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2
急に、音が聞こえた。
トラックが通る音と、ピアノの音。
それを聞いて、我に返った。
自殺したら、それこそネットで誹謗中傷されることだろう。
トラックの運転手さんは人生を狂わされるだろうし、私がしたことでお母さんが全部責任を負う羽目になる。ダメだ。ただでさえお母さんには迷惑かけてるんだから。死ぬんだったら、もっと迷惑をかけないようにしないと。
にしてもこの曲。今流行りの、アニソンの曲だ。映画の方の。
駅の広場にはグランドピアノが置いてある。誰もが自由に弾けるピアノだ。誰かがそれを弾いている。
青信号になった時、私の足は帰りのバスではなくて、逆方向のホームに向かっていた。
鍵盤を弾く指は一度も淀まず、堂々と弾くその人の姿に、私は驚いた。
てっきり中高生とか大学生かと思ったのに、私の親と大して変わらない年齢の男性だったからだ。こんな人がアニソンを弾くのか。
けれど、そんなのはどうでもいいぐらい、その人のピアノは圧巻だった。ピアノに詳しくない私でも、上手い人なんだとわかった。
うずうずする。
この伴奏に、合わせたい。
この曲はメロディーも心地よいけど、私は歌詞が好きだ。
この伴奏に、言葉を合わせたい。
もはやピアノの音しか聴こえない。人の声も、電車の音も、どこかへ消えていく。
伴奏が終わり、駅も、私の世界にも音が戻ってくる。
ピアノを弾いていた男性が、立ち上がって、私の方を見た。
「もっと、大きな声で歌ってくれる?」
彼の言葉に、ふと周りを見ると、皆が私を見ていた。
バレないように、小さな声で歌ってたつもりだったのに。どんどん声が大きくなっていた。
目立ってしまった。
そのことに気づいて、パニックになった。
▪
情けないことに私は、その場で過呼吸を起こしてしまった。
幸い気づいてくれた男性が、すぐに私をベンチに座らせ、「息を止めて」と言ってくれたおかげで収まった。私も知らなかった、過呼吸の止め方。
「歌、好きなの?」
結構歌いこんでるよね、と男性が尋ねる。
恥を晒しまくった私は、もうなんかどうでもよくなって、聞かれてもいないことを答えた。
「ネットで、よく歌ってるので、」
最近は視聴回数もいいねも増えているから、人に聴かれても恥ずかしくない程度にはなっている、と思う。ただ頼まれてもないのに人前で歌ったという自分の行為が、許せなかった。
「邪魔して、迷惑かけてごめんなさい……」
自意識過剰。目立ちたがり屋。そんな言葉がまた響く。
なんで自分を抑えられないの。どうして普通になれないの。大して役に立てないのに、人様の迷惑ばっかかけて。
「……歌いたくなるほどのピアノを、僕が弾けていたのかい?」
男性の言葉に、私は俯いていた顔を上げた。
男性は、照れたように笑っていたのだ。
何故、私は自分の身の上話をしているんだろう。
人に聞かれてもいないのに、自分語りなんて、動画サイトのコメントにでも書いたら叩かれそう。
でも、とにかく話したくなった。堰が壊れたように話した。こんなに話すのは久しぶりだった。誰にも話せないことを喋った。
自分の気配を消すように生きた。
自分が好きだと思うことを表に出さなくなったし、出来るだけ皆の真似をした。
そうしたら、目立たなくてすむから。笑われずに、謗られずにすむから。
ここで歌うことは、普通ではないとわかっていたのに。
どうして、目立つようなことばかりしてしまうんだろう。
私が話している間、男性は何も口を挟まないで聞いてくれた。何か反論されたらダメになってしまう私にとって、それはとても有り難かった。
でも話し終えてしまうと、なんだかものすごく、罪悪感を感じてしまう。
「僕の話をしてもいいかい?」
男性の言葉に、私は頷いた。ここまで聞いてもらったのだから、それに報いたかった。
「僕は小さい頃からピアノが好きだったんだけど、父親がそれを許さなくてね。『ピアノなんて女が弾くもんだ』って、どれだけ言っても聞かなかった。僕が賞をとってもね」
その言葉に、私は唖然とする。
彼の父親の言い分が、あまりに時代錯誤で、そもそもピアニストって男性も多くいるじゃんか。
「最後まで『俺の息子がピアノを弾いているなんてバレたら恥ずかしくて死ぬ』って言ってね。もう息子の僕のことすらわからなくなってたっていうのに」
「す、筋金入りですね」
「そう。それだけ、許せなかったんだね。自分のことが」
男性の言葉に、私は目を見開いた。
自分のこと? 息子さんである、あなたじゃなくて?
その疑問が伝わったのか、「父は、負い目を感じてたんだよ」と男性が言う。
「息子を男らしくないように育てたのは、自分のせいだ、って。その間違いを認めたくなくて。逆に言ったら、それだけ自分にも課せてたんだね」そこで区切って、彼は言った。
「何かをすることや、何かをやらないことで、自分のつとめをはたせると思ったんだ」
――何かをすること。
私にとっては、それは『学校に行く』ことで。
――何かをやらないこと。
私にとっては、それは『目立つこと』で。
『ぼく』も、歌も、全部目立つことだから。
「でもね。そう否定されたとしても、例え父を傷つけてたとしても、僕は、ピアノを辞められなかった。
ピアノは、僕にとっての『呼吸』だったから」
君も、そうなんじゃないか?
そう尋ねる男性の顔は、とても穏やかで。
『呼吸』。
『ぼく』も歌も、私にとっては呼吸だった。
呼吸出来ないのは苦しい。呼吸を否定されるのは、『死ね』と言われているようなものだった。
だから『死ね』と言われないように、自分の存在がバレないように、息を潜めるように。
自分を抑えて、浅い呼吸ばかり繰り返すのは、苦しかった。
でもよく考えたら。
『呼吸をするな』という人間の言うことなんて、聞かなくてよかったね。
私が苦しかったのは、たったそれだけのことだった。
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