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 急に、音が聞こえた。  トラックが通る音と、ピアノの音。  それを聞いて、我に返った。  自殺したら、それこそネットで誹謗中傷されることだろう。  トラックの運転手さんは人生を狂わされるだろうし、私がしたことでお母さんが全部責任を負う羽目になる。ダメだ。ただでさえお母さんには迷惑かけてるんだから。死ぬんだったら、もっと迷惑をかけないようにしないと。  にしてもこの曲。今流行りの、アニソンの曲だ。映画の方の。  駅の広場にはグランドピアノが置いてある。誰もが自由に弾けるピアノだ。誰かがそれを弾いている。  青信号になった時、私の足は帰りのバスではなくて、逆方向のホームに向かっていた。  鍵盤を弾く指は一度も淀まず、堂々と弾くその人の姿に、私は驚いた。  てっきり中高生とか大学生かと思ったのに、私の親と大して変わらない年齢の男性だったからだ。こんな人がアニソンを弾くのか。  けれど、そんなのはどうでもいいぐらい、その人のピアノは圧巻だった。ピアノに詳しくない私でも、上手い人なんだとわかった。  うずうずする。  この伴奏に、合わせたい。  この曲はメロディーも心地よいけど、私は歌詞が好きだ。  この伴奏に、言葉を合わせたい。  もはやピアノの音しか聴こえない。人の声も、電車の音も、どこかへ消えていく。  伴奏が終わり、駅も、私の世界にも音が戻ってくる。  ピアノを弾いていた男性が、立ち上がって、私の方を見た。 「もっと、大きな声で歌ってくれる?」  彼の言葉に、ふと周りを見ると、皆が私を見ていた。  バレないように、小さな声で歌ってたつもりだったのに。どんどん声が大きくなっていた。  目立ってしまった。  そのことに気づいて、パニックになった。    ▪  情けないことに私は、その場で過呼吸を起こしてしまった。  幸い気づいてくれた男性が、すぐに私をベンチに座らせ、「息を止めて」と言ってくれたおかげで収まった。私も知らなかった、過呼吸の止め方。 「歌、好きなの?」  結構歌いこんでるよね、と男性が尋ねる。  恥を晒しまくった私は、もうなんかどうでもよくなって、聞かれてもいないことを答えた。 「ネットで、よく歌ってるので、」  最近は視聴回数もいいねも増えているから、人に聴かれても恥ずかしくない程度にはなっている、と思う。ただ頼まれてもないのに人前で歌ったという自分の行為が、許せなかった。 「邪魔して、迷惑かけてごめんなさい……」  自意識過剰。目立ちたがり屋。そんな言葉がまた響く。  なんで自分を抑えられないの。どうして普通になれないの。大して役に立てないのに、人様の迷惑ばっかかけて。 「……歌いたくなるほどのピアノを、僕が弾けていたのかい?」  男性の言葉に、私は俯いていた顔を上げた。  男性は、照れたように笑っていたのだ。  何故、私は自分の身の上話をしているんだろう。  人に聞かれてもいないのに、自分語りなんて、動画サイトのコメントにでも書いたら叩かれそう。  でも、とにかく話したくなった。堰が壊れたように話した。こんなに話すのは久しぶりだった。誰にも話せないことを喋った。  自分の気配を消すように生きた。  自分が好きだと思うことを表に出さなくなったし、出来るだけ皆の真似をした。  そうしたら、目立たなくてすむから。笑われずに、謗られずにすむから。  ここで歌うことは、普通ではないとわかっていたのに。  どうして、目立つようなことばかりしてしまうんだろう。  私が話している間、男性は何も口を挟まないで聞いてくれた。何か反論されたらダメになってしまう私にとって、それはとても有り難かった。  でも話し終えてしまうと、なんだかものすごく、罪悪感を感じてしまう。 「僕の話をしてもいいかい?」  男性の言葉に、私は頷いた。ここまで聞いてもらったのだから、それに報いたかった。 「僕は小さい頃からピアノが好きだったんだけど、父親がそれを許さなくてね。『ピアノなんて女が弾くもんだ』って、どれだけ言っても聞かなかった。僕が賞をとってもね」  その言葉に、私は唖然とする。  彼の父親の言い分が、あまりに時代錯誤で、そもそもピアニストって男性も多くいるじゃんか。 「最後まで『俺の息子がピアノを弾いているなんてバレたら恥ずかしくて死ぬ』って言ってね。もう息子の僕のことすらわからなくなってたっていうのに」 「す、筋金入りですね」 「そう。それだけ、許せなかったんだね。自分のことが」  男性の言葉に、私は目を見開いた。  自分のこと? 息子さんである、あなたじゃなくて?  その疑問が伝わったのか、「父は、負い目を感じてたんだよ」と男性が言う。 「息子を男らしくないように育てたのは、自分のせいだ、って。その間違いを認めたくなくて。逆に言ったら、それだけ自分にも課せてたんだね」そこで区切って、彼は言った。 「何かをすることや、何かをやらないことで、自分のつとめをはたせると思ったんだ」  ――何かをすること。  私にとっては、それは『学校に行く』ことで。  ――何かをやらないこと。  私にとっては、それは『目立つこと』で。 『ぼく』も、歌も、全部目立つことだから。 「でもね。そう否定されたとしても、例え父を傷つけてたとしても、僕は、ピアノを辞められなかった。  ピアノは、僕にとっての『呼吸』だったから」  君も、そうなんじゃないか?  そう尋ねる男性の顔は、とても穏やかで。 『呼吸』。 『ぼく』も歌も、私にとっては呼吸だった。  呼吸出来ないのは苦しい。呼吸を否定されるのは、『死ね』と言われているようなものだった。  だから『死ね』と言われないように、自分の存在がバレないように、息を潜めるように。  自分を抑えて、浅い呼吸ばかり繰り返すのは、苦しかった。  でもよく考えたら。 『呼吸をするな』という人間の言うことなんて、聞かなくてよかったね。  私が苦しかったのは、たったそれだけのことだった。
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