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第3話 大切な記憶
初めて、《さくら》はお前ではなく《稔流》と呼び返した。
自分の名を、こんなにも優しく呼ぶひとを、ほかに知らない。稔流は両親だって大好きで、祖父母も曾祖母も稔流を可愛がってくれるのに。
この少女が呼ぶ時だけ、稔流は自分の名前が特別で、大切な響きのように思えた。苦しいほどの懐かしさが込み上げて、なかなか次の言葉が出てこなかった。
「……さくらっていう名前、ずっと覚えていてくれたの?」
「忘れる訳がないよ。長い間《なし》だった私に稔流が名前をくれた時から、私はずっと《さくら》と名乗っているのだから」
まるで弟を見守る姉のような口調なのに、その笑顔はとても素直で、姿相応にあどけなく見えた。
伝わって来る。
忘れていた稔流に「気にするな」と言ったのに、さくらという名と存在を思い出して貰えたことが、本当はとても嬉しいのだと。
あの、《神隠し》からずっと――――
稔流は、はっとした。いつか、曾祖母が不思議な話を聞かせてくれたことがある。
この村は、かつては今よりもずっと、陸の孤島のように閉ざされた場所だった。
何処の家でも、四代五代前までくらいの事情なら、簡単に遡って語れる者は珍しくなかった。だから、『誰も知らない子供』などいるはずがない。
それなのに、遊びの途中で人数が増えていたり、終わってみると《誰か》が抜けていることがある。
でも、増えたりいなくなったりした《誰か》が何処の家の何という名の子供なのか、誰も覚えていない――――
しかし、誰も覚えていなくても、その子供は確かに存在するのだと曾祖母は言っていた。
(この家にも、昔から住んでおるよ。稔流ちゃんのひい爺ちゃんが、子供の時に見たことがあると言うとった)
妖怪と呼ばれながらも、精霊のような不思議な存在は、住処とする家を栄えさせてくれる守り神なのだと。
その小さな守り神を《座敷童》という――――
さくらが歳をとらずに幼い姿のままなのは、少なくとも曾祖父が子供だった頃からこの古い家に住む座敷童だからだ。
さくらだけが子供のまま、周囲の人間は成長し、さくらの姿を見ることが出来なくなり、大人になり、老いて、そして死んでゆく。
さくらだけを、この家に残して。
稔流は、泣きたい気持ちになった。どうして、今まで忘れ去ってたのだろう?
《神隠し》に遭った時、稔流を助けに来てくれたのは、稔流に辿り付いてくれたのは、さくらだけだったのに。
早く帰れるようにと、《天神様の細道》を通してくれて、手を繋いで一緒に歩いてここまで帰してくれたのに。
そのことを、さくらはずっと覚えていて、稔流が5年の間ここを訪れなくなっても、稔流が成長して姿が変わっていても、稔流だと気付いてくれたのに。
(名は無いよ。だから、《なし》と呼ばれている)
(でも、なしなんて、かなしいよ)
(だから…)
「さくら…って、名前を付けたの、俺だったのに。今まで思い出せなくて…、忘れていて…ごめん」
胸が痛いくらいに悲しくて、稔流は途切れ途切れに言葉を紡ぎ、謝ることしか出来なかった。
「…ふ」
「さくら…?」
「ふ、ふ…っ」
あはははは、とさくらは笑い出した。
「稔流、いつから『俺』呼びなのだ?頼りなげでちっちゃくて可愛い『ぼく』はどこに行った?あははははっ!」
「重要なのそっち!?」
稔流は本当に心から悔いて謝ったのに、名前も姿も忘れられていた本人は、お腹を抱えて笑っている。
「あのね…さくら。僕キャラは、保育園の年長組辺りでほぼ死滅するんだよ。小学校以上まで続いてる人は、絶滅危惧種なんだよ……」
幼い頃の稔流は、ほんわりと柔らかい気質で、特に大人っぽくなりたいとか格好いい男になりたいとかいう願望もなかったので、何となく『ぼく』が続いてしまった。
でも、小学三年生の時、同じクラスに『ぼく』が自分ひとりだけだと気付いて、急に恥ずかしくなって『俺』に矯正したのだ。
なのに、『俺』にしたらしたで幼馴染の少女に大笑いされるという理不尽。
――――幼馴染、なのだろうか?
「ねえ。さくら」
「ふふ…っ、何だ?」
さくらは、まだ肩を震わせている。笑いすぎて腹筋が痛くなったのだろうか?座敷童に腹筋があるかどうか知らないが。
「人間と座敷童でも、幼馴染っていうのかな」
「……さて」
さくらは、やっと笑うのを止めた。
「お前がそう思うなら、そうなのではないか?」
呼び方が、お前に戻った。そして、さっきまで笑い転げていたのに、心なしか不機嫌そうに見える。
「何で怒ってるの?」
「怒ってなどいない。当たり前だと知っていても面白くないだけだ」
……それを、怒っているというのでは?
と稔流は思ったが、言えば一層さくらが不機嫌になって、姿を消してしまうのではないかと思ってその問いは引っ込めた。
さくらは、稔流のことをずっと覚えていてくれた一方で、もう稔流にはさくらの姿は見えないし忘れていても当然だと諦めて――――それでもきっと、寂しいと心の片隅で思っていたのだろう。
予想外のポイントで大笑いしたけれども、《さくら》を稔流が思い出して、さくらは本当に嬉しそうだった。
『ちっちゃくて可愛いぼく』も『さくらよりも大きくなった俺』も、この不思議な宇賀田家の守り神には、どちらもお気に入りなのだろう。
となれば、さくらが面白くなかったのは、『幼馴染』のひと言だ。何故なのだろう?
「おい、そんなに真面目に悩むな。思い出さなくてもいいし、思い出せなくてもいい。私は、姿が子供のまま成長しないが、稔流は違うだろう。『本当の子供』とは、新しいことをどんどん覚えてゆき、古くて要らなくなったものは思い出せなくなり成長してゆく、そういう生き物だ」
さらりと「要らなくなったもの」と言うから、稔流は言葉に詰まった。
お前ではなく、また稔流と呼んだのも、許してくれたというよりも、さくらがまたひとつ何かを諦めて、折れてくれたから…のような気がした。
さくらのこんな横顔は、以前も見たことがあると、いつかの記憶が重なる。
違うのに。要らなくなったなんて、さくらに言わせてしまった。
自分がまだ思い出せなくても、それがとても大切なことだという事は、稔流にもわかるのに。
音もなく、さくらは濡れ縁から立ち上がった。
「もういいから、これでも食べて湿気った顔を直して男前になれ」
さくらが無造作に放ったものを、稔流は慌ててキャッチした。包装のセロファンに『つぶあん』と書いてある、どこにでも売っていそうな饅頭だ。
売ってはいそうだが、
「…さくらって、お金持ってるの?」
「安心しろ。お前のひい爺様の仏壇からくすねて来た」
「…………」
くすねてきたのに、どう安心しろと。
「このお饅頭食べると男前になるの?」
「知らん」
素っ気なく言って、さくらは背を向けた。やっぱり、怒ってるじゃないか。と稔流は思ったが、――――違う、きっと…
稔流は、母を思い出した。怒って見えるのは――――悲しい時だ。
「…っ、さくら!」
稔流は追いかけて、とっさにさくらの手をぎゅっと掴まえて、
「何をする。妖怪でも痛いぞ」
「あ…、ごめん…」
稔流は力を緩めた。本当は、さくらが痛いと言う前に、怯んだ。
《神隠し》の時は、さくらの方が手が大きかったのに。今掴んだ白い手は、稔流の記憶よりもずっと小さくてか細かったから。
それでも放さずにいたのは、さくらが怒ったまま何処かへ消えてしまうのが、怖かったからだ。
やっと、思い出せたのに。失うなんて、イヤだ。
まだ思い出し切れていない、《とても大切なこと》を忘れたままなのも、さくらに悲しい思いをさせたままなのも、イヤだ。
(その約束は、忘れてもよい。子供はよく覚え、よく忘れるものだ)
(わすれないよ!やくそくは、まもらなきゃダメなんだよ。ぼくは、ぜったい、-------)
「…どうした?茹で蛸みたいな顔をして」
「どうせ、俺はお饅頭食べても男前にならないから、茹で蛸でも何でもいいよ」
言われなくても、自分の顔が真っ赤なのはわかる。
――――やっと、《とても大切なこと》を思い出せたから。
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