さる

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さる

 そうした利休の生い立ちは、太閤殿下と重なるところがあったのだろう。家柄とは、血筋とは、よるべなき世の如何なる時を経ても揺るぎない(しるべ)となる。そのような後ろ盾が無い、ふたりであった。  天正13年の殿下の禁中茶会で、その後見のため正親町(おおぎまち)天皇から利休居士号を賜った。利休64歳のことである。  しかし茶堂の利休にとっての標はここに極まれるかもしれぬが、太閤殿下はそうはならない。世は戦国。  名もなき生まれから、6歳で光明寺に預けられ、17歳で織田信長公に仕えはじめた。秀吉公が45歳で『本能寺の変』にて主君を失い、その年山崎の戦いの際に、利休が陣中に招かれ秀吉公に慰労の茶室を建てたことに始まる。この時、利休はすでに61であった。  秀吉公が預けられた西山浄土宗の総本山光明寺は、長岡京市西山のふもと、粟生広谷にある。 「どんなに罪が深かろうと、念仏を一心に申せば必ず救われる」という法然上人の専修念仏の教えに従って修行されたのであれば、その後の太閤殿下の苛烈極まる所業も救われるのであろうか。  何にせよ秀吉公が、天下人となられるほど卓越した人物であったことは間違いない。標なき身の不安がいくらでも湧き上がる日々の中で、圧倒される力を徹底した恐怖と金で創り上げた。  しかし教養はまた別である。所詮卑き身の上と蔑まれずにおるために利休は選ばれ、それに対して非の打ち所がない知力にて天下人となる秀吉公をお支えしたのだ。  結果は満足のいくものであったに違いない。それを証拠に、太閤殿下は聚楽屋敷に自ら何度も出向き茶を所望された。他の諸大名の如く。そのご信頼いかばかりかと、ありがたく思うのだった。  聚楽第が完成したのは、利休66歳の時。程なくこの屋敷を賜って以来、太閤殿下は造作が気に食わぬなどと申されては茶を喫していかれる。  大和大納言様が申されていた内々のこととは、数多の書くことのできぬ茶の湯の秘伝に他ならない。授ける際には秀吉の許可を得て目の前で行う事などと、緩やかな注意を受けもしたが、利休と大名たちの茶の湯を通じたつながりは、こころの奧の無言の世界。  ひとたび茶室に入れば、そこには無限に広がる悠久の『美』が遊んでいる。ただただ、その身を委ねながら茶道を学べばそれでよい。  そんな時に、ふと漏らされる一言は香と共に消える。  「ワシは、他人(ひと)からサル呼ばわりされたこともあるが、そなたも皆もよくよく見ればサルであろう。」  
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