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五月晴れ
「朔弥様。清子様、失礼します……あら」
……静かだと思ったら。
五月晴れの陽気の中、二人は畳の上で寝落ちしていた。襖を開けた瀧川はそっと部屋に入った。
……朔弥様が寝てしまったので、清子様も、寝てしまったのね。
微笑ましい若い二人に目を細めた彼女は、そっと肌掛け布団を取り出し二人に掛け、部屋を後にした。
最近、多忙だった二人を休ませようと彼女は静かに廊下を歩いていた。
「すみませーん! 若松屋ぁ」
「静かに! しーー!」
勝手口から聞こえた御用聞の源の元気な声を瀧川は静めた。
「おお、源よ。静かにしておくれ。お昼寝をしている人がいるのです。ええと、そうね。今度来る時は、お酢をお願いね」
源を送り出した瀧川は、ひと段落し、部屋でくつろいでいた。すると庭の物置の戸がバタン、バタンと音がした。
……ちゃんと閉めなかったのかしら。
今朝、戸を開けた瀧川は庭に出た。やはり開けっぱなしであったので慌てて閉めた。
……ふう! これで静かになった。やれやれ。
瀧川は屋敷に入ろうとした。その時、声がした。
「すみません。ちょっといいですか」
「何でしょう」
玄関には背広を着た男が立っていた。彼はにこやかに声をかけてきた。
「はい! 私は美しくなる石鹸を販売しておりまして」
「要りません」
「いえいえ聞いて下さい。奥様、これはですね」
しかし瀧川は要らないと男の背を押した。
「奥様。これは今だけ特別に」
「要りません! 私は美しいので、要らないです。帰ってちょうだい」
男を追い払った瀧川は部屋でやっと腰を下ろした。すると今度は台所の窓辺で小鳥の鳴き声がした。
……なんでしょう……あ!
古いような気がした小豆を天日干しにしていたのを瀧川は思い出した。慌てて台所に行くと窓辺にはスズメが停まっていた。
「だめ! あっちに行け!あーあ……」
小豆は少し食べられてしまった。瀧川は落ち込みながらも現場を片付けた。
その後も回覧板が来たり、近所の猫が鳴いたりしたり瀧川は音に悩まされた。
……にゃあにゃあ!
「静かにおし! ほら、餌をあげるから! はあ、はあ」
……もう、疲れた。
やっと静かになった部屋で瀧川は思わず眠ってしまった。
「瀧川さん? まあ」
……静かだと思ったら。
瀧川は畳の上で寝落ちしていた。昼寝から目覚めた清子は、瀧川にそっと肌掛け布団をかけてそのまま寝かせた。この様子を朔弥に告げた。
「また寝ているのか」
「お疲れなのですよ。そっとしておきましょうね」
「……歳だな……こっちは仕事で忙しいのに」
……あ、畳の跡が。
朔弥の頬には畳の跡がくっきりついていた。それは清子についていた。
「ふふ。では私、お台所に行っていますね」
「私は紙細工を仕上げている」
「そうですか」
「……清子」
立ち上がった清子に朔弥は小気味よく声をかけた。
「言っておくが、瀧川のために静かにしても意味がないからな」
「どうしてですか」
「ん? 食べ物の匂いで起きてくるからさ。ハハハ」
「まあ? ふふふ」
函館の空は眩しい青空が広がっている。新緑を濯ぐような潮風は、街に濃い酸素を送っている。清子は温かい気持ちと五月の眩しい日差しに目を細めている
Fin
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