函館新聞

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「あ!? 朔弥さん、大変です! 本当に大変なんですよ」 「……その声は岡崎さんですね」 「はあ、はあ、すみません。つい、興奮してしまって」 「こんにちは。水野です、お騒がせしてしまってすみません」 「いいのですよ。さあ、おかけください」  岩倉家下屋敷にやってきたモダンガールに朔弥は椅子をすすめた。清子はすぐにお茶を運んできた。 「どうぞ。いつもお世話になっています」 「こちらこそ! ええと、本日は良い知らせを持ってきました」 「朔弥さん。詩集の増刷が決まったんですよ」 「それは、それだけ売れた、ということですか」  驚きの顔に清子も笑みをこぼした。 「すごいですね。朔弥さまおめでとうございます」  清子にも拍手をされた朔弥は恥ずかしそうに頬を染めた。 「やめなさい、それに売れたのは水野さんや岡崎さんのおかげじゃないか」 「いいえ。私どもは本を作っただけですもの」 「そうです。すべて朔弥さんのおかげです」  そんな二人は、ホクホク顔で説明を続けた。 「この詩集があまりの評判なので、函館新聞でぜひ、取材をしたいと私どもに打診がありました」 「朔弥さん。どうかお引き受けください」 「……そんなことを言われても……どうする? 清子」 「そうですね……」  思案しながら清子は水野を見た。 「その取材は、どういうものですか? 詩集がどんなものか知りたいとかですか」 「おそらく。詩集を出した経緯とか、詩集が売れた朔弥様のお気持ちを知りたい、とか、だと思いますよ」 「気持ちですか」  この日も返事は保留した清子と朔弥は、二人が帰った後話し合いをした。 「その取材、私はしなくて良いと思う。詩集は読みたい人が読めばいいし、私の気持ちなど詩集には関係ない話だ」 「朔弥様の気持ちはわかります。自慢になってしまいますものね」  清子は力強く頷いた。 「これは断りましょう」 「あの二人には申し訳ないけれどな」  申し訳なさそうに髪をかきあげる朔弥に清子は微笑んだ。 「大丈夫ですよ。水野さんも岡崎さんもわかってくれますよ」  任せてください! と清子は胸を叩いた。そして後日、朔弥が不在の時に二人が訪れた。 「そうですか……でもそうですよね。私どもは朔弥様のお気持ちを尊重します」 「大丈夫ですよ! でも、ちょっともったいないですね」  岡崎は詩集の読者の気持ちを語った。 「読者はどんな人が詩集を書いたのか、知りたいと思っているんです。それを朔弥さんに語って欲しかったけれど、まあ、仕方ないですよね」 「詩集は朔弥様の叔父の礼司さんですものね……そうだわ! 岡崎さん、それは朔弥様じゃなくても良いのではありませんか」  清子は礼司を朔弥以外の人に語って貰えば良いと提案した。清子は瀧川を呼び、水野と岡崎と一緒に考えた。 「礼司さんを知る人に取材ですか……そうですね。一番知っているのは兄に当たる大旦那様ですけれどね」 「忙しい方にはちょっと」 「他にいませんかね」 「礼司さんの友達ね……仕事以外の人か……うーん……」  思い出す瀧川の顔を三人はじっと見ていた。その時、勝手口から声がした。 「若松屋です! 奥さん! ここに砂糖を置いておきますね」 「まあ、大きな声で……全く、あの子は、そうだわ!」  瀧川は立ち上がると三人に待つように微笑みを残して部屋を出た。そして戻ってきた時、答えを三人に与えてくれた。   ◇◇◇ 「朔弥様。函館新聞の詩集の特集記事が載っています」 「ああ。忘れていた。そういえば、結局、あの取材は誰に頼んだんだ?」 「ふふ、まず読みますね」  清子はある人物が詩集を評価している記事を読み上げた。 「『岩倉礼司氏と一緒に基坂を歩いた記憶が蘇るこの詩集は、函館文学の礎である。寄稿:函館市民文学協会名誉会長 若松巌(わかまついわお)』 「若松とは、どこかで聞いた名だな」 「この方は若松屋のご主人です」 「え」  驚く朔弥を清子は笑った。 「ご主人は若い頃、文学青年で、礼司様と交友があったそうですよ」 「叔父と」 「はい。瀧川さんが教えてくれました。それに」  若松屋の主人は、この詩集を多くの人に勧めてくれていたと清子は明かした。 「それは初耳だ。何かの形でお礼をしないとな」 「朔弥様。それは断られてしまいました。本当に良い詩集なので勝手に勧めただけだと、おっしゃって」 「……そうか」  夕暮れの部屋にいた朔弥は窓の外を見た。 「ちょっと羨ましいな」 「え」 「引きこもっていた叔父にも、そんな友人がいたんだな……俺は多分、誰もいないだろうな」 「そ、そんなことありません!」  清子は朔弥の背に寄り添った。 「朔弥様はものすごい人気ですよ。ご存知ないかと思いますが、いつもみなさん朔弥様を注目しているんですから」 「……清子は?」 「へ」  朔弥は清子を胸に抱いた。 「お前は私を注目していないのか」 「していますよ。いつも」 「もっとしておくれ。私ね。欲張りなんだ……」 「わかりました! ふ。ふふふ……」  岩倉家下屋敷の窓の外には海が広がっている。日は水平線に沈まず、その光を薄く飛ばし、薄い青や桃色を濃淡で滲ませている。聞こえるのは船の汽笛に二人は互いの鼓動を愛しく抱きしめている。 完
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