないという思い込みがあるから見えないんじゃないのか?」  あぁ、どっちがどっちだかわからない。 「いや、もちろん、これはあくまで個人的な仮説だ。だから、」 「AIの力を借りるってこと?」 「まぁ、それを全面的に信用するかどうかは別として、裏付けになればいいなくらいだけどね。」 「でも、櫻井くんには言ってないんでしょ、このこと。」  教授は首を横に振った。 「これは2人だけの秘密だ。」 「なんで?」 「それこそ、私の仮説という色眼鏡で見て欲しくないと思ってね。」 「ほら、やっぱジジイ!」 「?」 「色眼鏡なんて死語だよ。」  そう言いながら、彼の最後の握りをつまんで食べた。 「あ、おい!」 「さっき詰まらせたのは、あなたなんだからね。」  私は嬉しさが込み上げてフフッと笑った。 「ど、どうした?」 「あなたも美味しいものは最後に残しておくタイプなのね。」  彼は私を見ながら口をパクパクさせている。  × 「日本では毎日こんなもの食べてるの?」  マンチーク女史はオレンジ色のシャケを頬張りながらミアを見ている。 「ええ。魚は結構食べますね。で、お口にあいますか?」 「とっても美味しいわ。ご飯もふわふわでいつもと違うし、ミソスープも。」 「良かった。」  彼女の箸の使い方はとても自然だ。 「ミア。部屋が見つかるまでって言ってたけど、研修中はずっとここにいてもいいのよ。」 「でも、色々とご迷惑かと。」 「ううん。こうやって時々食事を作ってくれると嬉しいな。一人だとね、なんか適当になっちゃう時があって。あなたがいると思うと、私も頑張って作ろうかなっていう気にもなるし。」  彼女のフラットはそこそこ広く、街に近い小高い丘の中腹で静かで便利もいい。美術館にもちょっとした散歩のノリで行ける。  ミアはどうしようかなと目をキョロキョロさせた。 「あなたの負担になるようだったら引き留めないわ。」  彼女の言葉が心に響く。 「お邪魔でないのであれば…。」 「決まりね。」  マンチーク女史は冷蔵庫から小ぶりのシャンパンを取り出して、ミアをバルコニーに呼んだ。  ポン! 軽快な音が響く。 「シモネッタって呼んで頂戴ね。ミア。」  重ねたグラスの金色の泡の向こうには藍色の帳にライトアップされた大聖堂のドームと鐘楼が逆さまに小さく映っていた。 「ところで、イタリア語はどこで覚えたの?」 「まだまだなんですけど、中学生の頃から興味はあったんです。父が時々使っていたし、すごく明るい歯切れのいいトーンが好きで高校の時からネットで。いえ、本格的に始めたのは大学に入ってからですけど。」 「へー、現代っ子らしいわね。でも、いい感じよ。」 「もちろん、わからない言い回しとか、難しい単語もまだまだあるんです。」 「大丈夫よ。言葉は生きているっていうでしょ。」 「はい。」 「でも、それだけに、ここで生活しているとフィレンツェ弁になっちゃうかな?」 「え〜?」 「大丈夫。美術館の人たちは綺麗な標準語を話す人たちがほとんどだから、それに慣れれば、街中の言葉が面白く感じるくらいよ。フィレンツェは職人の街だから尚更ね。」 「でも…、」  ミアの表情はどこかいたずらっ子ぽい。 「?」 「インテリジェントな感じで方言話した方がインパクト大ですよね?」  マンチーク女史の目がまんまるになっている。 「ミア、あなた、本当にシンジの子供ね。頼もしいわ。」  ミアは体を少し強張らせてグラスを持ったまま深くお辞儀をした。 「ここにいる間、よろしくお願いします!」  彼女もそれを真似てお辞儀をすると、ゴチンと頭が当たって視界に小さな花火が上がった。  ×  朝、出社すると早速BBの部屋に呼ばれた。櫻井くんもいる。 「沢山さん、来週アムスに飛べますか?」  まず口を開いたのは彼だった。 「櫻井くんが美術館と話をしたら、来週末には『夜警』が通常展示に復帰するらしいのよ。」  BBも真剣な眼差しだ。 「私としては、額が外れて大きなガラスケースに囲われている絵の状態で撮影したいですね。」 「私もそう思う。そちらを優先しましょう。櫻井!」 「はい。」 「すぐに航空券を手配して。2枚よ。沢山と私の分。」 「え?」 「当然私も行くわよ。あなたのアシスタントでいいかしら。」  BBは可愛らしく首を軽く傾げた。 「撮影スタッフは現地で手配でいいですか?」  櫻井くんが聞いてきた。 「ええ。コーディネーターに確認してもらって。」  知り合いのコーディネーターは優秀な撮影スタッフを知っている。スケジュールが合えばいいが。 「それと…、」 「その後でフィレンツェの女史にインタビューでしょ?」  BBはすかさず反応した。まだ教授の計画は知られていないはずだけど。 「そちらも現地スタッフでいいですか?」  櫻井くんは私を見ながらクールな表情を崩していない。 「ええ。その方が勝手がいいと思う。」 「決まったわね。私はマンチーク女史にアテンドするから、櫻井、スケジュールの調整と航空券の手配をお願いね。」 「わかりました。できるだけ早く情報をください。」  BBは親指を立てた。 「ところで、教授のことだけど…、」  不敵な微笑みで私に目配せしている。櫻井くんと2人の目線が…。  やばい。 「ま、まず、シン…、いや、か、彼にイン、インタビューですかね。」  口がうまく回らない。 「いや、この状況だから、とりあえずは彼は私たちが帰ってきてからでいいんじゃないの?」  BBの提案に櫻井くんは黙ってうなづいている。  彼は次のターゲットがウフィッツイだってことを知ってはいる。しかし、 「そういえば、教授はヴィーナスが…、」 「櫻井くん!」  私は彼の言葉を慌てて遮った。 「そう言えば、この前VRゴーグルで見てたのは…。」  BBが眼差しが疑いの色に変化していく。 「あ、いえ、きっといつもの教授の妄想です。この前はムンクとか言っていたし、ねえ?」  櫻井くんをギュッと見つめて同意を促した。 「あぁ、そうでした。裸のマハとかも言っていました。だから、いろんな美術館の3D散歩をしている段階です。」 「ふーん。相変わらずね。変な後遺症とかないといいけれど。で、あとはよろしく。これから忙しくなるわよ。」  私たちはBBに一礼して部屋のノブに手をかけたところで後ろから声がした。 「零、何か彼の動向を掴んだら、私にも教えてよ。」 「は、はい。」 「危険なことはさせたくないの。私たちのためにも。」    喉がカラカラだ。櫻井くんを自販機のブースに誘った。 「私が奢るわよ。」  という間もなく彼は自販機に話しかけている。 「僕の分と、沢山Dの分を。」  ピッと腕時計をかざすと支払い終了のサインが出た。 「渋いな。沢山さんは昆布茶ですか?」  自販機にカメラがついているのか、勝手に顔認識され、画面上に私の写真、その下に以前のデータからか昆布茶と表示されている。  なにこれ、相変わらずムカつく。  ”変更される場合は販売機の前に正対してボタンをどうぞ”と書いてある。  すぐに合成音が聞こえてきた。反応が早い。 『レイさんこんにちは。今日のアナタはお若く見えます。ボタンを押してください。』  こいつ、お世辞まで言うようになったのか!   と、廊下からは城長Pと若い女の声が聞こえてくる。私は櫻井くんと奥のテーブルに移動した。 「私、この自販機大好きなんです。」  反対側の新しい自販機の前に立っている。 「ほら、この数字見て!」 「ほう〜、見た目通りってことだね。」  城長Pの甘ったるい声。背中が痒い。  二人はきゃっきゃ言いながら飲み物を持ってその場から立ち去った。 「沢山さん、お茶はいいんですか?」 「いらない。私、この自販機大っ嫌い。」  誘っておきながら引き攣った笑顔で櫻井くんを見ると、彼は一歩下がりながらうなづいて私の分を返金操作した。 「ところで、教授は行かれるんですか?」 「多分…。私はフィレンツェで教授と合流することになるわ。あなたも行きたいの?」 「いえ、僕はここで万全の準備をしたいと思います。データさえ送ってくれれば、すぐに解析できますから。」 「でも、時差があるでしょ?」 「若いから関係ありませんよ。」  彼は爽やかにウインクしてみせた。 「あ」  私の表情はその『若い』に引っかかっていたに違いない。 普段はそんなこと気にしていないのに。   × 「そこの美しいお姉さん!、あなたが来るのを待ってましたよ。」  英語で誰かに話しかけている声が聞こえた。  でも周りにいるのはおばあちゃんばっかりだ。ミアはどこから声がするのかキョロキョロした。 「おまえさんだよ!」  恰幅のいい白衣を着たおじいちゃんが吊り下がった肉の間から手招いている。 「わたし?」  ミアがイタリア語で返すと、彼は両手をあげた。 「フィレンツェに住んでるのかい?」 「まだきたばかりです。」 「じゃあ、こいつはどうだ!」  彼は大きな肉の塊を持ち上げた。 「フィオレンティーナ? 一人じゃ食べられないわ。」 「じゃぁ、俺が食いにいってやるよ。ガハハ。」  ミアは片手をつまむようにして目の前に持ち上げると、彼は何かを持ち上げた。 「トリッパはどうだ?」  ミアは鼻に皺を寄せながら首を横に振った。 「なんだ。ここら辺の名物だぞ。」  うーんと考え込んだかと思うとピーンと頭の上に電球が灯ったような笑顔を浮かべて、顎でショーケースの先を促した。  ミアはつられてガラスを覗き込んだ。 「新鮮なチンギアーレの挽肉だ。」 「!」 「これでパスタを作ると美味いのなんの。このマーケットで材料は全て揃う。」 「パスタはなにがいいの?」 「いうまでもなくピーチだ。」 「ピーチ?」 「そう。この先のパスタ屋で売っている。」 「じゃぁ、まず見てくる。」   「ピーチだろ。」  パスタ屋のおばちゃんはミアを見るなり、並んでいる生麺を指差した。 「太麺なんだ⁉︎」 「ムチムチだよ。」  表面は少しザラザラしている。ちょっとイタズラっぽい表情を見せて携帯を取り出した。 『シモネッタ、今日も夕食作ります!』 『いいの?』 『何時頃お帰りですか?』 『8時前には。』 『了解!』 『楽しみ〜!』  おばちゃんはもうパスタを包んでいる。 「最初だから、少しおまけしといたよ。あたしと同じで器量が良さそうだからね。ウヒヒ。」  買ってきたパスタを見せると、おじいちゃんも赤い挽肉を既に紙の袋に盛り付けている。 「あのババア、可愛い娘を見ると自分と同じとか言ってすぐに大盛りにするんだ。って、負けるわけにはいかねえ。」  値段を聞くと驚くほど安い。 「また待ってるよ。ボナペティート。」  イタリアはたくさんのおじいちゃんが楽しそうに働いている。 「グラツィエ モルトジェンティーレ!」  ニンニク、オリーブオイルはとてもいいものが台所にあるのは確認済み。あとは…。  ミアは八百屋で粋のいい兄さんと会話を弾ませて小ぶりのパキーノとバジルを頼むと、いいものを見つけた。 「よし。ミアオリジナル!」  メルカートチェントラーレの高い天井にこだまする活気にその声が吸い込まれていった。  台所に木のまな板を置くとカランという音が響いた。イタリアの昔ながらの建物は集合住宅でも天井が高い。トントントンととニンニクを刻む音が音楽のようだ。  と、その音の混じって携帯が震えた。 「ミア、帰るの少し遅くなるかも。」 「どうしたんですか?」 「重大事件発生なの。後で話す。」 「夕食は食べられるようにしておきます。」 「ありがと…。」  言葉途中で携帯は切れた。テレビをつけると、赤い帯が画面に入っている。ブレイキングニュースだ。 「本日ウフィツィ美術館で環境保護団体の若い男女2人が『ヴィーナスの誕生』にペンキをかけ、手を張り付けるテロが起きました。幸い絵画はガラスに覆われており無事でしたが、現在2人の手を剥がす作業をしていて、それが終わり次第逮捕される模様です。」  ミアは美術館へ行きたい衝動に駆られたが、それはおそらく混乱を招くだけだ。マンチーク女史がてんやわんやで対応しているのが目に見える。 「よし。」  エプロンをきゅっと締め直した。帰ってきたらすぐに美味しいものが食べられるように。 『帰る前に一報ください!』  とりあえずメッセージを入れた。具材はあらかじめ作っておいて、メッセージが来たらピーチを茹で始めれば、熱々ホクホクにできる。テレビを消して調理に集中した。 「ただいま〜。」  ミアが玄関に迎えにいくとマンチーク女史の肩にはいつにない疲労が浮き出ている。時計を見ると、もう日付が変わっていた。それでも、エプロン姿のミアを見ると女史の表情が和らいだ。 「あら?」  キッチンからいい匂いがしている。大好きな匂いだ。 「メッセージをいただけたんで、もうすぐパスタが茹で上がるところです。」 「お腹ペコペコよ。」  マンチーク女史はバスルームに駆け込んだ。 「チンギアーレのピーチね!」 「トラディショナルとは少し違うんですけど…。」  熱々の湯気越しに覗くと確かにパキーノが可愛くのっていたり、バジルが散りばめられていたりで、色彩豊かで普通のものよりさらに美味しそうだ。 「ボナペティート!」  ワインで乾杯した。 「アンティパストがないんですけど。」 「シンプルでいいの。」  と女史はパスタを口にした。 「ン⁉︎」  驚いた目をしてミアを見ると、もう一度パスタを口に運んだ。 「なにこれ? モルトブォーノ!」  ミアはホッとして自分も食べ出した。 「思ったより美味しいかも。」 「は? 作ったことなかったの?」 「はい。今日マーケットに行って即興でアレンジしたんです。」 「このほんのり感じるアロマは何かしら?」 「なんだと思います?」  濃厚なチンギアーレのミートソースのどこかに感じる美味しい違和感。 「どこかちょっと和風、なのかしら。」  さすがマンチーク女史。 「実は、椎茸とネギを細かく刻んで、そして味醂と醤油が隠し味として…。」 「べースの味を生かしているところが最高。奥がある。センスあるなぁ。」  ミアはぺろっと舌を出した。 「お口に合って嬉しいです。ピーチがうどんっぽいなって思って、日本から持ってきた調味料をちょっと使いました。」 「困ったわ。」 「?」 「あなたがいると太っちゃうかも。」  疲れが一気に飛んだようだった。 「ニュースで見ましたけど、大変だったみたいですね。」 「そう、絵には被害はなかったんだけど、防護ガラスを再検査する必要があるので、絵自体は避難させたわ。」 「避難?」 「そう、地下の保管庫にね。あそこは安全なの。」 「そんなところがあるんですね。」 「ええ、いろんなものが眠っている。まだ世に出ていないものとかもあるわ。」 「美術館よりも面白いかもしれませんね。」 「確かに。」  いつの間にか女史の皿にはほぼ何もなくなっている。 「いつ絵は元に戻るんですか?」 「そうね。10日後くらいかな。」  皿に残ったソースをパンで掬い上げてそれを一口で頬張ると、女史はフウと美味しいため息をもらした。       × 「来週頭に私たちはアムスに飛びます。」 「って、明後日? で、私たちって?」 「私とBB。」 「そこで3日ほど撮影してフィレンツェに。」  教授は私の瞳をキュッとつかむように見つめて餃子をつまみ上げた。 「この店は、東京で三番目に美味しいと言われてるらしい。」  もう、真面目な話をしてるのに。  少しふてくされて私もパクッと口に放り込むと 「あ、ほんとだ。美味しい。」  付け合わせがキャベツだけど、それもいいコンビネーションだ。 「俺たちはついているな。」  教授は目の前にスッと携帯を差し出した。 「?」 「どーこだ?」  絵が展示されている廊下には規制線が張られていて大きな額だけが残っている。 「これはウフィッツイの…、絵はどこに?」 「地下にある保管庫。」 「ミアちゃんの情報?」  ポリポリとキャベツを噛みながら教授はうなづいた。 「10日間はそこにあるらしい。」 「それって…。」 「呼ばれてるんだよ。あのヴィーナスに。いや、求愛されてるのかな?」  ったく都合のいいように決め込んでいる。能天気もいいところ。  でも、なんだかその言葉に誘われて胸の奥から身体が火照ってくる。 「零、おまえさんはアムスに飛ぶが、同日便で俺はフィレンツェに飛ぶ。向こうで準備して待ってるよ。…どうした?」  嬉しいけど、また何か起きそうな予感。自分の心臓の音が耳の奥でこだまする。 「今日は俺が奢るよ。」 「いつもケチなあなたが?」 「打ち上げじゃなくて、打ち入り。」  どうだと何か勝ち誇った表情。  何よ! 「それにしては安上がりじゃない⁉︎」  私は彼の口元に最後の餃子をもったいぶりながら優しく運んだ。 「アーン。」 「くれぐれもあの衣装忘れるなよ!」  もぐもぐしながらいつものように鼻の下が伸びている。 「スケベジジイ!」  大きい口を開けて言ったら、相当ニンニク臭かった。  ×  グラッパをクイっと飲んだマンチーク女史の瞼はずっしりと重そうだった。 「いろいろあるけど幸せかな。ボニッシモ。ミア、グラツィエモルト。」  お腹がいっぱいになって疲れがどんと表面に溢れ出てきたようで大あくび。  ミアが微笑み返すと彼女はフラフラっと立ち上がってボナノッテという言葉を残して寝室に向かった。  ミアも少し待ち疲れをしてはいたが、ささっと食器を片付けようと台所に立った。 と、まな板に残っていた赤いパキーノがコロコロと床に転がった。  あ、とかがみながらそれを追いかけると、ドンと頭が壁にぶつかった。 「イタタタタ。」  パキーノを拾い上げると、壁の間に隙間ができている。 「あれ?」  少し気になっていた少女の絵がかかっている場所だ。  その隙間に手を差し伸べると、ゆっくりと壁が開いた。 絵の具の匂いがムンと漏れてきた。 「秘密の部屋?」  広い空間ではない。天窓から月明かりが漏れて、イーゼルらしきシルエットが奥に見える。 「アトリエ?」  そろりと中に入ると部屋はたくさんの絵で溢れているようだった。  薄明かりの中ではっきりは見えないが、全て少女の絵?。  「ミア!」  ハッと振り返ると、仁王立ちしているシルエットがそこにあった。 「シモネッタ!」                                                                第三話 了            
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