漆黒の娘

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漆黒の娘

「すみません! こぼしてしまって」 「いいのだよ。君は大丈夫かい」  函館区公会堂の夜会。葡萄酒を持っていた朔弥はモダンガールに水をかけられてしまった。 「本当にすみません。窓辺で上着を脱いでください」 「そこまでしなくても」 「……旦那様。ここは危険なんです。どうか私についてきて」  深刻に話す娘が気になった朔弥は、言われるまま腕を組んで窓辺にやってきた。 「窓の外を見ながら聞いてください……私、東京から仕事で函館に来たんですが、先ほど化粧室で女の人たちが、貴方様に葡萄酒をかけて話すきっかけをつくるって言っていたので」 「それで先にかけてくれたのか」 「はい……でもほとんどかかっていません。今は拭いている真似をしています」 「ほお……助けてくれたんだね」 「差し出がましいと思ったんですが、ちょっとやりすぎだと思ったので」  そしてモダンガールはこれで大丈夫だと言った。 「では、これで」 「待ってくれ。君は東京のどの会社かな」 「岩谷合資会社です」 「岩谷……タバコの会社だったところだね」 「ご存知ですか」  驚く彼女は、事務員だと言った。 「今回は新人研修で社長の荷物持ちで函館まで来たんです。社長は。あ、いた? こっちです!」 「墨子、探したぞ? ああ、どうも」  朔弥は墨子に助けられたと言った。 「私は岩倉貿易の専務。岩倉朔弥と申します」 「岩倉様? 自分は岩谷栄二と申します」  栄二は額の汗を拭い握手をした。 「実は、今回函館に来たのは、あなた様にお会いしたくて参ったのです」 「私にですか? どのようなご用件で」 「……自分は、軍人をしていたのですが」  いきなり社長になって奮闘をしているが、貿易のことを詳しく知らないので困っていると打ち明けた。 「そこで北の狼、岩倉さんにご教授を」 「やめてください。そこまでではありません」 「そんなこと言わずにお願いします」  栄二は頭を下げた。朔弥は深呼吸をした。 「君。墨子さんと言ったね。葡萄酒を頼む」 「はい。社長の分も持ってきますね」 「では、待つ間、相談に乗りましょうか」  栄二はロシア貿易のことを聞いてきた。 「ヨーロッパで紛争が起きた時、物資の移動ができなくなると思います。その時、我が国の品を輸出したいのですが、自分の会社は無名なので、取引先が相手にしてくれないのですよ」 「そうでしょうね」 「最初は誰でもそうだと思います。そこで岩倉さんは、貿易を始めた頃はどうだったのかと思いまして」 「同じです。信用してもらえませんでしたよ」 「やっぱり」  朔弥は窓方の風を浴びた。 「とにかく実績ですね……約束を守る、ということを継続するしかないです」 「地道に行くしかないのですね」 「ええ。それと、失礼ですが、岩谷さんは岩谷さんの名前で取引しようとしているんですか」 「そうですけど」    朔弥は微笑んだ。 「もったいない。なぜ『天狗タバコ』の名前を使わないのですか」 「え」  朔弥の言葉に栄二は、驚き息を呑んだ。朔弥は両手を広げて語る。 「『岩谷』は無名ですが、かつての看板商品の『天狗タバコ』の名前なら、一発だ。すぐ取引してくれますよ」 「では、『天狗タバコ』という社名で取引せよと」 「そうです……『岩谷天狗タバコ会社』かな? 私ならそうします」 「なるほど」 「お待たせしました! どうぞ」  墨子が持ってきた葡萄酒を朔弥と栄二で乾杯して飲んだ。 「ふう! 函館に来た甲斐がありました」 「いいえ。私は何も」 「そんなことはありません。今後、岩谷で協力できることがありましたら、なんでもおっしゃってください」 「なんでも……そうですね。だったら」  朔弥は情報を交換していこうと話した。 「岩谷さんとうちは扱う品が違うので、競争相手にはなりません。我々には互いに利点があると思います」 「嬉しいです……」 「よかったですね。社長」 「ああ、なんとお礼をしたら良いか」  すると朔弥はじっと墨子を見た。 「お礼なら、そのお嬢さんにどうぞ」 「え。私ですか」 「そうです。どうぞ、函館の夜をお楽しみください」  そう言って朔弥は会場を後にした。早めに帰ってきた朔弥を清子が出迎えた。 「お疲れ様でしたね」 「本当だよ……」  風呂を済ませた朔弥は、疲れのまま布団に入った。清子が灯りを消しにきた。 「まだ髪が濡れていますね。拭きますよ」 「……もういい」 「ダメです。ささ、目を瞑っていてもいいので」 「見えるんだ」 「ん?」  蝋燭の灯りだけの部屋で彼は目を瞑っている。 「目を瞑っていても、お前の姿は見えるんだよ」 「ふふ……どんな清子に見えますか」 「新聞を手に……俺の方を向い……」  朔弥は寝てしまった。清子は髪を拭くとそっと灯りを消した。  ……清子もいつも見えていますよ。おやすみなさい。  漆黒の闇の部屋には、月明かりが射してくる。朔弥の寝息に微笑みながら清子は静かに襖を閉じたのだった。 fin 🌸コミック発売記念🌸 大正ロマン作品と特別コラボ開催です❣️ 第三弾「漆黒のモダンガール〜大正ロマン、日陰の恋は静かに囁く〜」 コラボは一旦、おしまいです💦 今は書籍2に向けて執筆を進めています。 次回の更新は8月予定です。 ご愛読ありがとうございます♪    
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