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弟子
いっそ宗二のように、切って捨てれば良いものを。
山上宗二は、堺の豪商の生まれで、縁は20年ほどあり利休の高弟ともいえる間柄であった。しかし商人茶人としての宗二は、利休とは異なる道を辿っていった。
宗二の死は、昨年の4月。あれからもうすぐ1年となるのだ。月日の流れのなんとも早いことよ。
かつての日々を思い出すと自然と涙が流れる。季節のように時に任せれば、またいつかは良くなるかと思わぬでもなかったが。どうやら今日の嵐に倒れる木々のように、利休も手折られる側となったようだ。
次の確かな芽吹きを見れぬことは、何とも悲しいことである。
利休は大永2年堺の商家に生まれてから、生涯の大半を堺で過ごしてきた。生家の周囲は職人の多く住む界隈で、雪駄を考案したり、そういえば越前一向一揆の際には、利休は信長公に鉄砲の玉を1000ほど都合するなど、武器商人としても貢献したものだった。
利休は豪商生まれの方々とは異なり、当時から堺の町衆で流行っていた茶道に入るのも易々なことではなかった。
茶道は教養、豊かさ、格式などの象徴にもなり、茶道に秀でているかどうかが、その人物の評価に直結していた。
利休が家柄に左右されず、生き抜くためにも己の知力で必死に会得すべきと定めたものが、まさに茶道であったのだ。
それから秀吉に茶堂筆頭として仕え、禁中茶会や北野大茶湯の開催に尽力し、世に『天下一の茶の湯者』と称されるまでに半世紀が過ぎようとしている。
その結果,豊臣政権下の諸大名は競って千利休の門弟たらんと欲するようになり,利休は自然と諸大名の情報通となっていったのだった。
利休の茶に魅了され弟子となった武将の中には、蒲生氏郷をはじめ、細川ガラシャの夫・細川三斎、高山右近、古田織部らがいる。太閤殿下から堺の自邸に蟄居を命じられた時も、前田利家、古田織部、細川忠興らの弟子達が助命嘆願をしてくれていた。
なんともありがたきことである。
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