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朧の詩
「清子、参るぞ」
「お待ちください」
急かす朔弥に焦りながら清子は玄関を出た。晴れの天気の二人は岩倉家下屋敷を出発した。
「良い香りだな。これはアカシアか」
「そうですね。若葉が綺麗です」
二人は寄り添いながら石畳の八幡坂を下った。五月の函館の日差しは、初夏の用意を始めていた。二人は海を眺めながら八幡坂を下り始めた。
「お仕事は明日からですよね」
「正孝はそんなことを申していたな」
「良いのですか? 後で確認をしましょうか」
「いいんだ。どうせ勝手に来る、おっと」
横道から車が来た。音でわかった朔弥は立ち止まり車を行かせた。
「清子? どこにいる」
「……いますよ。ちょっとお花を見ていました」
「今の時期は、なんだ」
「イギリス領事館のお庭の薔薇がちょっと見えました」
歩き出した清子は朔弥と腕を組んだ。
「咲いているのか」
「いいえ。まだ蕾です」
「……好きならば、うちの庭に植えると良い」
「ううん。いいのです」
清子は沿道の家の庭に微笑んだ。
「薔薇は手入れが大変なんです。消毒とか肥料とか。それにこんなに函館の街には色んな花が咲いているんですもの。清子はそれを見せていただくだけで十分です」
「まあな、自分で手入れせずに済むしな」
「まあ? ふふふ」
笑顔の二人は坂下の海峡通りに進み、そこから市電に乗った。ガタゴトと揺れながら電車は北へ向かう。やがて市電は最終駅の「函館どっぐ」に到着した。
「朔弥様。道路を渡りますよ」
「ああ、そして、この階段だな」
「そうです」
「……難儀だが、参るぞ」
「はい!」
見上げた階段の高さに覚悟を決めた二人は、ゆっくりと上がって行った。そして境内にきた。
「朔弥様。左手に神主さんがいらっしゃいました。こんにちは」
「ようこそ岩倉様」
「お世話になります」
清 子と朔弥は神主に挨拶をした。神主は二人を部屋に案内してくれた。
「さて、改めてよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。清子。例のものを」
「はい。これです」
「これは……本ですか」
「はい」
清子が布を広げて差し出した物を、朔弥が説明した。
「詩集『朧』と言います。実は、これは私の叔父が書いた物なのです」
叔父の遺品の中には原稿があった。清子は詩だと朔弥に伝え、二人で読んだと明かした。
「それが素晴らしい詩だったので、5月15日に、その作品を詩集として出版することにしたのです」
「なるほど。それでは、商売繁盛の祈願ですね」
「商売繁盛……清子。どうする」
何か違うと思った朔弥は、隣に座る清子に尋ねた。
「そうですね。他にはどんな祈願ができますか」
「あとは家内安全、厄除開運などですね」
うーんと二人は唸り出した。その様子に神主は苦笑いをした。
ここで神主は巫女に呼ばれてしまったので退室した。清子は祈願の種類を朔弥と相談し始めた。
「読みますね。五穀豊穣とありますが」
「違うな」
「学業成就は」
「違う」
「健康長寿」
「遠くなった」
「弱りましたね……」
考え込んだ朔弥に清子は尋ねた。
「朔弥様は詩集を作る時、『この本が売れますように』というよりも、この詩集を読んで楽しく過ごして欲しいって、言っていましたものね」
「そうなんだが、こうしてみると適したものがないように思えるな」
すると廊下を歩く音が聞こえ、挨拶と共に襖が開いた。
「遅くなりました。出版社の水野です」
「私は編集担当の岡崎です」
「朔弥様。本の出版でお世話になっている水野さんと岡崎さんです」
朔弥は二人の女性に振り向いた。
「声でわかったよ。今日は忙しい中、ありがとうございます」
朔弥に笑顔の挨拶に二人のモダンガールは謙遜した。
「こちらこそ光栄です。岩倉さん。詩集は大変な人気なのですよ」
「そうなんです。反響がすごくてもう大変で、あ?……ええと、祈祷は向こうになりますか」
二人の問いに清子は何の祈祷をすればいいか悩んでいると打ち明けた。
「そうですね……何になるかしら」
「『必勝祈願』じゃ、違うか……朔弥さんは、戦わない……ですものね」
「そうですね……岡崎さん。私は、戦わない……ですね」
「決まらないですね……」
清子の言葉にうーんと三人は唸ってしまった。
そしてやってきた神主に清子は思いを語った。
「では『笑門来福』というはどうでしょう。意味は笑いの絶えない家庭には自然と幸せが訪れる、という、ものです」
「いかがですか、朔弥様」
「いいな、それで行こう」
「では参りましょう。岩倉さん」
「さあ、どうぞ」
こうして朔弥と清子は、水野と岡崎と一緒に祈祷を受けた。隣に座る朔弥は目を伏せていた。
……そうよね。素敵な詩集だもの。私もみんなに読んでもらいたいな。
祈祷の声が響く中、清子も目を閉じた。四人は静かに祈りを捧げた。
「さて。私たちはこれで失礼します。これから函館の本屋さんにご挨拶回りなんです」
「本を置いてくださる本屋さんに、お礼を言っておきますね」
「お世話になります」
「忙しいところ、ありがとうございました」
朔弥と清子に見送られた二人のモダンガールは笑顔で去った。
時間があった二人は絵馬を書くことにしたが、また文章で迷った。
「どうしましょう」
「……そうだな」
「『ありがとう』にしましょうか」
本を出せることに感謝しようと清子は語った。
「朔弥様が書いてください」
「私が? 」
「はい。大丈夫です。ここに」
朔弥が書いて完成した絵馬を清子が飾った。神主に礼を言った二人は神社の階段を下った。駅に着いたが電車は見えなかった。
「電車はまだきませんね」
「……良いじゃないか」
「え」
朔弥は微笑んだ。
「おかげで清子に詩集を読んでもらえるからな」
「そ、そうですね」
朔弥は隣に立つ清子に甘えるように肩を寄せた。
「鶯の詩があっただろう、それを頼む」
「はい」
清子は染まった頬を隠すように本を取り出した。
「『鶯のうた。微笑む君と ひだまりの春を吸う……』」
薄桃色のを読む弾む声は優しく二人を包んでいる。
Fin
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