何も常のごとく

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何も常のごとく

 まだ辺りは薄暗い闇に包まれ、夜通し降り続いている雨も吸い込まれて姿を見せず。露路や飛石に激しく打ちつける音のみが、銅鑼のように鳴り響いていた。  陽の出る直前の井華水(せいかすい)を汲むために、寅の上刻には常のごとく井戸に向かう。このような折であっても、()の場の庭を抜け北の門から静かに聚楽屋敷を出ることにお咎めはなかった。迷いのない所作で晴明井より清らかな水を汲むと、雨水で穢されないように心をくだきながら屋敷へと立ち返った。  激しさを増す雨にしたたか打たれ濡れそぼった作務衣は、すでに桜が散りゆく季節とはいえ寒さを感じずにはいられなかった。  それでも、天の節気が変われば水の質も変わる。  人は天から生まれ、水穀によって養われている。それ故に日毎汲みたての清水を、吟味して用いるのだ。  それは茶人として生かされている利休にとって、この上なく基本的な心得である。  この屋敷内にも椿と名付けられた井戸が、大徳寺山門の古い部材で建てられた井戸屋形と共にある。  ほかの茶人が最も使う椿を、利休は一度も茶席では用いたことがない。武家にとって、椿は忌み花であるとともに、明日をも知れぬ方々の目には過ぎると思っていたからだ。  さすがに椿の井戸から井華水を汲む気にはなれず、利休はこのような日だからこそ山崎の名水でも汲み上げたいものだと願ったものの、さすがにそれは許されまいと小さく笑みを浮かべた。  ようやく薄暗い中にも、陽の兆しが見えはじめる。そんな雨粒が姿を現す天を仰いだまま動かぬ利休に、身体を憂いた宗恩(そうおん)が着替えをそっと促した。
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