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やめとけ
バカらしいことをしちゃったなあ、と、恥ずかしくなって、すぐに顔をあげると、触れていた彼の顎をどけて壁際の方を向いた。
「なんだ、拗ねたのか」
「違います」
「おまえに、No1は無理だって、そういう意味じゃないよ」
「それは関係ないです」
「わかんないけどな」
「私もわかんないです」
何がなんだかわかんないです、中村さん。
やっぱダメだ、離れてたくない、平気じゃないじゃん、私のバカ。
私はどうやら変わってしまったらしい。
全然違う人間みたいになってしまったらしい。
誰かに背中を向けて寝るなんて、よくあることだったのに。
ちきしょう、やられた、もう終わりだ。
私は観念する。
元には戻らないと言うことを、悔しくなるほど思い知る。
わかったよ、頑張るよ、頑張り続けてみせる。
今出来るのって多分、それしかない。
何度だってこうして、中村さんと過ごす為には。
簡単じゃん。
いや、簡単なことじゃない。
でも、すぐにわかった、簡単なことだ。
ただ、成し遂げ続けるには、ちっとも簡単じゃないってこと。
「うた、ちゃんと出勤しろよ」
「わかってます、頑張ります」
「そうそう、おまえのスマホずっと鳴ってたよ」
「ああ、木村さんかな」
「別にいいけどな、あんまヤクザと同伴するなよ」
「なんで?」
「うーん、うたは何も知らないから」
「じゃあ、知りたい、経験値つんで、レベルアップしたい」
「そうかもしれないけど、世の中なんて、知らなくていいことあるから」
「そうなんですか?」
「あるよ、そんなこと、沢山」
中村さんは起き上がって布団から出ると私のスマホを取って来てくれる。
彼から受け取ったスマホには、数名の友人や、ミサや、よくやりとりをしている客たちからラインが届いていた。
その最新の、一番上に来ている人の名前は、やはり木村さんだった。
木村さんは、いつもだいたい同じ時間、今の、14時過ぎくらいに、必ず連絡を寄越すのだ。
『うたこ、今日、同伴かアフター出来るか』
同伴か。
しかも、今日、これから。
私は少し悩んでしまう。
この人は、別に悪い人じゃない。
見た目的には、ガタイもよくてイカつくて、怖く見えるかもしれないけれど、とても優しい人だ。
私に度数の高い酒を一気飲みしろだとか、体に触らせろだとか、そんなことは言って来たことがなかったし、同伴だっていつも一緒に居酒屋で夕飯を食べて少し飲むだけ。
ホテルに連れ込まれそうになったりだとか、風俗に売られそうになったりだとか、そんな漫画だかドラマだかみたいなことだって起こったことはなかったし、私は木村さんのことが嫌いではなかった。
まあ、当然好きでもなかったが。
「偏見かもですよ」
「偏見、ねえ」
「まあでも、中村さんは大人だし、言うことはなるべく聞いた方がいいのかな」
「決めるのはうただけど、そうしときなってしか、言えないな」
「うー。木村さん、今日も同伴したいみたいで」
「まあ、それはうたが決めろ」
「でも、中村さんはオススメしないって感じ?」
「選ぶのはうただからな、俺はこれ以上は言わないけど」
その言葉を聞いて、とりあえず私が結構太い指名客である木村さんにラインの返信を打ちはじめると、中村さんは脱ぎ散らかしっぱなしになっていた下着とスウェットをぐちゃぐちゃになっている布団の中から見つけ出して身につけた。
私に背を向けて、定位置である深緑色のクッションに座ると、煙草に火をつけてノートパソコンを開いている。
私は、そんな中村さんの、少し背骨の浮いた丸まった背中を見ながら、一度作ったラインの文章の内容を削除して、180度反対のセリフへと書き換える。
『今日はもう、他のキャストの女のコとご飯を食べてからお店に行く約束をしてしまったんです。本当にごめんなさい』
でも、その言葉は結局、通じなかったのだ。
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