秘書は甘くない

1/1
前へ
/19ページ
次へ

秘書は甘くない

 岩倉ビルの専務室。彼は書類を手にした。 「朔弥。小樽貿易から返事が来たぞ。これに夏のロシア便の」 「知らない」 「え。ここにはお前からの提案だって書いてあるぞ」 「知らない。俺は帰る」 「おい待て。どうしたんだ」  朔弥はブスッとした顔で頬杖をついた。 「……今日は午前中で帰る予定だったんだ。それなのにこんなに束縛されるとは聞いていない」 「しょうがないだろう? どれも急ぎの仕事なんだから」 「せっかく今日は、清子が蒸しパンを」 「わかったから! 蒸しパンは逃げないって! ほら、とにかく小樽に電話するぞ」  なんとか宥めた近藤は、電話し相手に代わった。朔弥はムッとしながらも受話器を受け取った。 「おお、静弥(しずや)君。どうだい? 小樽運河の倉庫は……そうか。君は建設しないのか。そうだね……私も建設しないね。無駄じゃないか、あんなにあっても。飽和状態だろう……ふふ。別に? 建てたい人には建てさせればいいじゃないか……」  ……ご機嫌だ。  小樽貿易の社長は、小樽の風雲児と呼ばれている新進気鋭の若者である。一度、夜会で会っただけであるが、父親を亡くし後ろ盾のないまま社長をしている彼を朔弥は珍しく好感を持ち、電話で話す間柄になっている。  向こうは岩倉貿易よりも小規模であるが、ロシアへの輸出に強く朔弥は頼りにしている。互いに仕事は被らず、むしろ協力し、他の会社に対抗している関係である。そんな小樽貿易の青木静弥と楽しく電話をしている間、近藤はそっと部屋を出て事務所に顔を出した。 「誰か、駅前で、アンパン。いや? 団子でもいいから買ってくれないか」 「近藤さん、ちょうど、今、買ってきたどら焼きがありますが」 「それでいい! あとで買って返すから」  これを持った近藤は、まだ笑顔で電話している朔弥の手元にどら焼きを置いた。その足で、社長室に顔を出した。 「社長。良かった。いた」 「なんだ?」  元栄社長は珍しく事務処理をしていた。近藤は書類を差し出した。  「この事業の出資についてですが、専務がうちの要望をまとめてくれました」 「どれ……なんだ。これは、聞いていないぞ」  ……これはあなたが言い出したんですけど?  多忙なのか、思いつきで言ったのか知らないが、確かに元栄の指示で始めたことなので近藤はカチンときたが、話を進めた。 「これは、社長が持ってきた話のはずです」 「そうか……そう言われればそうだな……だが、これをする必要があるのか?」  ……だから言ったでしょ!  朔弥も自分もそう言ったのに、忘れている元栄にカチンときたが、近藤は続けた。 「それは、当初から専務も指摘していました。ですが社長がどうしてもというので、試算した結果、そういう数字になっています」 「そうか……わかった。まあ、考えておくよ」  ……あ、没にする気だ……  だが、こうなると思っていた近藤と朔弥は、元栄が事業を諦めるような計算にしてあった。予感的中、作戦成功の近藤はニヤリと笑って部屋を後にした。 「朔弥! やったぞ、おっと」  静弥との電話はまだ弾んでいた。にこやかな朔弥を見た近藤は、もう一人の岩倉を探した。 「あ。いた、哲嗣君」  彼は事務所の経理と話をしていた。経理は哲嗣に説明をしているが、話が見えない様子である。 「どうしたんだい?」 「近藤さん。俺の買い物が経費で落ちないって言うので」 「どれどれ、哲嗣君は何を買ったんだい」  領収書には『猟銃』とあった。 「だめだよ」 「俺もそう思うんですけど、父上が確認しろって」  ……社長!……もう!やだ……  元栄の自由度がある発想に近藤も哲嗣もため息をついた。すると経理が思案した。 「でもそうですね。会社の防犯にはなりますものね。それに倉庫に熊が出た時、実際に哲嗣さんが追い払ってくれましたこともあったので、これは預かって税理士に確認します」 「そう。ではよろしく」   ……え? 経費で落ちるの? 猟銃が?  驚きの近藤は、それでも気を持ち直し、哲嗣と話をしながら朔弥の元に戻った。朔弥は電話を終え、どら焼きを食べている。 「ん、正孝。このどら焼きはつぶ餡だったぞ。俺はこし餡が好きなのに」 「しょうがないだろう」 「俺も食べます」 「……あ、みんないたのか。ちょっと思いついたんだが」  専務の部屋に元栄がやってきた。朔弥と近藤と哲嗣は元栄を見つめた。 「函館と青森を結ぶ橋を架けようと思うんだ! どう思う? 」    キラキラした目の元栄に三人はため息を出した。 「……正孝、俺は帰る」 「ふう! 俺もちょっと出かけてきます」 「何だ、お前たち、その態度は、近藤、なんとかしろ」 「……まあ、落ち着いてください! このどら焼きでもどうぞ。まず、そうですね、冷静になりましょう……」  昼下がりの函館は晴れて空気が乾燥していたが、岩倉ビルの社長室はこの日も彼のおかげで快適で平和な気温が保たれている。 完
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2743人が本棚に入れています
本棚に追加