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第1章 白い座敷童
第1話 神様と妖怪の村へ
遠くに、歌声が聞こえる。
(通りゃんせ 通りゃんせ)
(ここはどこの 細道じゃ)
(天神様の 細道じゃ)
雪が止んだ夜の空気のように透き通った、鈴を振るような歌声。
(ちっと通して くだしゃんせ)
(御用のないもの 通しゃせぬ)
(この子の七つのお祝いに)
(お札を納めにまいります)
きれいな歌声に踊るように、たくさんの子供がくすくすと笑っている。
…そうだ、この不思議な小径を抜けたなら、
(行きはよいよい)
(帰りは――――)
稔流は、ふと目を開けた。
どうやら、酔い止めを飲んでもなお車酔いして、そのまま眠っていたらしい。
「…ゆめ……」
ぼんやりと、呟いた。
とても懐かしい夢で、切ないくらい恋しい『誰か』とやっと会えたのに、もう思い出せない。
「稔流、大丈夫?」
助手席の母が振り返る。
「うん…平気」
ひたすらヘアピンカーブを登り続ける崖っぷちの道は、舗装もされていない砂利道だ。
車のタイヤの音がうるさくて、どおりで目も覚める訳だ。
「田舎って言うか…ほとんど秘境じゃん…」
稔流の呟きは、風に当たろうと窓を開けたのと同時に掻き消され、運転席の父と助手席の母には聞こえていない。
文句など、言ってはいけないのだから。この引っ越しは、稔流の喘息の悪化がひとつのきっかけなのだから。
それでも、稔流の体がもっと丈夫だったなら。父は新しい就職先はせめて地方都市くらいにしてくれたのだろうか。
(俺の体が、もっと――――)
稔流は、そう口に出したことはない。
返事など、聞かなくても分かっているから。父も母も、こう答えるしかないのだから。
(稔流のせいじゃないよ。ちょうど天道村の病院のお医者さんを募集していたからだよ)
稔流の父は医者で、以前はとある大病院に勤務していた。
夜勤もあるのに有休は殆ど取れず、最低限の医者で仕事を回しているブラックな職場で、父は過労で倒れてしまった。
その時、他の病院で看護師をしていた母が
「もう辞めてしまいなさい。私が養うから」
と男前なことを言ったので、父は半年ばかり無職になった。
しかし、父は倒れるまで愚痴ひとつ言わずに熱心に働いた程度に、他人に尽くすことに生き甲斐を感じるタイプだ。
体調が回復してくると自主的に家事をやり始め、すっかり板についてしまった。
特に料理が上手いので、稔流は将来の独り暮らしに供えて、教えて貰おうかと思っていたところだった。
そんな主夫の鑑みたいな父が突然、にこにこしながら
「次の職場が決まったよ」
と夕食の席で言った。
「ちょっと!いつの間にコソコソと就職活動してたの!?」
母の口調は怒っているようでいて、実はそうではない。…ことを稔流は知っていたので、父が捌いた刺身を黙って美味しく頂いていた。
「ごめんごめん、心配かけて」
父は笑った。父もちゃんと解っているのだ。母は心配が極まると怒って見えるタイプなので、稔流も母が怒っても真に受けないように心がけている。
「コソコソしていた訳じゃないんだよ。実家から電話があってね」
父曰く、父の故郷の天道村の診療所の医師が退職間近なので、引き継いでくれないか、という話を受けた。……受けて、しまった。
「待って…、天道村の診療所って」
母の祖父も天道村出身なので、親戚が今も同じ村にいるし、村の事情はある程度知っている。
「ひょっとしなくても…、村にひとつしかない診療所?住み込みじゃなくて、週に3日だけ通いのお医者さんが来ていた所?」
かつては、土日以外は診療日だったし医者も村民だった。しかし十数年前にその医者が93歳で大往生したので、村が公務員待遇で医者を募集したのだが、なかなか後続が決まらないまま医療不足が進んでいったらしい。
「俺が話を受けた時には、週1って言っていたよ」
「……………………」
母も知らなかった爆弾が投下された。
「鳥海さんも困り果てていてね、そう言えば23年前に宇賀田の家の息子が村から出て行って医者になった気がするって思い出して、実家の方に連絡が行ったんだよ」
「何でキッチリ23年って覚えてるのよ。村民全員のプライバシー検索システムでもあるの?」
「そんな現代的なものはないと思うよ。村民全員の生い立ちが口伝になってるかもしれないけど」
普段あまり冗談を言わない父が言うと、山村のサイコホラーにしか聞こえない。
そのホラーな記憶力の持ち主の鳥海さんは、天道村の村長だ。
天道村では、代々村長は鳥海さんだと決まっている。
村長の任期は他の自治体と同じく4年だ。しかし、任期満了になっても鳥海さん以外に誰も立候補しないので、無投票当選になる。
その鳥海さんが隠居したくなったら、その息子やら孫やら『次の鳥海さん』が立候補して、やはり対抗馬は出ないので、実質世襲制になっている。
常識では政治の腐敗というのだろうが、薄っぺらい歴史の選挙制度よりも重視される伝統であり、今でも高齢者は村長と書いて『むらおさ』と読む『村の常識』なのだ。
遥か昔から続く、腐敗を通り越して発酵熟成した数々の習わしは、『掟』のひと言に集約される。
どのくらい昔かというと、平家の落人が隠れ住んだのが始まりとか(八百年以上前)、もっと遡って海戦で敗れた安曇氏が志賀川を遡ってを山奥に逃げてきたとか(継体天皇の時代で約千五百年前)、更に遡って神武天皇に敗北した大和の大王・長髄彦の一族が逃れてきた(約2700年前。皇紀)とか、諸説有りで何だかもう分からない感じだが、共通項がある。
それは、どのルーツであっても皆『歴史の敗者』だということだ。
その敗者達が、勝者の追っ手から身を潜め、外部との関わりを最小限にしてきた隠れ里。
…の診療所。
「絶対ヤバい案件だ…」
「ん?稔流、どうした?」
「ううん、何も」
こんな強烈な山奥の村に、週3日でも1日でも医者が来たがらないことくらい、まだ小学5年生の稔流にもわかる。
でも、現実的な母に相談せずに、お人好しでどこかほわほわと浮世離れした感じの父が既に引き受けてしまった以上「この話は無かったことに」とは言えない。
「今更断って、貴方の実家が村八分にされたら困るしねえ」
母の言葉が怖い。
村八分:火事と葬式 (二分)以外、全ての交流を断たれ除け者にされること
「元々、次の職場は田舎がいいって思っていたんだよ。空気が綺麗な方が稔流の喘息にはいいだろうから」
「田舎にも程があるけどね?あの村は、交通事故が二千日以上起ってないのを誇ってるくらい交通量が少ないから、排気ガスなんて有って無いようなものでしょうけどね?」
うわあ、行きたくない。
田舎はたまに行くからよいのだ。
旅行で行くのは楽しかったと、おぼろげに思い出した。
お祭りの日には、この村のどこにこんなに人がいたのだろうかと驚くほど賑やかだったり、冬は雪がたくさん積もっていて、近所(半径1キロ以内)の子供達と雪遊びをしたり。
(…あれ……?)
稔流は気付いた。
最後に天道村に家族で訪れたのは、稔流がまだ5歳、保育園の年長組の夏が最後だった気がする。
多くの家が長男、跡取りを手放したがらない中、稔流の祖父母は父には肉体労働よりも学問が向いているのだからと、農業は継がなくていいと送り出してくれたのだそうだ。
だから父は遠い田舎に残してきた祖父母を気遣い、年に一、二回は一泊であっても会いにゆき親孝行をしたいと思っていたはずなのに。
でも、稔流が5歳のお盆を最後に、両親は帰省の話を少なくとも稔流の前では一度も出さなかった。
思えば、不自然なことに、母がこまめに編集していたアルバムには、天道村で過ごした時の写真が一枚も残っていないのだ。
――――どうして、お父さんもお母さんも、村に行くのをやめてしまったんだろう?
きっと、意図的に避けていたのだ。
それなのに、5年の空白を経て稔流が10歳の今になって、父が旅行をすっ飛ばして村に『住む』ことを決めてしまったのはかなり唐突だ。
父はともかく、母まで「村八分よりはかなりマシ」と案外あっさり折れたのが、稔流は何かが引っ掛かる。
ただ、母は稔流が中学入試を念頭に塾に通っていたこと、そして小学校卒業まであと2年を切っているのに、友達と離れなければならないことだけは、父がうっかり忘れて再就職を決めたことには大層怒った。
本当に稔流の事情と父の実家の村八分だけが問題ならば、少し寂しいが父が何年か天道村に単身赴任すれば済む話だ。
学校にも、そういう家庭の子はちらほらいる。子供の教育環境として有利な都会に住んでいるのに、わざわざ僻地への転勤に子供を巻き込むのは、デメリットが大きすぎる。
なのに、当然のように僻地に行く方向に話が進んだのは……
――――お父さんとお母さんは、俺が知らない秘密を隠してる。
稔流は言った。
「いいよ、別に。…引っ越しても。」
父が村の医者になれば、村の人々の為になるのは確実だし、稔流の喘息は治る「かもしれない」と父は希望を持っている。
母は、稔流を最優先にするのが母親としての役目だと思っているが、善人すぎて危なっかしい父を単身赴任に送り出すのは心配だろう。
つまり、母が気にしている親の役目とは、大人の建前だ。
母の本当の心は、愛する夫に付いて行きたいのだ。
両親、村人全てが満足する答えは、『宇賀田一家が村で暮らすこと』なのだ。
満足しない、本当はイヤだと思っている我が侭な子供は、稔流ひとりだけだ。
――――だったら、俺だけ我慢すれば、諦めれば、みんな喜ぶんだ。
「……塾の代わりは通信教育でいいよ。友達とはいつでも連絡が取れるし、ゲームでも遊べる。でも、高校と大学は自分で選びたいし、中学を卒業したら村を出る。お父さんもそうだったんだからいいよね?」
これで、引っ越しが決まった。
とても、あっけなく。
――――どうして、今なら村に行ってもいいんだろう?
5年もの間、多分わざと、村から遠ざかっていたのに。
お父さんとお母さんは、一体何を避けていたんだろう?特に、お母さんは…
一体、何を怖がって、何から俺を守ろうとしていたんだろう――――?
「行けば分かるのかな…」
稔流は車の窓を開けて、盛夏の新緑がきらきらと散らす光に目を細めた。
これから向かう秘境の村について、ひとつだけ、稔流がはっきりと覚えている話がある。
天道村には、神様と妖怪がいるのだ。
人間の、とても近くに。
すぐそこに。
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