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危険な味
……買いすぎてしまったわ。
午後。買い物帰りの清子は、海峡通りを歩いていた。市電に乗っても良いが、もうすぐ岩倉家下屋敷がある坂道である。
……うう。この牛乳が重かったわ。
瓶は重いし割れるかもしれない。清子は他の買い物を品に気を配りながら歩いていた。その時、背後から声がした。
「姉さん! 帰るところかい」
「源ちゃん」
若松屋の源は、集金の帰りだと言い、清子の荷物を持ってくれた。
「悪いわね」
「いいんだって。それよりも、これは牛乳か」
「そうよ」
源は清子がカゴに持っている品を見た。
「そいつは卵だね……そして、バター」
「そうよ」
「この前、俺は蜂蜜を配達したから……もしかして。またパンケーキかい」
「よくわかったわね」
「へへへ」
源は嬉しそうに指で鼻の下を擦った。そんな彼を清子は坂道を上っていった。
「そうだわ。パンケーキができたら源ちゃんにご馳走するわね」
「やった!」
「でも……そうね。ちょっと相談に乗ってくれる?」
清子は歩きながら語り出した。
「朔弥様はいつも食べてくれるのだけど。たまには他の味、というか違うパンケーキも挑戦したいのよ」
「なるほど」
源はふと、左の家を見た。
「姉さん。あの家で、俺、焼いたパンの上に餡子を乗せたのをご馳走になったことがあるよ。パンケーキに餡子も美味しいかもよ」
「なるほど」
「他にはね」
源は他の家でご馳走になったお菓子を語り出した。清子は熱心に聞いた。
「それはパンケーキの生地にニンジンが入っているのね」
「うん。綺麗な色だったよ。味も甘くて美味かったな」
「朔弥様はニンジンが嫌いだから試そうかな」
「他にもね。カボチャの餡や、枝豆の餡でしょう。あ。サツマイモも合うと思うよ」
「すごいわ……ありがとう」
「へへへ!」
こうして清子は屋敷に到着した。玄関をそっと開けて荷物を下ろそうとした。
「遅かったな」
「うわ!」
勝手口にはムッとした顔の朔弥が腕を組んで立っていた。清子はびっくりした。
「なぜ驚く……そこにいるのは源だな」
「はい。旦那、そこで姉さんに会ったんで。荷物を運びました」
「……まあいい。清子。早く入れ」
朔弥は清子の肩を抱いた。源は荷物をそっとおいた。
「旦那、ここにおきます。姉さん。失礼します」
「はい。……じゃあね。源ちゃん。ありがとう」
戸が閉まると、朔弥は機嫌悪そうにため息をついた。
「ずいぶん時間がかかったな。心配したぞ」
「すみません、買いすぎてしまって」
……くそ。私をこんなに心配させおって。
帰宅が遅かった清子を朔弥は案じていた。だが、それを口にすると女々しい男と言われそうだと思った朔弥は、清子の頭に手を置いた。
「……まあいい。お茶を淹れてくれ」
「はい」
そう言って朔弥は部屋に入ってしまった。彼の不機嫌の理由がわからない清子はこの日はお茶を出して過ごした。
翌日。清子は台所に立っていた。
……よし! 今日こそ作ろう!
源の助言を聞いた清子はパンケーキを作り出した。瀧川は町内の集まりに出かけており、朔弥も会社に出かけていた。そんな中、清子はニンジンパンケーキの試作を作っていた。
……どうかな。ちょっとこれはニンジンを入れすぎたかしら。
色が綺麗であるが、試作品を前に清子は不安になっていた。その時、玄関から声がした。
「清子さん。いるか」
「あ。ど、どうも」
そこには元栄がいた。
「瀧川はおらぬか。納戸に入っているものを出したいのだが」
「どうぞ」
元栄は慣れた様子で廊下の奥へ進んだ。そして納戸を開けてガタガタと何かを探していた。
「今夜会う客が欲しがっているんのだ……ええと、どこにあるのだ」
「もっと部屋を明るくしますか」
「いや、見えてはいる……おかしい。確かここにあったはずだが」
「どんなものですか」
元栄は木箱に入った茶碗を探していた。その大きさを聞いた清子は探し当てた。
「目の前の、それではありませんか」
「おお? これだ」
発見した元栄は嬉しそうに納戸を出た。元栄は包むものが欲しいというので、清子は彼を居間で待たせ風呂敷を持ってきた。
「少し拭いてから包みますね」
「助かった……それにしても。良い匂いがするな」
「はい。実はパンケーキを焼いておりまして」
「ほう」
「……よ、よければ召し上がりますか?」
「ああ」
……ああ、緊張するわ。
一対一で話をすることがなかった清子は、緊張しながらお茶とパンケーキを出した。
「これが、パンケーキか。どれ、これは?」
むしゃむしゃ食べる元栄に清子はドキドキしながら見ていた。
「バターの香り……それに、やけに色が赤いが、美味いな……これは何だ」
「あの……ニンジンです」
「何? ニンジンだと?」
急に動きを止めた元栄に清子はびくとした。
「そうか……ニンジンか」
「どうされましたか」
不安でいっぱいの清子に元栄は、つい言葉をこぼした。
「いや、私はニンジンを食べない主義なものでな」
「すみません! 私、知らなくて」
……どうしよう、失礼なことをしてしまったわ。
謝り片付けようとした清子は皿を掴んだ。しかし、元栄も掴んだ。
「いやいい」
「でも」
「いいのだ……そうか。これがニンジンか」
そういうと元栄は食べてしまった。清子はあっけに取られていた。
「そうだな、朔弥に食べさせるならもっとニンジンを細かくした方がいいな」
「はい」
「……それと生地を甘くして、その分、餡の甘さを控えた方がいい」
「はい!」
元栄は笑みを湛え、フォークとナイフを置いた。
「……以上だ。さて、私は帰る」
「はい」
清子は元栄に木箱を持たせ玄関で見送った。去っていく元栄の背に頭を下げて送ったが、緊張で汗だくになっていた。
……でも本当にお口にあったのかしら。
ニンジンが嫌いだというのに綺麗に平らげた元栄が不思議だったが、とにかく屋敷に戻り清子は一休みをしていた。
この夕刻。清子は帰宅した朔弥を出迎えた。
「これはパンケーキの匂いだな……清子。私の留守中に誰かが来ただろう」
「はい。あの、それは」
「源にパンケーキを試食させたな? 私よりも先に」
「違います。あの、そうではなく」
朔弥は話を聞かず、上着を脱ぎながら怒っている。
「では隣の姑か。そうだろう」
「違います。朔弥様のお父様です」
「父が? なぜ」
「納戸にある茶碗を取りにいらして。その時にパンケーキがあったので」
「父上が……まあ、いい」
元栄と聞いた朔弥は、憮然としながらも部屋で待っていた。そこに清子がパンケーキを持ってきた。朔弥は食べた。
「これは?」
「どうされましたか」
動きを止めた朔弥は、ふと首を傾げた。
「以前、どこかで食べた味だ……どこだ、これは」
「元栄様もそのようなお顔で食べていました……どこかのお店でそういうものがあったのかもしれませんね」
「ああ。それにしてもニンジンか……これは美味いぞ」
最初はむすとしていたが、朔弥はご機嫌で朔弥は食べ終えた。翌日、朔弥は会社で元栄にパンケーキのことを尋ねた。
「父上。あの味ですが、昔、どこかで食べたことがあると思うのですが」
「お前も気がついたか。あれは私の母親が作ったものだ」
「お婆様ですか」
「ああ……私がニンジンが嫌いだったから」
今はもう亡くなった元栄の母が、ニンジン嫌いの彼のために作ってくれたケーキの味に似ていたと彼は笑った。
「私も昨日知ったよ。母がニンジンを入れていたことを」
「そうでしたか……」
二人は元栄の母と清子が体を気遣ってくれている気持ちが、心に染みていた。なんとも言えない空気を二人はしみじみ噛み締めていた。
「失礼します……あの専務。昨日の工場の件ですが」
空気を割って入ってきた近藤は朔弥に尋ねたが、朔弥は想いに耽っていた。
「後で聞く」
「……では。社長。銀行の融資の件ですけれど」
「今はそっとしておいてくれ」
……なんだ、この空気は。
元栄と朔弥の心が飛んでいる様子を見た近藤は、渋々と部屋を後にした。
「あ。哲嗣君。君は大丈夫かい」
「何のことですか」
通常運転の哲嗣に近藤はホッとした。
「ちょっと聞こえたんだけど。どうやら社長も朔弥もパンケーキの話をして、様子がおかしいんだ」
「おそらく清子さんの作ったものでしょうね……では自分が下屋敷に行って話を」
「だめ! 行くんじゃない」
近藤はむんずと哲嗣の肩を掴んだ。
「君までおかしくなったら困るんだ」
「でも、清子さんに注意した方が」
「いや。危険だ! ミイラ取りがミイラになる。行かない方がいい」
真顔の近藤に哲嗣はわかったと、服を直した。
「それよりも、そのパンケーキはどんなものなんでしょうね」
「さあ?……まあ、あの二人を感動させるくらいだからね」
これに続く近藤の言葉は聞こえなかったが、哲嗣には伝わった気がした。
「そんなに美味しいなら。やはり俺が直接」
「はいはい! わかっているなら行かなくていいでしょう。さあ! 仕事! ね、やりましょう!」
近藤は社長室の扉を開けた。部屋には函館の潮風が一気に入ってきた。岩倉ビルの社長室は、今日も優しい空気に包まれている。
fin
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